caguirofie

哲学いろいろ

#191

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十八章 アマアガリから共同主観へ

このほかにも イエスは弟子たちの前で 多くのしるしを行なったが それはこの本に書かれていない。これらのことが書かれたのは あなたたちが イエスは《神の子》メシアであると信じるためであり また 信じてイエスの名により生命を受けるためである。
ヨハネによる福音20:30−31)

とづづけて ヨハネは《本書の目的》を記し そのあとさらに 《第二十一章》を追加して そこに三段を宣べ伝えている。
まづその第一段は あたかも 読みようによっては そのイエスの復活が嘘であるかのように語っている。

《イエス 十人の弟子に現われる》

その後 イエスはティベリア湖畔で また弟子たちに現われた。現われた次第は
次のとおりである。
シモン・ペテロ ディディモと呼ばれるトマス ガリラヤのカナ出身のナタナエル ゼベダイオスの子たち それに ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペテロが 《わたしは漁に行く》と言うと かれらは 《わたしたちも一緒に行こう》と答えた。かれらは出て行って 舟に乗り込んだ。しかし その夜は何も捕れなかった。すでに夜が明けるころ イエスが岸に立っていた。しかし 弟子たちは それがイエスだとはわからなかった。イエス
  ――お前たち 何か食べるものが捕れたか。
と尋ねると かれらは
  ――だめでした。
と答えた。するとイエスは言った。
  ――舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはづだ。
それで 網を打ってみると 魚があまり多くて もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛していたあの弟子がペテロに 
  ――主だ。
と言った。シモン・ペテロは《主だ》と聞くと 下に何も着けていなかったので上着をたく込んで 海に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて 舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて 陸に上がってみると 炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり パンもあった。イエス
  ――今 捕った魚を何匹か持って来なさい。
と言った。シモン・ペテロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると 百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。そんなに多く捕れたのに 網は破れていなかった。イエス
  ――さあ 来て 朝の食事をしなさい。
と言った。弟子たちはだれも
  ――あなたはどなたですか。
と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て パンを取って弟子たちに与えた。魚も同じようにした。イエスが死者の中から復活したのち弟子たちに現われたのは これで もう三度目である。
ヨハネによる福音21:1−14)

ここでは 《弟子たちは この岸に立っていた人が 魚の捕れたあとには ヨハネが〈主だ〉と言ったごとく イエスであることを知っていた》。あたかも方程式の過程を終えてのごとく これを捉え また 《あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。・・・私の威厳が通過するやいなや あなたは岩の上に立つであろう。私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう》(出エジプト記33:20−23)と言われるごとく この方程式の展開を見るように かれらは その人が イエスであることを知っていた。《これで もう三度目》なのである。《シモン・ペテロは 〈主だ〉と聞くと 下には何も着けていなかったので上着をたくし込んで 海に飛び込んだ》のである。
そうして 次の段落では イエスが ペテロを《岩》し 派遣するというくだりをヨハネは伝えている。歴史的時間における この使徒職としての職務が かれの個人的・具体的な史観としても 与えられるのである。同じ岸辺の場所で――

《イエスとペテロ》

さて 食事が終わると イエスはシモン・ペテロに
  ――ヨハネの子シモン この人たち以上にわたしを愛しているか。
と聞いた。ペテロが 
  ――はい 主よ わたしが愛していることは ご存じです。
と答えると イエス
  ――わたしの羊を飼いなさい。
と言った。
二度目にイエス
  ――ヨハネの子シモン わたしを愛しているか。
と聞いた。ペテロが
  ――はい 主よ わたしが愛していることは ご存じです。
と答えると イエス
  ――わたしの羊の世話をしなさい。
と言った。三度目にイエス
  ――ヨハネの子シモン わたしを愛しているか。
と聞いた。ペテロは イエスが三度目にも《わたしを愛しているか》と聞いたので 悲しくなった。そして答えた。
  ――主よ あなたは何かもご存じです。わたしが愛していることを あなたはよく知っておられます。
エスは言った。
  ――わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておきたい。お前は 若いときは 自分で帯を締めて 行きたい所へ出かけていた。しかし 年をとると 両手を伸ばして 他の人に帯を締められ 行きたくないところへ連れて行かれる。
ペテロがどのような死に方で 神の栄光を現わすようになるかを示そうとして イエスはこう言ったのである。このように語ってから イエスはペテロに
  ――わたしについて来なさい。
と言った。
ヨハネによる福音21:15−19)

ここでは ペテロという一個人の史観が すでにその一生涯という線分として 前もってのように 示され捉えられたことを語っている。これは ありうることである。ほんとうのバプテスマと あの真正のアマアガリを予感するこの地上のアマアガリの時間において その以前と以後の各生涯の部分を それぞれいわば前史と後史とするかのように――そしてその両者全体が いわば本史である―― またそう決められたかのように 観想することは ありうることである。職業が変わってゆくことがありうるとしても そのかれの職務(召命)が 定められること これは たとえば三十歳のころに ありうることであろう。
そして ここでは 一般に ヨハネによる福音がイエスについて総合的に捉えて述べており 他の三つの共観福音書が より具体的であるというかたちに反して この箇所はむしろ他の福音書のほうが 一般的な述べ方をする。

《弟子たちを派遣する》

その言葉として たとえばマタイは こう記す。

エスは・・・こう言った。
  ――わたしは天と地のいっさいの権能を授かっている。だから お前たちは出かけて行き すべての民族をわたしの弟子にしなさい。そして かれらに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け お前たちに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで いつもお前たちと一緒にいるのである。
(マタイによる福音28:16−20)

ヨハネによると 《わたしの羊の世話をしなさい》と。
また 《ペテロがどのような死に方で 神の栄光を現わすようになるかを示す》ことがらとしては 《年をとると 両手を伸ばして 他の人に帯を締められ 行きたくないところへ連れて行かれる》と言って そうして むしろ殉教というかたちで その真正のアマアガリへとみちびかれると語られたのである。(殉教の時代が 基本的に 終わったことは すでに述べた)。
しかし 殉教であるにせよないにせよ この巡礼の終えられる個々の方程式が しっかりと岩の上に立ってのように把握され(むろん 具体的な過程のことを言っているわけではない。ということは 共同主観の共同性のほう・つまり 方程式の原理じたいという一つのことが示されるだけということにもなるが 事実そうだが 同じく 個々の職業とのかんれん または個々の職業の中でのそれぞれ具体的な・ただし大きな課題といったようなもの これが 前もって把握され) 展開されることにまさって 永遠の生命が約束されるという史観が ほかにあるだろうか。

  • 逆説的に このように言いうるであろう。だから人は 世代の連結の永続性といった人間の類としての永遠に 基本的には 意志の目的と休息を見ることはできない。かれ一世代の生命の永遠によってむしろ これを為しうるのである。むろんこのことが 類としての人間を 軽視することにはならない。つまり 言うべきこととしては コミュニスムは この各主観〔のやしろにおける関係〕の中に各主体ごとに 樹立されることが 基本である。それは やしろ的ではあっても スサノヲ圏・市民社会としての類的な何らかの形態像においてでもさらになければ また 将来すべき栄光ではあっても 《いま〔現在の各主観〕が恵みの時 いまが救いの日》でないことはないと 基本的に 解しなければならない。

ペテロを含めて他の弟子たちが けっきょく皆 殉教というかたちで 史観の方程式をまっとうし 神の栄光を現わす・つまり自己がまさしくアマアガリするということになったのに対し なかでヨハネだけは ちがう結果となった。そしてこれは また 史観(生)の終えられるその最後の瞬間の問題ではなく 史観がいま生きられるろの時間の問題である。ヨハネは そのみづからの史観天愛のかたちについて触れ 最終の段落で 次のように記す。

《イエスとその愛する弟子》

ペテロが振り向くと イエスの愛していた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は あの夕食のとき イエスの胸もとに寄りかかったまま(ただし これは 当時の食事の習慣として 坐って 半ば寝転がるように食事をとるかたちから 隣りの人の胸元に寄りかかるようになることがありうるというほどの意味。そうでなくとも 別にかまわないが) 《主よ 裏切るのは誰ですか》と尋ねた人である。(つまり ヨハネは 自分のことをこう記す)。ペテロはかれを見て(――自分の最後が 上に見たように 示されたのに対して――)
  ――主よ この人はどうなるのでしょうか。
と聞いた。イエスは答えた。
  ――わたしの来るときまでかれが生きていることを わたしが望んだとしても お前になんの関係があるか。お前は わたしについて来なさい。
こういうわけで この弟子は死なないといううわさが兄弟たちのあいだに広まった。しかし イエスは かれは死なないと言ったのではない。ただ 《わたしの来るときまで かれが生きていることを わたしが望んだとしても お前になんの関係があるか》と言ったのである。
これらのことについて証しをし これらのことを書いたのは この弟子である。わたしたちは その証しが真実であることを知っている。
エスの行なったことは このほかにも まだたくさんある。もしも その一つひとつを書くならば 全世界も その書かれた本を収めきれないであろうと わたしは思う。
ヨハネによる福音21:20−25)

ヨハネが死ななかったのではない。ましてや ペテロは途中なかばで 挫折するかのように 殉教したのではない。史観の方程式の展開が 各主観ごとに 異なっており 基本的に 《他人になんの関係があるか》と言われるほどに それらは キリストの肢体において 共同主観なのである。《陶器が 焼きもの師に なぜこのように造ったのかと反抗することができない》ように 各主体の史観はその中で 完結している。そうでなければ 共同主観たりえない。また 永遠の生命というのも スサノヲ語において これを見られ得ないし 説き得ない。(もちろん 方程式の展開が 各主観ごとにちがうというのは その無関係というのは 各主体ごとの〔それぞれの一世代での〕完結性を言っている)。
また 《イエスの行なったことの一つひとつを書くならば 全世界も その書かれた本を収めきれない》というように キリストの肢体は この歴史的時間の構造いっぱいに満ちみちており それが共同主観から成るからには・成るからこそ それぞれの個体において 完結しているのでないなら 永遠の生命という 死の克服は ありえない。すなわち 《第一の死‐復活‐第二の死の方向転換》という方程式は やしろにおける関係錯綜の中で かつ各固体の内なるやしろにおいて 歴史的時間となるのは この完結すべき史観によってである。
こうして 人間の側からは 第三の基軸である《第二の死の方向転換(アマアガリの 予感としての時間)》を むしろ中心として・初めとして 三つの基軸の方程式展開を 捉えることができる。このような人間の科学が 起こるべきであると考える。
(つづく→2007-11-24 - caguirofie071124)