caguirofie

哲学いろいろ

#42

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第一節b 四原則のまとめとして

(12−3)さらに第三のやり方が考えられる。このやり方の人びとは 第一の場合(12−1)の物体(その変転する姿)であるとか 第二の場合(12−2)の心(その変転しつつも同一の場を 提供するかに見える動き)であるとかには拠らず 人間の主観の原理を問い求めようと考えた。ここに 第一部で論じた《第三の種類の誤謬》がひそむと考えられる。
原理を成り立たせているものとしては これら第一・第二の場合のすべてを否定しつつ 何かほかに別の或る物が 人間を生かし世界を成立させているとかれらは説く。自分たちがこれを捉え 自分たちこそがこれによって この生を生きたものに為して送っていると考え これを人にも説くのである。しかしこれらは このように説くことにおいて 現実的に言って支配欲に支配されている。また 支配欲によって存在するように自己自身を生みうると思い込んでしまった人びとの誤謬である。
ところが 人間の世界には 魂と物体 身体と心とのほかに 目に見えて何も存在しない。わづかに精神が こういうことを捉えるというのみである。史観の原理を問い求めつつ しかし或る時点で 物体にも魂にも 精神にも肉体にも 人間の生命を見出し得なかったと分かったときから この主観の自己形成を中断してしまったのである。だから かれらは かれら自身 ほんとうはなお史観の原理によって自己の浄福(自由)を問い求めていると言うようにして これを――この姿勢は――放棄しないことによって 自己の主観形成を停止した時点から 暗闇の中の光の影のようなものを 確固たる原理の原動力であるのだと思い為すようにして 第三の別の或る物を設定した。これを共同主観すべきだと説く。
しかし 共同主観は その内的な構造において 《自由‐不自由》連関であった。不安定の中の安定 弱きがゆえの強さであった。ところが かれらは 自己の魂の弱きによって また《自己の同一に留まる人間の愛を愛さず 不正を愛する人は 自己の魂を憎む》と言われるようにして 他者の支配(情実的な愛・思いやり または 知解行為の論理的な精確性)が 自己の愛であり なおかつ 他者の愛であると思い為すことによって 《自由》を一元的なものと説いたのである。なにか別の或る物としての一元的なものによって 自由なのだと言う。
自己と他者の愛 つまり 自己と他者との関係形成は 一方による他方の支配関係にあると・そしてそれでしかないと さらにそして それが《自由》であると かれらは史観の原理によって 考え着いたのである。このやり方は 歴史的な共同主観の変遷によって 新しい(その場合 正しいと考えられた)共同主観が現われ かれらにも提出されるとき 神のようにいかなるものの下にも立つまいと決意したかのように これを先取りし また自分たちの誤謬を訂正すまいとするそのような知解行為としての主観の動態を基軸としたやり方である。
言わば 知の私有財産制といった・その限りでの愛なる・そして支配関係的な史観の一方式である。かれらは その一元的な《自由》をどこまでも愛着してのように――そしてそれはあたかも この世の正しい男女関係を象徴するとでも言うかのように―― その知の支配関係を断乎 保守し その支配関係なる愛(支配の成立は それも 共同自治の一種である)の中で 上手に語って 自己の恥辱を蔽うのである。
これが 第一部の《第三の誤謬の病い》の問題であった。
いま史観の原理を 人格であるとして見 これを 《神》なるお方として考えるとすれば 神はこの第三の或る物の中にいまさず しかも 一般に人間の主観すら この第三の誤謬をゆるさないというほどに かれらの説くところとは別個に 自己を正しく高く(または 普通に)保持するということは 明白な経験的事実でもある。
史観の原理は いろんなかたちで表現される。それは 思惟されるとおりには表現されないものでありながら――原理的には このようにこそ把握されねばならないが―― しかも人間の言葉で(つまり 動物も共有する魂によってでもなく 物体そのものの・そして社会経済的な運動の知そのものにおいてでもなく 人間の言葉で) いろんなふうに語られうる。例えば

神は高慢な者たちには 立ち向かいたまうが 謙虚な者たちには恵みを与えたまう。
箴言3:34; ヤコブ書34:6; ペテロ第一書5:5)

である。人間は神のお顔を見て生きることができないと言われるようにして このように表現された原理は 見るのに・そして知解して愛するのに 多大な困難をともなわないではいられない。だから 《この定めは神にのみ属することではあるが》と註解していなければならない。ただ このように 史観の原理 われわれの存在の根拠を そのものを思惟し また 表現することは難しいと言われるのであるから――そいて さらにまた 誤謬を持ったかれらも またわれらも それ(存在の根拠それじたいの直視)を ただちに明らかにして受け取り得ないであろうから だから―― かれらの《存在の根拠》とするものが いかに誤謬に満ちたものであるかその根拠を われわれは論じうるし 論証しうるであろうし またたしかにこれを論証しなければならない。
すでに論じたように 真理がわれわれをそう為さしめる自由は 真理の知解そのものにあるというよりも――もしそうであったとしたなら かれらは その問い求めを中断しなかったであろう―― 真理を分有してのように日から日へ変えられるその愛の自由の過程をとおしてあるというとき かれらは この自由な愛の行為過程そのものを知解し また知解してしまったと思い為し これを人に説くことに――つまりそのような知の支配関係なる愛に―― この自由を見出したと思い為すのである。
このような人びとは 共同観念アマテラス者や 心のアマテラス者とちがって 物体にも心にも支配されていないが しかしかれらと同じように・少なくとも共同観念アマテラス者と同じように 他者の支配の熱望にかられ その同じ支配欲によって支配されていることを知らないか あるいは知っていても 史観の原理は究極にここにしかない・ここにはあるだろうと思い為しているのである。このようにわれわれは 自己を愛しつづけてのように 指摘しなければならない。
物体にも魂にもよらず また身体にも精神にもよらず 史観の原理をかつては問い求めようとしたかれらは したがって もしそこに実体があるとしたなら それは かれらが或る種の霊的な存在であるということになる。かれらも 共同主観の実践の方向を捉えようとしているのである。しかしもし 《神は高慢な者たちに立ち向かいたまうが 謙虚な者たちには恵みを与えたまう》が 人間の言葉によってもたらされる人間の存在の根拠(その一表現)であるとするなら これに対して 同じ霊的な存在であろうとするかれらにかんして 次のような指摘が有効である。

この定めは神にのみ属することであるが 高慢の思いにふくれ上がった〔悪〕霊までが これを自分のものにしようとして 次の言葉で自分が賞讃されることを好んでいる。

服従する者たちをゆるし 高慢な者たちをうち倒す。

アウグスティヌス神の国について 1・序)

これらが かれらの言う《第三の別の或る物》がわれわれの存在の根拠ではないという根拠である。《神にのみ属すること》としての史観の原理が しかし現実の共同主観と 互いの連関の構造(後者による前者の分有)を作って 人間のささやかな浄福の生に有効であるというとき かれらは 別の何ものかに拠って これを一元化したのである。ほんらい経験的でないものを 経験的に一元化して見せるとき これは 人間の言葉で 悪霊と呼ぶにふさわしいと考えられた。

  • この第三の種類の誤謬については 一般論として論じるには しっかりした内容をその側も持っていると言わなければならない。


(13)このように言うとき 史観は 共同主観であるということは 人間の言葉として より一層ふさわしいと考えられた。
(14)上の(12−3)に論じた第三の種類の人びとは 霊的な存在として 神々ではあても それは われわれの存在の根拠を明かす史観の原理に仕える神々ではないと考えられた。


そこで この第二部では この第三の種類の病いを 唯物史観に代表させて 論じるのが 直接の目的である。
(つづく→2007-06-27 - caguirofie070627)