caguirofie

哲学いろいろ

#47

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第四節b 唯物史観に対するわれわれの共同主観

だから 精神(記憶)も知解(知性)も愛(意志)も 人間そのものではなく また全体としておよび各個とも 人間の有(もの)(行為能力)なのである。この人間が キリストの模範にしたがうとき(――十字架上のかれをわれわれが飲みまつるとき――) われわれは 神(三位一体の神 そしてペルソナとして父なる神および子なる神)の遣わされる聖霊を享けて そのはじめの神の似像であるという栄光から かれに似るであろう栄光へ変えられると言う。
それは あたかも人間が天使そのものになるかのごとく 神の御言のある程度 類似であると考えられなくはない。しかしそれとは はなはだしく遠い《知解行為》そのものとなるという意味では全くなく 精神も知解もそして愛も その各個と全体において 身体とともに 聖霊の宿る生きる史観へ変えられるのである。聖霊の宿る人間の身体の生きた史観が 共同主観であった。だからこれを 一定の体系づけられた理論といった《知解行為》に あたかも自己の主観を収縮・収斂させるように 史観を求めるなかれ。たといそこに求めたとしても この知解行為〔成果たる史観〕を 自己の同一に留まるように 自己の全体で 愛しなさい。
だから 生きて過程させよ。――またそうすれば もしそれがわれわれの存在の根拠を正しく捉えていないなら それへの愛は その誤謬をあらわにするであろう。また 卑近なかたちで言ってそれは 単なる学問の研究成果であると気づくであろう。誰も欺かれたいとは思っていないし もしこの誤謬に気がついて 知解を愛しようとしたそのことにおいて はじめの知解によって 自己は欺かれたとするなら そのとき 自己は自分自身の存在を獲得するのである。存在の根拠を問い求めていた自己は 自分自身が欺かれることを欲していないなら そのように欺かれたとしても その欺かれることを欲していないということ自体は 欺かれ得ない。
人は 《知性》といった自己の部分的な中心性によって 欺かれてはならないし また欺かれ得ないのである。《知恵からの知恵》と言われる神の御言は 父なる神から生まれた〔と人間の言葉で表現しうる〕父の子である。知解行為は なるほど精神(記憶)という視観からの視観である。しかし人間は これらの行為とともに 意志行為が両者をともに結びこれを愛さなければならない。知識をそのまま語るのではなく これを愛して 人間の有として自己〔と他者との関係〕形成として 表現しなければならない。だから 理論体系はこれを 学習し 知解したそのものを語り共有するのではなく これを愛し 方向を持たせ生きた過程として意志するのである。(時間における過程的な三一性――すなわち 時間的な行き違いを容れた非三一性――によって 言葉そのものの通りではないであろう)。
神は 霊であtって その存在すること自体が 知恵である。また ペルソナとしては 知恵からの知恵 つまり御言 つまり神のそのような独り子が人間ともなられた。そのキリスト・イエスは しもべの貌として 有限なる時間的存在であられたが 神の貌としてはペルソナとしては子なる神であるが 本質としては真実の一つなる神 つまり 三位一体の神そのかたであられる。(聖三位一体については すでに論じた。人間の三一性――時間的な齟齬をともなった三一性――について さらに見てみようとしている)。
人間の三つの行為能力の一体としての一個のペルソナは 子なる神という一つのペルソナの受肉を知ることをとおして 三位一体なる神つまり 一個の本質として 人間の存在の根拠であるお方を知り かれに属くことによって 史観そのものとなるのである。なぜなら 三つのペルソナの一個の本質(霊)としての一体性は 一つのペルソナの内の三つの行為能力の一体性よりも はなはな より強い一体であるからだ。人間(人間性)は 時間的な三一性であり 神性は その三つのペルソナのあいだに いかなる時間的・空間的なへだたりもなく またかれがすべてを知りたまうというとき それは 時間的・過程的に知るのではないからである。そしてこの実体は 人間の存在の内に宿ると考えられているのは 不適当ではないと思う。そうでなければ 人間の世界では 物体的なもの(身体)にしろ非物体的なもの(心)にしろ それらにかれの存在の〔有限な〕根拠を見出し 第一節で述べたように〔(12)‐1〜2〕 まったくの無常観が支配するであろうし また〔(12‐3)〕唯物史観といった第三の誤謬なる主観が現われることもないであろう。
しかし 唯物史観は すでに現実である。一部であっても 現実である。しかもこれは やはりすでに触れたように 古代市民たちの共同主観においても 第一・第二の誤謬から離れて 誤謬でない第三の種類の道において 自己=社会形成を行なったと正当にも捉えられたことはおろか むしろいまのキャピタリスム・国家形態の共同観念の道を歩まなかったとは言えない。少なくとも 言葉によって語りうることは われわれの存在の根拠を 物体〔の知識〕や非物体的なもの〔の知解〕に求めることは 誤謬(虚偽・悲惨)を構成するであろうし もし存在の根拠などないと言うようにして これを問い求めないことが 人間のあるべき姿だと説く人は かれも確かに すでに第三の道を歩きはじめているのだ。
内面へ――しかも 単なる移ろい行く心ではない内面へ―― 向き変えられつつあるのだ。そして現代において言えることは この第三の種類の道(もしくは 第一・第二の事柄のみが現実であって これらを主観において捉えることが全体的な史観であるという道)を キリストなるすべてのものの初め(模範)において観想し説き生きた人間が いたことも現実である。われわれは かれらをとおしてキリストを知り キリストをとおして この神の実体を知ったのだ。
この神の愛によって つまり かれに属くことによって 自己と他者の愛が――人間の知解するものの愛(実践)が―― 人間の自己形成にとって 真理の光にてらされて 自由なる過程として 有益であることを知ったのだ。この道を歩むことが それはあたかも神の側から与えられてのように 人間の有たる共同主観であることを 表現するのみである。ここでは 言葉としては どこにも われわれの問い求める存在の根拠がたしかに掴まれたとは 書いていないし 言っていない。ただ わたしの史観 わたしという史観を このように述べ伝えるだけなのだ。これが キリスト史観であるとわたしは思う。
なぜなら わたしは このように かのお方に召されてのように かれにこのように自由に隷属したと思って これを伝えるのみである。しかしこれは 或る一定の理論がわたしの全体にひろがって もしくは わたしが すでに全体として その理論体系そのものとなって 何かを述べているのではない。人間によって知解されたものを(――その全体を隈なくではもちろんなくして 或る一定の視観のもとに全体として――) わたしが愛した結果であって この愛つまりわたしの主観形成の過程そのものなのである。この結果 わたしは どうなるのか それは分からない。
たとえばわたしは 知解行為としては マルクスその人の理論をおおよそ正しいと考えるが しかしこれを愛する・もしくはこれをとおして自己を愛することにおいて そのいまの愛じたいが わたしの自己であると思うからには 歴史が将来において 経験的なことがらとして マルクスの言うとおりになるかどうか 分かろうとは思わないし またそのような議論ないし先取りした議論は どうでもよいと考えている。また わたしたちの史観においてわたしたちに将来すべき〔主観内的な〕ことがらはすでに述べたとおりである。が なおかつ これからどうなるのか それは分からない。
一方で 《主の霊のあるところには 自由がある》と聞きつつ試練において信じつつ 他方で この試練の中に不安定な自己を 主の霊に固着しつつ 歩いてゆくのみである。わたしは 自己とわたしが愛しているひとを愛している。また その他の人びとも そのとき出会うことによって 自分自身と同じほど 愛することに努める。そしてなおかつ 主の命じるところは この共同観念形態は死せるものと評価して 主観形成しつつ 史観そのものとなることであると考えて これを願い欲している。
そのほかのことがらは どうでもよいと考えている。だから このどうでもよい事柄の中に わたしとわたしの愛する人とのこの世の巡礼(それは それらの事柄の霊的な地上における享受である)があると思っている。(この世の神の造られたものは すべて 人間の霊的なそして現実的な行為能力の及ぶこととして命じられているかぎり 人間の楽しみであると考えている)。
唯物史観は これを よう説かないか また 独立した共同観念として・もしくは 独立した将来すべき共同主観として この世は死せるものと むしろ 経験的に思っているというほどに 主観が その誤れる原理によって 説き得ないのである。(マルクスその人は この唯物史観者としての 受動的な苦悩とともなる積極的な実践・享受を説いたと思うが そうでない唯物史観者を 積極的に作るほどに 将来すべき共同主観者であったとも言われても仕方がない一面があった。キリスト史観が そうでなかったと言うのではなく 現代において 唯物史観が問題であると――積極的な意味で問題であると――言おうとしている。)しかし人びとは 共同観念現実そのものの世界から解き放たれるべきであるだけではなく 悪しき共同主観からも放たれよ。これが 現代にとってのキリスト史観から言えると思う。
(つづく→2007-07-02 - caguirofie070702)