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哲学いろいろ

#199

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十三章 神はイエスを見捨てたまうたところで 復活を与えらえた

《わたしの威厳がとおりすぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう》。いま われわれは イエスの《過ぎ越し》の時にあたっている。

《十字架につけられる》

(参照箇所:マタイ27:32−44 マルコ15:21−32 ルカ23:26−43)

こうして かれらはイエスを引き取った。イエスは 自分で十字架を背負い いわゆる《されこうべの場所》 すなわちヘブライ語ゴルゴタという所へ向かった。その場所で かれらはイエスを十字架につけた。また イエスと一緒にほかの二人をも イエスをまん中にして両側に 十字架につけた。ピラトは捨て札を書いて 十字架の上に掛けた。それには 《ナザレのイエス ユダヤ人の王》と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は
都に近かったので 多くのユダヤ人がこの捨て札を読んだ。この捨て札は ヘブライ語 ラテン語 ギリシャ語で書かれていた。すると ユダヤ人の祭司長たちがピラトに
  ――《ユダヤ人の王》と書いたままにしておかず 《この男は〈ユダヤ人の王〉と自称した》と書いてください。
と言った。しかし ピラトは 
  ――わたしの書いたものは 書いたままにしておけ。
と答えた。
さて 兵士たちは イエスを十字架につけてから その服を取り 各自に一部分づつ渡るように四つに分けた。下着も取ってみたが それには縫い目がなく上から下まで一枚織りであった。そこで
  ――これは裂かないで 誰のものになるか くじ引きで決めよう。
と話し合った。こうして

かれらは自分たちでわたしの服を分け合い
わたしの衣服のことでくじを引いた。
詩編22:18)

という聖書の言葉が実現した。兵士たちは 実にこのとおりにしたのである。イエスの十字架のそばには その母と母の姉妹 クロパの妻マリアとマグダラの案リアとが立っていた。イエスは 母とそのそばにいる愛する弟子とを見て 母に
  ――婦人よ この人はあなたの子です。
と言った。それから弟子に
  ――このかたはお前のお母さんです。
と言った。そのときから この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
ヨハネによる福音19:17−27)

この《十字架につけられる》というくだりについて 他の共観福音書に ほかにいくらかの注意すべき事項が見られるが ここでは そのまま このように ヨハネに従って イエスは十字架につけられたのだと理解したい。マルコ福音書によれば 《イエスを十字架につけたのは 午前九時であった》と知られる。次の段落《イエスの死》が 昼の十二時からの出来事として記されているから その間の情況であると 上のヨハネの記すところについてまづ 捉えられる。ヨハネによれば 十字架上にイエスを置いて ピラトとユダヤ人祭司長たちとの間に 記されたような会話があり また 兵士たちの行動があり そして イエスが母を 愛する弟子ヨハネに託すということが起こった。このように理解することができる。
また 基本的に言って この後 《イエスの死 / わき腹をやりで突く / 墓に葬られる》の三つの段落を残しているが すべては総督ピラトとユダヤ人祭司長たちとの裁判で 死刑の判決が渡された時点で 史観の原理が見られた。そして方程式が人間の手による展開として成就したと理解したい。

  • さらにその後の復活(ヨハネ20:1−21:25――これらは すでに見た――)も 人間の出来事であるが それは神の手によって実現したのである。もちろん 主観の問題とみるのだから 規定して固定することもないが。

そこで

《イエスの死》

(参照箇所:マタイ27:45−56 マルコ15:33−41 ルカ23:44−49)

この後 イエスは すべてのことが今や成し遂げられたことを知り 
  ――のどが渇く。
と言った。こうして 聖書の言葉が実現した。そこには 酸っぱいぶどう酒のいっぱい入った器が置いてあった。人びとは このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け イエスのもとに差し出した。イエスは このぶどう酒を受けると
  ――成し遂げられた。
と言い 頭を垂れて息を引き取った。
ヨハネによる福音19:28−30)

マタイによれば 

さて 正午になると 地上全体が暗くなり それが三時までつづいた。三時ごろ イエスは大声で叫んだ。
  ――エリ エリ ラマ サバクタニ
これは 《わが神 わが神 なぜわたしをお見捨てになったのですか》(詩編22:1)ということである
(マタイ27:25−26)

と知りうる。これは われわれの史観の方程式の一つの基軸として 欠かせない表現である。もっとも この上のヨハネによる記述で その同じことが つまり 不条理としか思えないかれの死 または人間の目から見て人間社会の動きとしてはむしろ必然性とも思えるようなかれの死 この死が 神に見捨てられたものであることは 明白である。また イエス自身が 《成し遂げられた》と言ったのなら ここに神の愛があり 神によってみちびかれて来たことを証ししている。あるいは 自己が自己をみいびいて来たそのことが 神に支えられてであったことを物語る。しかしすべてこれらは神のみわざであることが告知されるために 人間キリスト・イエスは 《のどが渇く》と言って死を死んだのでないならば――確実に死んだのでないならば―― 史観の方程式はあいまいなものとなり まして史観の原理は見られ得べくもないであろうと言わねばならない。(のどが渇くというのは 人間の経験的なことである)。
第一のアダムの エデンの園の善悪を知る木が 死の木であったとするなら この死の木のアウフヘーベンのために 死の十字架につき この死の十字架を 真正の生命の木として告知するために これ以外にこれ以上にふさわしい手段が考えられたであろう。というのが われわれの一つの〔聖霊なる保証金を受け取るという〕領収証である。
このイエスが 《頭を垂れて息を引き取った》とき 類としての人間は いやこんな言葉はどうでもよく とにかく人間は 新しい歴史(新しい歴史時間)に入ったのである。すべてが 《成し遂げられた》から。《成し遂げられた》のなら まだ何か残っている神のみわざは すでにないのである。われわれは この上なく安全に この木の船に乗ることができる。信じる者には助けとして 不敬虔な者には証言として。

《イエスのわき腹をやりで突く》

その日は 《準備の日》であり その翌日は特別の安息日になっていた。それで ユダヤ人たちは 安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために 足を折って取り降ろすように ピラトに願い出た。そこで 兵士たちがやって来て イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と もう一人の男との足を折った。イエスのところに来て見ると すでに死んでいたので その足は折らなかった。しかし 兵士の一人がやりでイエスのわき腹を刺した。すると すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており その証しは真実である。その者は 自分が真実を語っていることを知っている。それは あなたたちも信じるようになるためである。これらのことがあって 

その骨は一つも砕かれない。
出エジプト記12:46 民数記9:12)

という聖書の言葉が実現した。また 聖書の別の所で

かれらは 自分たちの突き刺した者を見る。
(ゼカリア書12:10)

とも言っている。
ヨハネ19:31−37)

《兵士の一人がやりでイエスのわき腹を刺すと すぐ血と水とが流れ出》で  人間イエス・キリストは 死んでいたのである。《その骨は一つも砕かれず》に とにかくイエスは 人間として ここに死んだのである。すでに そのあとの復活はこれを われわれは論議したが 死んだから復活したのである。一たんは死んで 生き返ったのではない。人間が全的に死んだのである。イエスは 死んだのである。
(つづく→2007-12-02 - caguirofie071202)