caguirofie

哲学いろいろ

#43

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第二節 現代の共同主観としてのキリスト史観

史観が共同主観であるということは まづ 理性的な自己形成を どこまでも内実において互いに為していこうということに尽きます。
言いかえると ここに唯物史観の批判ということは 自己が自己を知るという主観形成の内部で・または 他者と自己との関係の内面でおこなう理性的な知解の作業と愛としての表現 これを行為することの中に この批判に触れるということであって たとえば唯物史観とは何か その個々の論点は何かという構想の中に為されるというものではない。(むろん そのような論理的ないし理論的な作業が為されることを否定してのことではない)。
これは 他方で われわれが 寄り頼むキリスト史観についても言えることであって 厳密に言うと キリスト教教義の省察(解説)と 自己が 自身 キリスト史観になるということとは 二つの別の事柄なのである。主観の精神的な共有〔または 観念の共同〕と 主観共同とは 二つの別のことがらである。
史観が共同主観であるということとは 自己の相対的な主観による絶対主観の問い求めであるというところまで表現は及ぶ。すなわち 絶対主観と自己との関係形成 いやむしろ 自己が絶対主観(このばあい 真理)の理性的な奴隷になることである。

  • 客観=アマテラス概念の問い求めではないということ。そして 絶対に対して奴隷であるということは その絶対のもとに 主観が生かされるということを言おうとしている。これは すでに論じたことでもある。客観の問い求めをつうじて 自己が絶対主観に関係するということ これがいまの――史観の――問題である。
  • むろん 絶対主観に関係するというとき 逆にそれは 人間の〔相対の中の〕絶対的な主観というほどの意味であって たとえば ナシオナリスム共同観念であるとか キャピタリスム共同主観であるとか これらも 歴史的に絶対的なと言えるほどの主観=内省および行為の形式を用意したかと思われる。

このとき 他者の愛は 他者に仕えることとなり この仕えることの内実としての他者〔の史観〕の批判は 霊的な・理性による主観共同化へつながるはづである。しかも このことを すでに唯物史観〔による共同主観者〕は 歴史的に為していないとは言えないのである。少なくとも はじめの方向においてそうであったろう。(マルクスの実践は 骨格としては これに尽きると言ってよい)。なおしかも 初発の近代市民たち・かれらキャピタリストらも その近代市民的な共同主観形成において このことを排除しなかったというだけではなく その史観の提出の中で明確に論議していたであろう。さらにまた そうなると 古代(もしくは前古代)市民たちのいわゆる神話による共同主観形成 これが 史観としての共同主観の系譜からはづれるというものではなく キリスト史観というほどに ともあれ神学といった共同主観の原理の問い求めは 顕教的・密教的の差はあれ 歴史的に生きた一つの系譜を形成していると見ることも あながち否定することはできない。
それが いま・つまり現代において キリスト史観とあらためて呼ぶかどうか ここで議論はたとい分かれるというとしても まづ前提としてこのような史観(史観に対する見方)に導かれないほどに 人間の言葉で 理性的に熱心に史観の探究にたずさわる人びとの中で 経験的な理論をのみ訴えようとする人が いるであろうか。
しかしわたしたちは 一つの弁証が目的ではないので 理論的な――しかし主観の内省的な――史観をつづけて論議しなければならない。


ここでは キリスト自身の言葉について考えてみよう。もし 人間キリスト・イエスが われわれの存在の根拠であると考えるとするならそれは わたしという人間全体が史観そのものとなることという原則において かれがわれわれの模範であるからである。観念的にではなく 理性的に この模範に隷属するということは 過程的に わたしの主観として自己形成されなければならず この道をゆく以外に 主観の共同化はかなわない。われわれそれぞれの到達度合いに応じて 共同主観は成り立ち それは ヤシロ(S圏)を基盤として《やしろ》全体に及ぶであろうから。この方向は これまでの歴史の経験的な事例(古代市民的な史観 ないし キャピタリスム共同主観・ソシアリスム共同主観のそれぞれ初発の形態)においても すべて同じ視点(史観観)に立って 了解されるであろう。
ここでは 次の一節である。

すべて労苦する者 重荷を負う者 我れに来たれ 我れ 汝らを休ません。
わが軛(くびき)を汝らの上に取れ。
我れに学べ。
我れは柔和にして心低き者なればなり。
されば汝らの魂に憩いを見出さん。わが軛は負いやすく わが荷は軽きゆえ。
(マタイ:11:28−30)

史観が共同主観であることの実践を この言葉によって考えてみたい。
まづこの言葉は 次のように語られたあとにつづく言葉である。

すべてのことは私の父から私に委ねられている。父の他には だれも子を知らず また 子と 子が父を啓示しようと欲する者の他には だれも父を知らない。
(同上11:27)

神なる《存在の根拠》の直視は われわれの誰にもゆるされていない。しかも 《子であるキリスト・イエスが 仲保者として 父を啓示しようと欲する者》は この根拠を知るのである。そこで 《父の他には誰も知らない子》すなわち人間イエス・キリストを この根拠を知ることによって 知ることができると予表されたのである。また この予感によって その根拠たるお方の霊を受けとることによって キリスト・イエスは われわれの史観=主観の形成の模範であると知ったのである。《すべてのことは かれの父からかれに委ねられている》と知るゆえ。
しかし 仲保者イエス・キリストは 神の貌において父なる神と等しくあることを強奪物とおもわなかった・謙虚な模範であった。
そこで 《我れに学べ。我れは柔和にして心低き者なればなり》と 主みづから語りたまう。われわれは ここから 時間(過程)的にして同じく無時間的な(無時間に関係しうる)主観形成の道を学ぶ。《時間的にして》というのは 主が 《わが軛・わが荷》と言って その背面(人間性)を示されたからである。《無時間的に》とは 《我れ 汝らを休ません。されば汝らの魂に憩いを見出さん》と言ってわれわれの存在の根拠(神の知恵)を意味表示されたからである。この構造の中に 《かれの軛は負いやすく かれの荷は軽きゆえに》 その《わが軛を汝らの上に取れ》と 直接 われわれに語りかけたまう。
この主観形成の途に着く者は 《我れは柔和にして心低き者なればなり》と言われるかれすなわち人間キリスト・イエスに似るであろうというのが われわれの共同主観の実践そのものである。
だから この実践の中に 《労苦する者 重荷を負う者》は われわれすべての人間であると知る。なぜなら いまわれわれが批判しようとする・そしてそこではわれわれの言う《第三の誤謬》を免れていないであろうと思われる唯物史観も その到達地点が どうであったにせよ この途上をたどったと考えるからである。この自己と他者の愛 他者と自己との関係了解を 主観形成させないでは 共同主観の成立はかなわないと同時に 唯物史観への批判も 経験的・感覚的にして空しいものとなるからである。
というよりも われらの上にキリスト・イエスの軛を取ることによって われらが キリスト史観そのものとなるならば 上の理解は われわれの力としてむしろ与えられるであろうと思うからである。なぜなら このような力を――自分自身を生むようにして存在するごとく人間の力によってにしろ―― 唯物史観者は すでに獲得し これが 将来の歴史においても 現わされるであろうとすでに認識したかのようであるからだ。なぜなら われわれは キリスト史観を 自己形成において 第一義的に現わそうとするかのようであって しかもこれはやはり時間過程的に あの存在の根拠の把握の誤謬 これを指摘するようにして――時代に即して〔のみ〕―― 主観形成を為すものだからである。
あたかも キャピタリスム共同主観が 唯物史観を引き出したように 唯物史観が ふたたび 歴史的な共同主観 すなわちわれわれとしてはいまキリスト史観を引き出すと考えるからである。しかし これらの共同主観は 歴史的にキリスト・イエスをつうじて 一つの系譜をかたちつくる。ところが いま 共同主観は その地上の国への寄留形態そのものを変えるというときには――われわれはそう主張するのであるが―― この新たな共同主観の現実形態は 全面的に キリスト史観そのものである。もし通俗的な表現がゆるされるとするなら いま現代に問い求められる史観は 現代の現実を構成する キャピタリスム共同主観と ソシアリスム共同主観としての唯物史観を われら軛の中に宿すとこそ言わなければならない。これは しかし――そして―― あの第三の種類の病いに 単純類型的には 酷似しているので もしあやまりがあれば 指摘して欲しい。もしそうでなければ この軛を あのイエス・キリストの模範において きみの上に取って欲しい。史観の原理 存在の根拠を いま呻きつつあえぎ求めているものであるとするなら いまは このように 《人間(現実)が変わる》時であると 静かな観想的な精神において この主の姿を観想すべきであると思うのである。
次のような一共同主観者の言葉は われわれの理性的な主観形成にとって 有益だと思うからである。

主は霊である。主(謙虚な模範)の霊のあるところには 自由がある。
(コリント後書3:17)

このような《宣教という愚かな手段》は たしかに主観の不安定な部分である。(初期キリスト者は別として)。しかし 不安定の中に憩いを見出すか 精緻な理論・経験科学に徹した理論の精緻さという安定の中に安定を求めるかは 前章の議論の中でも触れた重大な視点の問題である。
不自由な身体(身体は 腐敗すべく 精神は身体の腐敗可能性の抑圧に耐えている)の中に 自由の霊が宿る。精神と身体との人間の全体の不可死性が 宿る。しかも いま宿ると言われる言葉を――むろんいま 信じる人びとに述べているのだが―― 精神をとおして 観想する・観想しつつ主観形成することは 経験科学を超えてしかも理性的な自己形成であるとわれわれは考えた。

誇る者は 主を誇れ。(コリント後書10:17)


もし誇らねばならないのなら わたしは自分の弱さを誇ろう。(同上11:30)

と言おうと語りつつ 自己が史観となることは われらが主の模範を学ぶ道であると考えたゆえに。だから 《主の霊のあるところには 自由がある》と言われるゆえに われわれの共同主観は 理論としての無であったよいと考えた。その根拠をではなく そうでないとどうして われわれの存在の根拠を問い求めるにあたってあやまりに導かれて行くか この根拠を 語ればよいと考えた。だから むしろ《宣教という愚かな手段》による 主観の不安定は部分の考察 これを表現してゆく中にこそ 既存の共同主観の誤謬(時代的であることの旧来性)を指摘しうるものと考えたのである。
だから――ここで――ちなみに 読者は これらの言葉をつねに無化するように受けとって欲しい。そして これが ほかならぬ共同主観を形成してゆく道であると考えるのである。
この節において キリスト自身のことばを引いて 考えられる史観の思惟的な形成は 以上のようであると考える。
(つづく→2007-06-28 - caguirofie070628)