caguirofie

哲学いろいろ

#51

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第六節b 史観は共同主観であるということ

ですから 唯物史観は 後者すなわち 《木や草やわらで建てる者〔として 火をくぐって来た者のように すくわれること〕》の主観を 否定するようにして 放棄したのです。
ですから 前者すなわち《〔火によって吟味され その仕事が焼けずに残ると言われる〕金や銀や宝石で建てた者》の主観はこれを 将来の(まさに来るべき)・未来の(いまだ来ざる)或る時点としてかれらが勝手に考える《あの裁きの日》に置いたのです。つねに そう置いているのです。しかし この《あの裁きの日》が キリストが死から 聖徒たちに 復活したまうたことによってのごとく まさにこの《火》とともに いま・または この現実に《この人生(だから主観)の期間内に果た》されないとことはありえないのです。というのは あたかもキリストの復活が使徒たちの人生の終わりに・もしくは かれらのその死後に 成ったのではないようにです。これが 人生であり 主観であり 時間であり 時間的な存在であり いのちであり 生命であり 共同主観であり 史観なのです。
第三の種類の病いは 人間キリストの復活を信じることが 人間にとって恥づかしい行為であると思うかのごとく 人間キリストの復活が 科学(アマテラス概念)〔のみ〕によっては捉えられないのだと そのこと自体を世界の全体とするかのごとく 誤れるところに自己の存在の根拠を問い求め すべてこの史観・主観・時間・いのち・人生を 放棄するがごとく寄留し 時に停滞するのです。アマテラス概念だけでは捉えられないというのは 当然だと考えられます。人は《もっぱらのA者》としてではなく 《S者‐A者》連関の主体として これを火の試練にあってのごとく 生きた全体として 主観形成してゆくのだからです。
もしくは 裏返しにキリストを着ているとも考えられます。

  • フォイエルバハの《キリスト教の本質》は この一典型です。かれを 唯物史観者の一典型であると主張するのではありませんが。ただ日本人の唯物史観者には このような類型がしばしば見られると考えられます。またマルクスは そのような唯物史観者の類型を 容易に その読者の中に 作り出すとでも言うような表現形式を採ったと考えられるゆえに。
  • もう一度 言い添えておくなら このような類型の唯物史観者は キリストの復活を 少なくとも原主観・原始コミュニスムの復活・再獲得とでも言った一方程式にそれをなぞらえてのように 信じているのです。ただ この復活――永遠のいのち――つまり人間キリスト・イエスその人を 信じるというのではなく それは アマテラス概念・科学によってのみは解明されがたいであろうという一つの論拠のほうを 信じていると考えられねばならないでしょう。それは キリスト史観を あたかも裏返し可能な外套ででもあるかのように 着ていることになる。こう思われたのです。

しかしわれわれの時代においては 真理はただ不道徳性(――反共同観念性――)であるばかりではない 真理はまた非学問性なのである。すなわち真理は学問の果て( Grenze )なのである。
ちょうど ドイツのライン河の航行の自由が《海に至るまで》のびているにすぎないのである。学問が真理に到達し真理になるところでは 学問は学問であることをやめ警察の対象(――共同観念的な共同自治の掟のあたかも違反――)になる。すなわち警察が真理と学問との間の境界なのである。真理であるのは人間〔キリスト〕であって 《抽象的な理性 Vernunft in abstracto 》(――つまりアマテラス概念――)ではない。また真理であるのは生命であって 紙の上に止まっている思想 自分にふさわしい全実存を紙の上にもっている思想ではない。それ故に 直接に筆から血へ移行し理性から人間へ移行する思想はもはやなんら学問的な真理ではない。学問とは本質的に単に怠惰な理性がもっているところの害にはならないが しかしまた役立たない遊び道具にすぎない。学問とは・・・。
フォイエルバッハキリスト教の本質 第二版への序言 船山信一訳。括弧内は引用者。)

ちなみに いま――唯物史観についてからは少し離れて―― 第二の種類の誤謬には つまり 心・魂を存在の根拠とする種類の病いには この魂の永遠を 自己の主観として いわゆる《怨霊史観》を説くばあいがあります。
これは キリストの死からの復活が 他の生きた人間において成ったと言うのではなく 誤れる推理によって 《いのち・主観・史観・人生・時間》はすべて 死(死後)においてはじめて 魂・霊しかも怨霊となって存在するのだと捉えている。すなわち 一方でかれらは 共同観念的な現実(やしろ)の支配関係(A‐S連関体制のもとの共同自治の様式)のみが 現実であるとし もう一方で この現実を脱け出したとき(つまり 肉の死ののち)はじめて 《主観》の現実が獲得されるのだと しかもそれは あの《楽園》の獲得ではなく かれが怨霊という現実となって 後世のやはり仮りの現実の世界の人間に《たたる》ことを為しうれば 人間は《いのち》を与えられて 生きると言おうとしている。これは 病いであります。また これは まさに アマテラス予備軍にある人びとが罹る病いです。
この史観は まづ 史観でも何でもないことは おそらく明瞭であろうし そもそも このような考え方においては 人間が身体として生まれて 何の恵みを持って生きているかと問い返すだけで十分でしょう。つまりかれらは その・そもそも史観を形成しない考え方において 現実は――ともかく現実は―― 共同観念が支配し(《鉄格子の世界》であり) そこでは やしろの支配関係つまり《A‐S》連関関係のさまざまな梯子をよじ登って――つまり人間への支配に熱心なほどに かれら自身 支配欲に支配されつつ よじ登って―― 晴れてと言おうとするかのごとく A圏の住人となるなら この世の楽しみは自分のものだと考えているのです。
この楽しみを熱望するほどに これにしがみつき そしてあのよじ登って来た段階では 他の人間の死を踏み台にして来たとするなら この死者の霊のたたりという概念に すべてのかれの苦痛(火の試練)の原因を帰するのです。自分とは関係のないところの死者にも もしその死者が 何らかのいけにえとなるがごとく不幸な死を死んだ場合には これを持ち出して来て 何らの関係づけで つじつまを合わせるごとく 怨霊のたたり説を固持して まったくの魂の脆弱と邪悪とによってのように この火の試練を避けるのです。むろん耐えるのです。かれらは A圏の住人となった(共同観念的にアマアガリをした つまりもっと言うならば 神々の一人となった)からには もはや人生の苦痛はないものと思いこんだがごとく あくまで 主観形成を放棄するのです。
放棄して あたかも空気のような身体をもってアマテラス者となるとその威厳を持つことが 主観形成だと思うのです。また 怨霊史観を そのアマテラス概念によって 空虚な思弁を用いて 理論づけ S圏の住民にこれを説き その支配関係の 蜃気楼閣の 力によって おしなべて共同の観念となし そのA‐S連関形態を 保守する。ある程度古くからのA圏の住人であれ S圏から新しくアマアガッタ住人であれ この共同観念世界の現実(かれらは仮りの現実と言うかも知れない。また そのほんとうの現実というものが今は無いとまことしやかに言うとき そのいま)に すべてを心中させてのように 泳いでいるのです。
《怨霊史観》の提出は そのように主観形成を放棄した人びとの自己保身の一環であります。または かれら現行のA圏に媚びを売って 自己がA者として認められたいがための アマテラス予備軍(不従順の子ら)の自己放棄の一手段なのです。われわれは この共同観念の世界に寄留しています。また この寄留の形態を変えよ と言います。唯物史観は この寄留という主観を放棄して 共同観念〔の元凶〕を抹殺せよなどと説きます。唯物史観が 権力をも握ったなら 共同観念が現実からは排除されて(――それがあの《裁きの日》だと思っている――) 《楽園》そのものが 実現すると考えています。そしてわれわれは これらすべて 共同観念としての概念の構成 この限りでのアマテラス予備隊の思惟を枠を出ないと言います。


そこで《史観が共同主観である》ということは わたしたち一人ひとりが ともに このわたしあちの内なる病いから癒えて 史観として立つことです。
もし 十字架上のキリスト〔とその死から復活したまうたかれ〕が わたしたちの人間の存在の根拠であるとしたなら かれを飲みまつるごとくかれに属く人びとは 約束されていたと言ってのように 原理的に これら病い(それは 根拠を問い求める際の理論・主観 の病い)の原因からあますとことなく癒えて しかもこれら病いをかつては自分のもの(善)と思いこみそう生きていたその《旧き人》は 時間過程的に 自己の主観形成において 日から日へ 新しき人へ変えられてゆくのです。そしてここに あの《火の吟味》つまり試練が伴なわれないというわけではないのです。
だから われわれ人間の身体に神の聖霊が宿ると約束されたことが 原理的に言われたものであるとするなら(――そしてそれは 同じく 時間過程的にもそうであると言わねばならないと思われるのですが――) もしそうだとするなら 試練といった時間過程的な《火〔の吟味〕》とともに この《火》が現実であるというほどに 原理的に言って(この現実の《火》をとおして見ようとするというとき) 《あのさばきの日》も ここにすでに 現実であるのです。
ここにおいて もしくは ここをとおして わたしたちは 共同主観を形成してゆくことになります。これによって 共同観念的な解放・解決・治療という〔もしこれを根拠にするなら誤謬となるその〕誤謬から 癒されつつ しかも この共同観念現実の形態を 少しづつにしろ あるいは形態として一挙ににしろ 神の国(共同主観夢)の社会現実的な基盤をも備えるごとく 変革してゆくことになります。
唯物史観への批判は これでひとまづ終わることになりますが もしかれらが わたしたちには《万国にプロレタリア 団結せよ》といった標語がないと言って嘆くとするならば わたしたちは 或るあわれみの職務を引き受けてのように わたしたちには 《世界のインタスサノヲイスト 団結せよ》の言葉があると述べ伝えて かれらの病いを癒して(裏返しを裏返して)あげなければならないでしょう。もし キリスト史観として語るべきことがらが なお在るとするなら 主題ないし視点を変えて つづけたいと思います。
(つづく→2007-07-06 - caguirofie070706)