caguirofie

哲学いろいろ

#82

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第六節b 至聖所に入る共同主観は――理論ではなく―― 愛の勝利として栄光がもたらされる

かれは 《叫ぶことなく 声をあげることなく その声をちまたに聞こえさせず また傷ついた葦を折ることなく ほのぐらい灯心を消すことなく 真実をもって道をしめす》のでなければなりません。共同主観者が 外交官である必要がなくなるまで いやむしろ 神の計画による悪(悪魔)さえの配置が 正しく行なわれるようにかれはつねに外交官でもあるというようにして 共同主観〔の原理〕の完全な勝利の時まで 帰郷の旅路を問い求め見出しつつあえぎ求めるとともに 外交官としてこの世を用いつつ神の国を享受するのです。
《いま泣いているあなたたちは 幸いだ。/ 笑うようになるから。・・・いま笑っているあなたたちは 不幸だ。 / 悲しみ泣くようになるから》(ルカ6:20−25)と書いてあるとおりにです。この忍耐は その忍耐することにおいて すでにかれは自由であります。なぜなら かれには油が塗られているからです。これは 理論=第一の幕屋において あたかも人がそれぞれ客観となることによっては ついに得られるものではなく――そのときには その《客観的》な理論と 主観ないし史観とは つねに あの労働の二重性のように 分離されている それゆえ 生きていないでしょう―― その主観において〔その意味で多様なかたちにもおける〕《つまづきの石》に固着しつつ生きる史観とその理論によって もたらされるものなのです。この配置(配置ないし経営が 愛です)は 神によって約束されています。

  • これをそのとき 予定調和と言ってしまえば 客観共同ないし 理念的な宗教です。

神は 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》です。それぞれの主観において〔時間的にも生起しつつ〕あり その主観の共同化(そのとき 異和・意見の対立は 当然ある)であり また かれら三代の歴史的な系譜として見られるごとく 共同主観の継承であります。これ以上 人間存在の実態にかんして明らかなことはないでしょう。

しかし わたしの話を聞いているあなたたちには言おう。敵を愛し 自分を憎む者を手厚くもてなしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り 自分を侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には 下着をも拒んではならない。求める者には だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り替えそうとしてはならない。あなたたちが人にしてもらいたいと思うことを 人にもしてやりなさい。自分を愛してくれる人を愛したとしても どんな恵みがあろうか。罪人でも 自分を愛してくれる人を愛しているのだ。
また あなたたちによくしてくれる人に善いことをしても どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしているのだ。返してもらうことをあてにして貸したとしても どんな恵みがあろうか。罪人でも 同じものを返してもらおうとして罪人に貸しているのだ。しかし あなたたちは敵を愛しなさい。人を手厚くもてなし 何もあてにしないで貸してやりなさい。そうすれば あなたたちにはたくさんの報いがあり 《いと高き者》の子となる。神は 恩を知らない者にも悪人にも 情け深い方だからである。あなたたちの天の父があわれみ深いように あなたたちもあわれみ深い者となりなさい。
(ルカ6:27−36)

しかしわたしは言いますが 《頬を打たれて もう一方の頬を 何の気遣いもなしに 差し出す》人はいないでしょう。このキリストの言葉は 《もう一方の頬をも向けなさい》と言って(――要するに 語義のちがいは 《差し出す》にしろ《向ける》にしろ その他の語でも言い換えられるにしろ 動作のちがいではなく その意志・愛のちがいによるのであって 欠陥のゆえに人を憎めと言うのであって 欠陥のゆえに人を憎めと言うのでもなく 人のゆえに欠陥を愛せと言うのでもなく 頬を打ってくることにあるその欠陥を憎み人を愛せと言うにほかならないでしょう。これは 神から人間の中へ到来し 人間に近づくこと すなわち 第一の幕屋をとおって至聖所に臨みそこから油塗られることを与えられてのように そのことによるものであり 共同主観者はこれをその主観〔過程〕において・独立主観において キリストのために生命を失う者はこれを得ると言うかのごとく 人を自分自身と同じように愛(配置)するのです。
共同主観の共同主観たる所以は この愛(神の愛と隣人の愛)にこそあって これなくしては成り立たないとこそ言いたいためであります。

  • このことによって 共同主観の完成への過程は 理論とその実践によってではなく 愛(経営)とその過程における・つねに建築中の理論とによって 史観され・つまり生きられ この愛の勝利として成就すると この節では言おうとしています。

ひとつ身近な例を挙げるとするなら 小説家A.ハックスレーは 次のように書きます。

何度も反芻し どうしてもこの結論にたどりつくわたしの考えであるが わたしはこれまで愛というものは ただ闘いにすぎないそれ以外のものではないというふうに考えてきた これはわたしのばあい 憎しみに始まって 世間のならわしに結局はわたしが負けることによって終えられるものである。
Even in my secret soul I have never been able to think of love as anything but a struggle, which begins with haetred and ends with moral subjection...
(A. Huxley: Eyeless in Gaza ch.10)

《世間のならわしに従うこと》は 共同観念への従いであり 《憎しみに始まる》というときには 人に対してではなくその欠陥に対してであります。だからこの愛の実践は 《闘い》であると言うのです。至聖所への視観をとおして( in my secret soul )そう思うのです。両性の対関係だけではなく 一般の二角関係においてもそうなのです。ただわれわれの思うところは 《世間の共同観念に負けること moral subjection 》という寄留形態は 終えられるであろう。つまり この愛は 共同主観において この共同観念に対する敗北ではなく勝利として 現実自由となるであろうと史観します。われわれはこれを何を措いても信じなければなりません。油塗られた者〔に従う者〕の宿命であります。かれは 能力において 共同観念には負けざるを得ずこれに寄留し――これを時に用いてもよいが それにつけこむことをせず―― 能力において そのただいまの・愛の客観化は為し得ないのです。

  • 客観化のいわば権威に主観を委ね得ないのです。むしろ 主観を保って この権威と言えば権威を 主観共同のために・神のために 用いるのです。

この弱さと忍耐が 強さと自由であるのです。至高の善に固着しつつ その神の配置〔を信じる〕の中に この義(自由)が さばきの権能を与えられ受け取るまでであり だから この力を受け取ったならば それは神のご計画にあづかる共同主観者の勝利の日であるのです。しかしわたしたちは言いますが 《今が恵みの時 今が救いの日》であります。むしろ

人びとに憎まれるとき また 《人の子》のために〔共同観念から〕追い出されたり罵られたり 汚名を着せられたりするとき あなたたちは幸いである。その日には 喜び踊りなさい。
(ルカ6:22)

と言われているように この敗北(憎まれとそこでの寄留)のうちに〔愛の〕勝利を見なければなりません。この共同主観の義の保持のうちに 力が与えられたことを 自己がそこで変えられたのを見るように たしかに確認しまた自己に逆らってでものように これを見なければなりません。この愛の勝利と栄光(= doxa は臆測)が 共同主観の勝利であると察せられるものです。われわれは このことをも理論しておかねばならないと思われました。

  • 前提を理論することが 理論そのものであり だからいわゆる理論は この理論そのものという前提に立って つねに建築中であるものなのであり いわば理論観が変わる。つまり 史観の派生的なことがらであるこの理論というものを どのように人間の有とするかということによって つまりもう一度繰り返すなら 理論観の変わることによって その主体なる史観ないし人間そのものが 動物ないし生物の一つの種として 変えられることにもなるのです。ホモ・サピエンスなるヒトが 変わるのです。

(つづく→2007-08-06 - caguirofie070806)