caguirofie

哲学いろいろ

#55

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第二節b 唯物史観は キリスト史観の一部 しかも歪められた一部である

というのは 善人は神を享受するためにこの世を用いるが 悪人はそれとは逆に この世を享受するために神を利用するのである。とはいえ この人もまた 神が存在し 人間の事柄を配慮されるということをすでに信じている。実際このことさえ信じない人は この人にはるかに劣っているのである。
そこで カインは神が自分のささげ物ではなくて 弟のささげ物に心を留めたのを知ったとき たしかに心を入れ替えて善き弟に倣うべきであり 思い上がって対抗心を起こすべきではなかった。しかしかれは心を痛め その顔を伏せた。
アウグスティヌス神の国について 15・7〔1〕)

ということが したがって 生起するのである。
そこで カインは地上の国を建てたと聞かれるのである。むろんわれわれも この地上の国の共同観念形態の再編成を考える。それは アウグスティヌスが言うように 《賢い人》の例による共同主観者が 交わって作る《家や都市または世界》について――つまりその当時あるいは現在でも 《まだ存在しない或る状態》について―― ちょうど唯物史観者が理論するのと同じ精神によってのごとく 思いめぐらす。しかし このような・史観の原理の歴史への応用といったことは もしここで今度は 共同主観の第二次・第三次の仕事であるともはや言わないとしたなら それでも このことは あの病いの治癒を得て・つまり主観の自己形成の内において生起することを 基本とすると考えた。
そこでしかし ここでアウグスティヌスは 引用の第一段において 次のこと・すなわち 《或る賢い人による悪しき理性なき魂(ないし 身体の運動としての物理的な他者または自己)の使用》といった質料史観を 提示してもいる。したがって この第二節が 第一節のまったくの繰り返しに終わらないとするなら このことを省みてみなければならない。またこのことは たしかに唯物史観者らの説く主観共同化の行為の方程式とみっせつに関連している。
しかし ふたたびここで 史観の原則が 変わるとは思われない。ここに言う《賢い人》が われわれ一人ひとりの主観の霊的な力であり 《悪しき理性なき魂》が同じく身体〔の運動〕を言っていることは 言うまでもないと思われるからである。

  • この言い方は 単純にすぎると思われる。悪しきのほうの部分は なくてもよい。(20070709)

要は この〔《或る賢い人》の共同主観形成が 各時代の共同主観として 社会的にも(家や都市や世界において)形成されるかどうか それがそしてなおもあの第一原因との関係においてどうか が問題となるといった局面展開である。ここから 史観としての・質料に対する共同主観が生起するであろうと考えられるゆえに。
したがって ふたたび確認しておいて損はないと思われることには 神の国が――はじめに そしてつねに 此処にあって――地上の国に現われるということのほうが 人間の自己形成に有益なのであって そうではなく いづれコミュニスム社会が 獲得されるであろうという認識と実践の方式は 人間の主観形成にとって むしろ不便であろうといったことなのである。各時代に応じて 一定の共同主観形態が それなりに 打ち立てられるであろうということ この考えのほうが 有益だと思われる。《全被造物の或る種の広大にして測りがたい国の中での 報償と罰の 恩恵と報復との言詮を絶した公正な配分にもとづいた 可視的・可感的な質料関係(その社会)》は 史観(主観形成)において そこに到達するであろうとか それが(その社会としての像が)模範であるとかいうことが 問題なのではなく――問題にすべきであるのでもなく―― もしすべてのものの土台を想定しようと思うなら またそのときにはさらに 何らかの神の国の理念が 土台となって 現実の可視的・可感的な質料関係となって現われると説くのでもなく――つまりそれは 《土台》が 理念だとかという意味での神の国なのではなく 人間キリストだというはじめの原点にももとる―― 神の国を構成することを欲する人間のそれぞれ主観的な自己形成にとって その自己の模範=土台が キリストなのであるという〔不在なものの〕現在的な史観なのであるということに問い求められるであろう。信仰を排除しないで 信仰が理性的な精神になりうる。
これらの《質料関係の公正な配分は 至高の支配者の不可視的・叡智的な内なる宮殿から 或る賢い人をつうじてのように 命じられ あるいは許可されてといったかたちで しかも有限・可変的なかたちの中に・もしくはそれらの形に対して 生きて過程される》と言われるのである。理念が現象となるというかのように 神の国がこの地上に降りてくるというのではない。物質の運動といった別の第一原因にのっとって 歴史は 公正な質料関係の配分の社会へ向かって進むというふうにも 共同主観すべきではない。このような史観と目的の設定は その設定じたいがあやまちだが その設定とともに 主観の自己形成は 基本的なかたちにおいて 放棄されるからである。《至高の支配者 / 不可視的・叡智的な内なる宮殿 / かれからの命令・許可》といった表現において 主観の自己形成することのほうが 現実的であり有益なのである。(表現形式になじみが薄いという事情もあろうけれど)。主観あるいは主観の原理が そう語られるままに存在するというのではなく 主観形成の人間的な過程(または 瞬時の観想を含む)にあっては そのように表現することのほうがより一層ふさわしく現実的であるとも言える。これによって――それこそまさに神の見えざる手に導かれてのように―― 霊的=現実的な主観共同化が行なわれ 現実に 質料関係・政治経済的な行動に 対処することができるのではあるまいか。
なぜなら 質料関係への正しい(つまり 不安定を含む自由な)対処とは その対関係・二角協働関係において 共同主観というほどの一つのくにが出来るからである。この《くに》は 実際に 家や都市やまたは世界にも 波及しないとは限らない。また この欲するものを獲得し 欲するところに到達できるのは 神のあわれみによる〔と表現するのがふさわしい〕のであるが われわれは これに向けて 欲しなければならないし また 走らなければならないと 史観されたのである。
このただいまの主観において 史観は 《被造物はこの創造主から かれをとおして かれにおいて造られ整序されたのである》という土台を捉えておいてよいと思う。そしてそれは われわれの時間的な思惟が 持続的ではないほどに 忘れられるものであってよいと思う。主観の自己形成としての思惟は ここに立ち戻って 試練の火をくぐり抜けるのであり 試練の火の吟味に遭って ここに立ち戻るのである。

  • しかしこの過程のすべては キリストを――なぜなら人は 究極にかれの主観の模範を欲している―― 土台とするのである。と人は 誰に言われたからでもなく 確認するのである。なぜなら人は 死よりも生きることを 数倍 欲しているのであり キリストは その死のとげ・すなわちわれわれの異和関係に現実にまつわる社会経済的な罪のために死にたまうたということを仮りに言わないとしても 生命の制作者でありたまうからである。質料関係・経済行為領域は 共同観念現実の・つまり倫理的な土台であり この人間的な土台をとおして 人間そのものの土台をわれわれは見るのである。だから この生命の制作者は《真理》であると考えられた。

(つづく→2007-07-10 - caguirofie070710)