caguirofie

哲学いろいろ

#46

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第四節a 唯物史観に対するわれわれの共同主観

わたしたちは 以上に述べたことがらへの視点が 単にわたしたちの自己の不安定な部分からの・そしてそこに降りてしまい留まったむしろ共同観念者としての 叫びであるに過ぎないとしたら われわれは人間を辞めなければならないであろう。というのが われわれの主においての誇りである。
われわれは もし誇らなければならないのなら 自己の弱さを誇ろうというように やはり不安定な部分からの発言でしかないとするならば われわれは この世を死せるものとして評価しなければならない。神の弱さは人間の強さよりも強く 神の愚かさは人間の賢さよりも賢いということによって。しかしもはや なもそれでも身体を保持しつつ 自己と自己が愛する者とを愛するとともに この史観――なんなら空想――が 共同主観なのであることを 自己の内に省みなければならない。孤立することとアマアガリすること(出立・独立)とは 別であって われわれスサノヲ者の真正のアマアガリは その自己の独立の過程において 共同主観(霊的な存在としての共同の主観)であることを つねに宣言していなければならない。
これもまた その反対方向において 唯物史観の共同主観であることと 通底するかに見える問題である。そこで――
しかしわれわれは 唯物史観が 孤立した共同主観であると 言おうとしているのではない。むしろ 事の実態において(――そしてそれは 事の本質から来るものであると思うが――) 独立した共同観念であると思っていると言おうとしている。なんなら 独立した・将来すべきそしてつねに将来すべき共同主観である史観であると考えている。科学の名において・科学の名を掲げることによって妨げられるようにして 自分たちはほんとうは この現在において 霊的な共同主観たる史観であろうと欲しているということを かれらはよう説かないのである。これを見ないのである。われわれはこれを空想という。
《空想から科学へのソシアリスムの発展》が 空想において生じたと言おうとしている。むろん この空想が 地上において現実に 実現していないとは言っていない。身体(観念)共同夢のしんきろうが 現実であるというように。また 逆に 唯物史観が ソシアリスムとして すでに実現したと言うなら それは 現在の国家形態〔関係〕の中での 言いかえると 身体(観念)共同夢の中での・キャピタリスムとは別様のしかし同じ次元に立った実現 つまり その意味で同じ蜃気楼の上に立っていると言おうとしている。これが 独立した共同観念という 共同観念のいまひとつ別様の形態であることを意味表示し またもし逆に ソシアリスムは 指ツシ観にいおいて コミュニスムへ発展して 真正なる共同主観を形成するであろうと言うなら それは 独立した将来すべき・つねに将来すべきものとしての共同主観であると言う。
将来すべきものなどではなく いま現に実際であるではないかとなお言うなら それは 将来が先取りされた共同主観であると答えなければならない。将に来るべきものが 先取りされたということは その来るべきものの正誤が問題なのではなく その時間的な間隔が このただいま空想的に埋め尽くされた・埋め尽くされうるのだと考えていることに問題があると言う。誰も 見ていない(見ることができない)ものを主観する(愛する)ことは出来ないし また逆にこれを つまりたとえば 将来すべきコミュニスム共同主観形態を 仮りに人間の内的な眼で見られうるとするならば これを 知解し その知解の成果そのものを 時間の間隔を超えて 愛そうとするのではなく ただいま現在 それをどのように愛するのかを示さなければいけない。わたしたちはこれを示しえたし これからも示してゆくであろう。
知解しえたコミュニスム理論が 現在の動態だと言うなかれ。知解をそれぞれの主観において愛すること以外に 史観はない。もし《いまの現実の矛盾を揚棄すること》が その愛の行為としての史観だと言うのなら(――かれらは そう言うだろう――) それは キャピタリスム史観とて 同じではないか。キャピタリスム史観とて いまの国家形態を再編しないとも限らないし もしそうでなくとも キャピタリスム国家形態を保守することと ソシアリスム国家形態を保守することとは 同じ共同観念現実の《矛盾を揚棄してゆく過程》の両面ではないのか。世界のすべてがソシアリスム形態に移るなら 国家は揚棄されると言うとするなら そのように言うことは いわゆる世界革命というそのことが 盗賊団のむさぼり行為と違わないということにならないのか。
これは 知解(唯物史観)を愛するのではなく 《精神‐知解‐愛》という三行為能力の一体なる個体の自己形成において かれが部分領域である《知解》そのものとなってしまったことを意味している。これを われわれは 主観の放棄と規定した。
なるほど 《知恵(父)‐知恵からの知恵(子)‐愛(聖霊)》という神のペルソナの各実体じゃ 《知恵からの知恵》である神の御言が 人間と造られたことによって かれを神と人間との仲保者として 人間の自己形成の道における模範であった。あたかも神の三位一体が その似像である人間の三行為能力の一体の構成そのものを意味表示するというごとく(――人は この誤解を避けよ――) 人間は そのペルソナ全体で史観となるのではなく その知解行為の能力そのものにおいて 人間の道(その形成)となりうるというのは はなはだしい誤謬である。
人間の三一性は 一個のペルソナ(実体・存在)の中にあって それは この地上で身体とともに在る。神の御子キリスト・イエスが 肉となられた存在であるからと言って かれが《知解行為能力》そのもの〔のみ〕となって またはそのもの〔のみ〕において 人間の史観 人間の模範になったと思う無かれ。キリストは 人間の貌として その一個のペルソナの中に 《精神‐知解‐意志》の三行為能力を持ちたまう。キリストは 神の貌として 父なる神という知恵 からの知恵(つまり御言)を 神のペルソナ(実体)として担い 神の本質としては 三位一体なる神その方であられる。神は――人間とちがって―― 三つのペルソナの一つの本質であられる。人間イエス・キリストが 神と人間との仲保者であるとは このことを意味する。
このことにおいて かれは 人間の模範であり 人間の道でありたまう。だから 精神(記憶)も知解(知性)も愛(意志)も 人間そのものではなく また全体としておよび各個とも 人間の有(もの)(行為能力)なのである。この人間が キリストの模範にしたがうとき(――十字架上のかれをわれわれが飲みまつるとき――) われわれは 神(三位一体の神 そしてペルソナとして父なる神および子なる神)の遣わされる聖霊を享けて そのはじめの神の似像であるという栄光から かれに似るであろう栄光へ変えられると言う。
(つづく→2007-07-01 - caguirofie070701)