caguirofie

哲学いろいろ

#52

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第一節a しかし 人間キリストがすべての土台である

質料――それはたとえばここで その社会的に加工された商品 あるいは個体にとって身体――を共同主観することは 唯物質史観にとっても 同じことのようであるとは思われる。ただ ちがうのは なお原理的に言って 身体ないし商品といった質料(質料関係)を どの根拠のもとに捉えるかである。キリスト史観は 人間キリストが土台であると言う。もしくは 言葉としては われわれには 土台など何もないというふうにも言いかえることができる。かれらは 唯物史観を下ろさない限り 物質がその根拠であると言うだろう。
そこで――しかし――ここでは もはや 物質とは何か 物質を存在の根拠とするのは何故あやまった主観なのかには 触れない。質料をともかく 何か前提をも置かずに どう人びとは 捉えるか(共同主観するか) このような或る程度 具体的な議論として ここでは進めていきたいと思う。


質料は matter の語で言い表わされるのだから もし質料主義と言うなら それは materialism ということである。しかしこの質料主義といった見方にまで 拡げなくとも またそこまで行きすぎるべきではなく われわれは ともかく物体として在るもの(質料)を――非物体的なこころの場をとおして―― どう捉えるかということになる。どう捉えるであろうか。これが そのまま史観を形成する問題であるだろう。
さらに言いかえるなら こころ〔の場をとおして 物体として いろんなかたちで ともあれ 心ないし存在に関係するもの〕を どう捉えるか。現実は これ以外にないからである。(また 観念共同和といった意味でのムライズム あるいは 共同観念形態としてのナシオナリズム これらのようなその蜃気楼(幻想共同)は 上の過程において基本的に捉えら得る以外にない。もともと 幻想共同・観念共同は 現実の把握に失敗した――失敗した中で 人間の知恵として 共同自治へ成功させている――共同観念現実でしかないからである。


身体としての質料にかんしては 《共同観念的な肉の人》と《身体を保持してこれを共同主観する霊の人》といったことがらとして ある程度 考察をなした。ここでは 自己と他者との関係において――その一般的な関係において―― 他者が なんらかの形で 身体として(物理的に) 自己に関係する場合を設定してみよう。これが だから商品の生産者ないし販売者として 他者が 自己に関与し しかもそれは 逆にこちらから言って 自己が身体として(物理的に) その関与にたずさわるといった情況を想定している。だから また 自己と他者との二角協働関係において(――つまり 販売者ないし生産者等々として 互いの協働関係において――) 意見(つまり知解と愛)のちがいの調整・その意味での相互経営の問題であり さらにまた 他のいろんな例が考えられるであろう情況であり 要するにこれらの問題は 他者が 身体として または同じように自己が身体として そのように物理的に(社会経済的にと言ってもよい) 衝突しあう場面である。
また さらに言うと これらの人間の互いの身体としての相互の関係(――それが物理的にということは 一般に 経済生活的にということだと考えられる――)が あたかも観念的な何者か遊女を介してのように 身体(=観念)共同和へ導かれるときには 一般に 共同観念現実が 顔を出すかのように思われるということを意味している。また 観念共同和が ある一定の枠組みを求め その見出した骨格にこびりついたのが 国家という共同観念形態であると考えた。
このように考えると いまこの視点は 基本的な接近の態度を 共同主観的に 構成すると考えられるであろう。質料を共同主観する史観が それである。ただしもちろん この接近の仕方によって 何か一つの理論体系をかたち作るといったことが目的なのではない。また このことを 第三章では 徐々に 一つひとつ 考察していこうと考えるが それは 全節の全体がそろわなければ そのかたちを為さないということではない。したがってわたしたちは 例によって 各一節ごとに ひとまとまりの共同主観を問い求めるというように この論議にとりかかることにしたいと思う。


この第一節は 表題のごとく 人間キリストがすべての土台であるということ また言いかえれば われわれの共同主観には――存在の根拠への思惟の結果の固定されたようなものとして――土台など何もないということを ひとまとめにして扱いたい。(後者の認識はつまり 人間キリスト・イエスのこの地上での姿が 歴史的にすでに示されたから そのように言えると考えられる性格のものである)。

まづ 人間イエス・キリストが――たとえば われわれが具体的な現実の質料関係を捉えるにあたって―― すべての行為の土台であるということ しかしこれは 上にも述べたように 神学・哲学的な あるいは社会科学ないし自然科学の考察の結果からわれわれに与えられた しかもそれが思惟の公理といったようなものとして一定の規範とされたものではない。われわれが かれによって作られたものであるごとく われわれの共同主観は それが質料の動きを捉えるにあたって 何らかの一定の土台・根拠を 固定的なものとして(ことさら意識的に) 必要としていないことを物語る。これが 《人間キリストが すべての土台である》ことの内容である。もちろん前二章においても 史観としての共同主観・その源は ここにあるのだとわれわれは訴えていた。
要するに われわれは 自己の思惟を頼むでもなく 人間の賢さに寄り頼むのでもなく 他者の力に寄り頼むでもなく われわれの存在のすべてを 委ねてのように 託すべき存在をすべてのものの土台として この世を捉える。(共同主観は 賭けである。生きた主観は 賭けをともなくゆえに)。

  • もし唯物史観が その理論体系に寄り頼むとしたなら それは 賭けとしての共同主観でないのではなく 裏返した賭けなのである。言いかえると そこにほんとうは寄留すべき共同観念を――あやまって――経験的にも死せるものと評価することに言わば賭けようとしたのである。この賭けが 裏返しの共同主観であるというのは 現実の経験的な世界の土台が 知解・経済活動にあるという言わば経験的な一つの公理を――それを指摘したのは かれらの側であったかも知れないが やはり一般的には公理だと見られるべきものを―― 賭けのある意味で最終的な論拠とする(すべてのものの土台とする)ということに窺われなければならない。われわれは この究極的な根拠は 別にことさら意識しないか あるいは キリスト・イエスであると 賭けるのである。そう信じたからである。しかし 信仰は 時間的に つまり信仰も初めあるものとして 生起するのであるとわれわれは見た。

さて (1)動物も身体の感覚をとおして外側にある《物体的なもの》を知覚し それらを記憶に固定させて想起し それらの中で有益なものを欲求し 不適当なものを避け得るのである。・・・

(つづく→2007-07-07 - caguirofie070707)