caguirofie

哲学いろいろ

#44

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第三節a 国家形態に対する共同主観の形成

史観は 共同主観であってほんとうには共同主観(主観共同)でしかないのだから 知解(科学)のあらゆる分野で 愛(生)のあらゆる条件のもとに その全体もしくは一齣ひとこまの過程で 人間の主観形成は行なわれていると言わなければならない。われわれがいま 具体的な一つひとつの学問の分野で 専門的な研究論考として これを行なわないとすれば それは ここでは 時代の移行の観点に立って(その意味で綜合的に) これを問い求めようとしているからだ。しかも 共同主観の変革であるからには 方法論として原理として これを行なう必要があると見るからである。
そこで したがって ここでは各専門分野を綜合すると言っても それは とうていそれぞれの研究成果の集大成といった行為もその考え方も持たないわけであるが この節では いままで必要な程度にそのつど触れてきた国家論といったような主題で しかもこれは 第二次・第三次的な実践分野であったものであるが したがって なおかつ 共同主観の原理的な考察としていくらか触れてみたい 触れることができればと思うのである。
共同主観者は 国家という共同観念形態に対して いかなる原理的な自己形成を行なうか。しかも 自己の内的な構造形成にかんする限りでのみ これを扱いたいと思う。これまでの基本的な考察を前提にして しかもちがった角度からここでは考えてみたい。

なお議論に入る前に ひとこと これまで述べてきた経緯から言っても ことわっておかねばならない点・またはわたしたちが 警告として注意しなければならない点は それが 絶対的な結論に到達するというわけではないし また これを求めて問い考えるというものでもないということである。わたしたちの共同主観は 真理なる光に照らされてのごとく――これを誰もが欲する・なぜなら真理は人を自由にするであろうから・自己の存在を愛しない人はいないし またおおよその言い方としては この身体を伴なった悲惨よりは浄福 つまり身体をともなった(だから 有限なる可死的にして)永遠のいのちを希求していない者はいないから・だから 真理なる光に照らされてのごとく―― わたしたちの共同主観は 個体において 対(つい)の関係において 家族において等々 有限なる絶対主観であることを望んでいる。しかし同じく 或る一定の主題にかんして 学問の一分野において 絶対的な共同主観に到達しうると思ってはいない。
このことは あたりまえのことのようであるが 同じくその反面で その主題を問い求め学問の探究をなすことが これを行なう個体の自己形成と分離されたものであるなどとは とうてい考えられないことである。すなわち 自己形成の過程で すでにつまづくことがない人は そのまま完全であり 有限なる絶対主観すなわち史観そのものである。つまり 学問的な探究とそれをなす自己の主観形成の行為 この二つのあいだの範疇的な懸隔をともなった・しかも両者綜合の時間的な過程 ここに史観は つねに生きた動態として存在すると考えるということ。あらためて このように断わっておきたい。


さて 国家という共同観念形態(――それは 観念的な共同性の成立形態であって すでに論じたように この形態と動態の全体に 何か人間の主観つまり共同主観の存在を問い求めてはならない。強いて言えば S圏の動きとそれを集合統一するように 反映しつつ支配するA圏とから成る国家の動きを 鏡として この鏡をとおして 共同主観が問い求められる。鏡じたいは 共同観念の現実形態である――)については 次のような視点から ここでは考えてみたい。つまり 《もし正義(法)を欠くならば 国家というものは 盗賊のむさぼり行為とほかならない》と言ったのは アウグスティヌスである。次のようである。

もし正義を欠くならば 国家というものは 盗賊のむさぼり行為とほかならないのではなかろうか。何故なら 盗賊団も かれらがむさぼりに際して 指導者を持ち そのもとに ともに共同行動を誓い 戦利品はかれらの法にしたがって分けられるのなら それは国家でなくて何であろう。
だから かれらが もしその気をもって拠点を確保し定住して 都市〔国家〕を築くまでになるなら たとえ隣国をむさぼろうとも かれらの政府は もはや盗賊団とは呼ばれないのであって 自他ともに認める国家の名を称するに至る。しかもそれは かれらが それまでの行為を止めてしまったからではなく 同じくそうしていても 法をふりかざして不法を咎める者が いなくなったことによる。
神の国について 4・4)

このあとつづいて よく引用される・或る海賊がアレクサンドロス大王に向かって言ったとされる言葉がつづく。

同じことを 小さな船でやれば盗賊と呼ばれ 大艦隊で行なえば皇帝と呼ばれるではないか。(同上)

と。むろんアウグスティヌスは 盗賊団や海賊の側に立って こう言ったのではない。しかしこのような見方は まづ基本的に 国家が 共同主観の停滞してその落ち着き先を求めた結果の共同観念形態の骨格であることを物語っている。この国家に 人間の罪(《むさぼり》)の共同自治の様式を打ち立てて つまり律法という《正義》をそなえて やがていわゆる近代市民の時代の国家形態にまで至ったとしても この国家という骨格・枠組みに あるいは律法すなわち共同観念の範型の法律化に あたかも社会(やしろ)の一つの基本的な意志(主観)があるとみなされることが もし基本であるとするなら それは なお 盗賊団のむさぼり行為の律法(掟)範型から 類型的に同じ行為を免れていないとさえ言える。
そのときには 国家関係は むさぼり関係と規定される。戦争としてのむさぼり行為は 国家としての政治の延長であって 延長にしか過ぎないと 仮象的に共同主観されたとしても 同じ現実を示している。経済戦争つまり そのような国際的な共同自治の形態の集合となる。
しかしまづ ことわっておくが わたしは戦争が嫌いだとか あるいは戦争は道徳的にいけないであるとか あるいは平和こそが共同主観の原理であるとかといったことを言おうとしているのではない。わたし個人としては 戦争が好きであるか嫌いであるかと問われれば 前者で答えるかも知れない。(ただし 人間どうしの殺し合いは なんとも 話にならないとも思う)。また 経済戦争は 道徳的・倫理的でないようにして 人間の倫理的な行為である。そのように一定の規則(範型)が及ぶのであるから。平和が 主観の外にあるものとは思えない。共同観念的な・その現実としての平和であるとか紛争状態であるとかは 律法による共同自治行為のそれぞれ同じ水準での一面である。紛争状態の中に 共同主観者の自己形成の過程が 見出されないとは限らない。また 共同観念的な平和(《共同観念和》)が 共同主観にとって死を意味することは おおいにありうる。
だから 議論の結論としては おそらく この国家形態の主導による・それを基軸とした(ほんとうには意志の主体でないのだから 無責任となるであろう)共同観念自治の様式 この現実を変換せよ つまり 変な言い方をすれば 平和も紛争状態も 別の新しい共同自治様式のもとにこれを行なえ ということに導かれるであろう あろうが いまはこのような結論の主張に重点があるのでもなかった。
ここで考えたいことは 盗賊団の共同自治様式のもとでも いわばその指導者を《アマテラス者》とし その部下たちを《スサノヲ者》とするごとく そこに 社会的な役割の設定(共同の観念)として それぞれ固定的な・概念として固定的な一定の《A‐S》連関体制が敷かれているということである。おそらく 盗賊団と言わずとも 人間の一定の集団において このような一定の《A‐S》連関形態がつくられ これらの統合形態として 一定の地平のもとに 国家形態も築かれたであろうとすることである。
《A‐S》連関体制という大枠はそのまま その内容が 各時代の共同主観の生起とともに(つまりおおよそ 経済活動の変革・推移にともない・つまりスサノヲ圏の生活を基盤として) これをもとにした共同観念の再編とによって おおよそ《自由》の実現へ向けて 推移してきたであろうとことである。むさぼり行為は そのもとにも何らかの掟によって 共同自治としての相互依存(つまり 各主観の尊重)があったごとく 経済的なむさぼり行為ないし時に戦争をつうじての新しいそれへと推移する・内外の共同自治の現実の動態があったであろうことである。
アレクサンドロス大王につかまり 捕まりながらも そのように自己の主観を訴えた海賊は この共同観念的な自治様式に反対を唱える《叫び》を意味表示している。わが国でも やくざの世界を描く作品に 仁義を重んじるという場合の上と同様の叫びがあった。これらは一言でいって 主観の自己形成を放棄しないも あたかもアマテラス者が 自己の魂の弱さによってA圏にアマアガリして 権力という強力に寄り頼むようにして共同自治を主導することを欲したごとく このS圏の仮象的な反映としてのA圏を さらに逆に仮象的に反映するようにして やはり自己の魂の弱きによって 何らかの強力に寄り頼む共同観念的な一現実世界に降りて行き(――それは S圏の中においてであり A圏と癒着する一S圏である――) しかも 主観の自己形成過程を放棄しない愛によって これらの叫びを叫んでいるのである。
これらすべて 共同観念の世界現実であり 《A‐S》連関体制が――その元の形態すなわち《S者‐A者》連関の主観構造を映すがごとくして―― おそらく経験的にもっとも落ち着きのある国家(民族=言語の一定の地平)形態を採ったことによる。また 国家とは このような共同観念現実である。(われわれは 現代では 人間がここから その新しい共同主観において 出立する時代であると言った)。
国家とは このような・人間の共同観念現実である。
(つづく→2007-06-29 - caguirofie070629)