caguirofie

哲学いろいろ

#192

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十九章 イエスの死――ふたたび第一の基軸――

史観の方程式 《第一の死‐復活‐第二の死の方向転換》にかんして 三つの基軸について これまで次のような構成において述べて来ました。
人間の貌としては 第一の基軸である《死》から出発しつつ その三つの基軸の全体を 第三部の後半 すなわち その第五章ないし第七章までにおいて これを取り上げた。
神の貌としては 第三の基軸である《第二の死の方向転換》を 固有な意味で可能にする《聖霊なる愛なる神》 を中心に据えて この第四部の前半すなわち その第一章ないし第十五章までにおいて および この《聖霊の 父と子による派遣》という事項について つづく第十六章ないし第二十四章までにおいて それぞれ考察した。
また同じく神の貌として 第二の基軸である《復活》にかんする事項を中心として 全体としてを つづく第二十五章ないし前章すなわち第二十八章までにおいて 見た。
次に この章以後では ふたたび《死》について しかも神の貌としてへの視点を摂り入れながら イエス・キリストの死にかんして 取り上げて論議したい。もしさらに余裕があれば 神の貌としての第三の基軸すなわち《イエス・キリストの高挙(アマアガリ)》を観想しつつ これにつらなる人間の貌を 論議して 聖霊なる神の時代をしめくくることとしたい。このように考える。


もう一度重ねて振り返っておくならば 第三部の前半すなわちその第一章ないし第四章までにおいて考察した 史観の諸原則および理論の諸原則を前提として 史観の展開にかんする方程式(その一般)について その後のここまで および これから以後 最後までにおいて論議したことになる。くどくなるが 主眼は 第一部《第三の誤謬について》および第二部《唯物史観への批判》にある。むろん 批判という姿勢ないしその批判の批判という内容にあるのではなく ともに《虚偽を内的に棄てる》ということにある。言いかえると《何が神でないか》をむしろ共同主観することにあるとも言える。そして その後の第三部第四部は 第一部第二部の主張するところの論拠――観想的な論拠――の確認である。なお念のため言い添えるなら ここでは 現代という視点に重点を置いたので きわめて論争的なかたちで論議しており また それでなくとも論争をよぶことになろうかと思われるが 筆者の意図は 論争をよぶ・呼ばないを別としても たとえばこのように 現代の視点に立って キリスト史観ないし史観が 論議されること これを望むということにある。或る意味で私的なことがらであるが そうである。


ここでは イエス・キリストの死にかんして やはり同じくヨハネによる福音を読むことにする。すなわち 先に見た最後の夕食の記事(《第十三ないし第十七章》)とのあいだの二つの章が それである。
さて イエスは 最後の食事を終え ひとり祈っておられた。その祈りにおいて――

《裏切られ 逮捕される》

(参照箇所:マタイ26:47−56  マルコ14:43−50 ルカ22:47−53)

こう言ってから イエスは弟子たちと一緒に キドロンの谷の向こう側へ出かけて行った。そこには園があり イエスは弟子たちと一緒にその中に入った。裏切り者のユダも その場所を知っていた。イエスは たびたびこの場所で弟子たちと集まっていたからである。それでユダは 一部隊の兵士と 祭司長たちやファリサイ派の人びとの遣わした下役たちとを引き連れて そこにやって来た。かれらは 松明やともし火や武器を持っていた。イエスは自分の身に起こることを何もかも知っていたので 進む出て 
  ――誰を捜しているのか。
と尋ねた。かれらが 
  ――ナザレのイエスだ。
と答えると イエス
  ――それはわたしだ。
と言った。裏切り者のユダもかれらと一緒にいた。イエスが 《それはわたしだ》と言ったとき かれらは あとずさりし 地に倒れた。そこで イエスがもう一度
  ――誰を捜しているのか。
と尋ねると かれらは 
  ――ナザレのイエスだ。
と答えた。イエスは言った。
  ――それはわたしだと言ったではないか。だから わたしを捜しているのなら この人びとは去らせてくれ。
こうして 《お与えになった人を一人も失いませんでした》と言ったイエスの言葉が実現した。シモン・ペテロは剣を持っていたので それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコであった。イエスはペテロに 
  ―剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は 飲むべきではないか。
と言った。
ヨハネによる福音18:1−11)

まづ 二点について 他の福音書を参照しておこう。一つは 《わたしを捜しているのなら この人びと(弟子たち)は去らせてくれ》に対して 《そのとき 弟子たちは皆 イエスを見捨てて逃げてしまった》(マタイ26:56 ルカ14:50)。
もう一つに 《〈誰を捜しているのか〉と尋ね・・・〈それはわたしだ〉と言った》に対して

裏切り者のユダは 《わたしが接吻するのが その人だ。それを捕まえろ》と前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り
  ――先生 こんばんは。
と言って接吻した。イエスは 
  ――さあ しようとしていることをするがよい。
と言った。
(マタイ26:48−50)(また同様のものが マルコ14:43−45およびルカ22:47−48)

まづこれら二点の記述(表現)の異同にかんしては おそらく それぞれの対照的な両者一組づつが 真実であろうと考えられる。はじめの一点 《弟子たちが 事実として逃げた》ことは 《イエスの〈去らせてくれ〉と言った》ことと相まって 史観の方程式の成就へと向かっていた。使徒ヨハネらは そのように解することになり 実際 そう理解していた。また 次の一点で ユダから積極的に裏切りの行為が発せられたにしろ イエスがむしろ これを受け取るかのように引き受け 積極的に言葉をかけたにしろ ユダの〔イエスに対面しての〕かれ自身の史観は ここで 第二の基軸である《復活》に向かうべく その頂点に達していた。ユダにとっては 他の弟子たちが 前章までに見たように イエスの死後 その復活〔そしてかれら自身の復活の基軸に達するかたちとは違って またそれらより早く 復活が訪れた。復活後のユダについては すでに《使徒行伝(1:18−19)》から見たように 《第二の死(裁き)》につらなったわけであるが マタイが これを同じく次のように記している。

そのころ 裏切り者のユダは イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し 銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして 
  ――わたしは罪のない人の血を売り渡し 罪を犯しました。
と言った。しかしかれらは 
  ――われわれの知ったことではない。お前の問題だ。
と答えた。そこで ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り 首をつって死んだ。
(マタイのよる福音27:3−5)

身体の死 史観の方程式の最後のかたち が問題ではないであろう。首をつって自殺したこと自体が 問題ではないだろう。(それは ペテロらが殉教というかたちで そしてヨハネはそうではなく老衰死まで長らえたというかたちで それぞれ死んだことが 問題ではなかったように)。史観の方程式の成就 つまりそこに史観の原理なる神を見得て アマアガリを為し 第二の死の方向を転換することができるか(だから 身体の復活を含めよ) ここにかかっているということ。そうして これらは キリスト・イエスの死の契機にかかわって 基本的に推移したということ これである。
それでは ここであたかもユダ以上に イエスに敵対した祭司長たちや長老たちユダヤ人のその方程式はどうであるのか。これについては 史観の方程式を 一般に ユダヤ人全体というやしろなる共同主観の領域に拡げ またその歴史的時間を 後世へとおおきく取るかたちで それが 成就することになったと捉えることができる。パウロによれば このことを
次のように把握することができる。

ユダヤ人がつまづいたということは 倒れてしまったということでしょうか。けっしてそうではありません。かえって かれらの罪によって異邦人に救いがもたらされることになりましたが それは かれらを奮起させるためだった。
(ローマ書11:11)


兄弟たち 自分を賢い者とうぬぼれないように 次のような救いの隠れた計画をぜひ知ってもらいたいと思います。この計画とは 一部のイスラエル人がかたくなになったのは 異邦人全体が救いに達するまでであり その後 全イスラエルが救われるということです。聖書に次のように書いてあります。

救うかたがシオンから来て
ヤコブから不信心を遠ざける。
これこそ わたしが かれらの罪を取り除くときに
かれらと結ぶわたしの契約である。
イザヤ書59:20−21)

福音との関連からすれば イスラエル人は あなたたちのために神に敵対していますが 神の選びとの関連からすれば 先祖たちのおかげで神に愛されています。あなたたちも かつては神に不従順でしたが 今はかれらの不従順によって神からのあわれみを受けています。それと同じように かれらも 今はあなたたちが受けたあわれみによって不従順になっていますが それは かれら自身 今もあわれみを受けるためなのです。
(ローマ書11:25−31)

このように考えるならば ここで イエスが あらかじめそう欲しられてのように 裏切りに遭い 逮捕されるというこのくだりにおいて まづは 史観の方程式が 類型的な歴史的時間の中にどのように推移するかということの その問い求めの場所を 見出すことになるだろう。なぜなら 歴史的時間の中の方程式の展開は 当然のごとく 人間にとって 具体的な個々の展開を知る・ないし予知することによって 成されるというものではなく 類型としての歴史的時間が またその方程式の展開過程が あたかも人間の三一性(その把握が 理論である)として 明らかにされるというものであるから。人間は この三一性をも用いる――また それは 主観〔の主体的な行為〕においてであり そうであるからには その愛〔の主体〕という行為責任の中で 賭けないしは実験であることを免れない。少なくとも 試行錯誤の過程である――ということになる。
ともあれ イエスの死は このようにして始まった。かれのこの死を契機にして おおきくは ユダヤ人および異邦人の その後 現代にまで至る歴史的時間の視点をもって ここでは 祭司長らの方程式展開を焦点としつつ 次章へつなぎたい。
(つづく→2007-11-25 - caguirofie071125)