#45
もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第二部 唯物史観への批判
第二章 史観が共同主観であるということ
第三節b 国家形態に対する共同主観の形成
《もし正義を欠くならば 国家とは 盗賊のむさぼり行為と違わない》というときの《正義(法)》とは 空想的な概念ではなく まづこれを《律法》と解すれば 共同観念の範型(禁止と自在との経験的な法則)であり アマテラス者の側に立った史観である。(アマテラス者は この史観を生きる。アマテラス予備軍は みづからは空中に生きるようにして この史観を理論化して 補強する)。
また むろん この《正義(法)》は われわれの愛する・人間の愛さずにはいられない・共同主観の原理(神の律法)であることをも 意味表示する。共同主観が 国家成立のはじめ また それ以前の前古代市民的な掟・律法のはじめに 人間の内に存したことをも 意味表示している。というのが われわれの共同主観史観であった。
われわれは 次のように この議論を締めくくろう。
もしこれによって 人間の言葉として言い過ぎがあったとしたなら それはすでに 真理なる聖霊が――言い過ぎだとそれが理解された限りにおいて―― われわれの身体の内に降ったのである。(という表現になる)。もしそうでないならば――しかしわれわれは この主観を 真理への道と主張するのであるから―― これによって われわれのいわゆる学問は 次の時代へ新しい出発を開始するであろう。
人間の理性的な生きた史観は この史観を生きることにあって 神(一人ひとりに神がある)の礼拝が 人間の知恵であり 悪を遠ざかることが 人間の知識である。このとき対比させる意味では 悪魔が出される。《真理の中にいなかった》悪魔が 神の計画(つまり 原理的な史観)のなかに この計画(はかりごと)に属く人間のともがらによって 鎖につながれるということは かれの空中の権能に支配され これに寄り頼む人びとが この悪魔の側に陥りこむという事態さえ 考えられる。表現としては 永遠の火の中に投げ込まれるかのごとくに。
- 現実に心は燃えても――火の中にあっても―― 身体は――永遠に――燃えないということは起こりうるようである。
身体(また 観念)共同夢が――つまり 国家は そのひとつの骨格をなす共同観念形態である―― この地上において 善(つまり 存在である)の欠如であるという悪であったからには そのまま初めから存在しなかったかのように 《やしろ》を構成しなくなるということである。(いまは 主観形成の観点から論じている)。そのように 人間(また 現実)が 歴史的に 変わるということになる。もしなんなら このように《空中の悪魔の身体的・地上的な火の中への陥り ‐ 人間の理性的な史観(その地上形態としての共同主観)》連関の中に このわれわれの身体の運動や社会的な生活が営まれるということになる。
またこれは 歴史的にやがて 将来するであろうことを予表したいためではなく(――唯物史観は或る意味でそのように説く。しかしそうではなく――) いまこの主観の自己形成において なんなら空想的に(――そしていま われわれの遠ざかる悪魔の側も 身体を空気のごとくしたとすれば その限りで 空中の住人であるかのように見える――) 過程的に保持すると意味表示したいがためであったことは 言うまでもない。神がこれを為したまう。そして ということは それが われわれ人間の内面に そのように生きるということになる。
人びとは しかし これを 道徳として・倫理として 悪(悪魔)の排除であると思ってはならない。それは 悪霊に属くのでもなく また 悪魔とともに共同自治を形成するというのでさえもないが かれらが人間として存在するのであることは われわれと同じくそうであり その地上的な基盤は 同じくこれを共有するということでしかない。悪霊が 具体的にどのように さば(捌)かれるか それは分からない。ただそれは われわれ人間の理性的な共同主観自治にとって それじたいは悪としてながら しかも公共の観点からは有益であるというように(そして この有益という言葉は ここで原理的な意味において言っているのであるが) 配置される(または さばかれる)であろうということだ。
そして これもあれも このような史観が いま・ここで わたしの・きみの身体全体の生において しかもその主観の自己形成の内面において そう考察されるということ これに尽きるのである。人は終えられたところから始めるというものであることも 言うまでもない。唯物史観は この考察の一定の理論的名結果を 金科玉条とする。かれらが 個々には自己の主観形成の道から遠く離れているとは 誰も思っていない。あたかもかれら自身の そして人間の存在の根拠を 物質とするからのごとく その魂の弱きから 一定の固定的な(かれらは 理性的な知解の成果であると言う)金科玉条を かれらの自己じしんそのものと為さざるを得ないようである。
国家論といったことは――やがて 国家形態の消滅・人民裁判などといった意味でのことは―― 経験的な律法・共同観念について言っているのか 共同主観の歴史的な変遷について述べたものであるのか あるいは 神の律法(けっきょく 主観の自己形成のことだが)の観想においてそれを見ようとしたものなのか いづれであるか わきまえなければいけないと思われる。国家形態の移行にかんする具体的な施策 これは 共同主観にとって 第二義・第三義のものであるとすることによって 史観が生きる。生きて共同主観となるとわれわれは考えたのである。
だからわれわれは 後にあるものを忘れ 前にあるものへ手を差し伸ばしつつ ここへ・そして ここから 天の高みへ翔け昇らず また地の低きへ走りゆくことなく スサノヲ者の真正のアマアガリを問い求めなければならないと言われたのである。われわれは 何も言わなかった。そしてこの何も言わなかったところに われわれの視点 共同主観の原点があると言おうとした。
(つづく→2007-06-30 - caguirofie070630)