caguirofie

哲学いろいろ

#166

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十一章a 鏡からキリスト(三位一体)を見るとき 聖霊を受けよとわれわれは 語りかけられる

〔第二十六章〕
さらに 神なるあの至高の三位一体においては 先づ御子が御父から生まれ 次にこの御父と御子とから聖霊が発出したのかどうかを示し あるいは少なくとも問い得るようにさせるいかなる時の隔たりも存在しない。聖書は御霊を父と子との霊 と語る。この御霊については 使徒が 

君たちは子らであるから 神は君たちの心に御子の霊を遣わされたのである。
(ガラテア書4:6)

と言っている。また聖霊について 御子イエスが 

語るのはあなたがたではなく あなたがたの父の御霊があなたがたにおいて語る。
(マタイ10:20)

と言われる。他の多くの神の言葉(聖書)の証言によって 三位一体の固有の意味で聖霊と言われるのは 御父と御子との霊であるということが確かめられるのである。
聖霊について御子は

私は父からかれをあなたがたに遣わすであろう。
ヨハネ15:26)

と言われ また他の箇所では

父はわが名においてかれを遣わされるであろう。
ヨハネ14:26)

と言われる。この二つの箇所から 御霊は御父と御子の両者から発出する と教えられるのである。

  • あたかも経験的な論法からは インタスサノヲイスムなる愛が デモクラシ(《S者主導‐A者》連関形態)とキャピタリスム原理の両者から発出する というように。しかしむろん 愛は 神からわれわれのもとに来て神である聖霊 すなわちかれがわれわれをして語らしめるその現実である。その現実感覚であり 現実観。

御子自身も《かれは父から発出する》と言われる。また 御子は死人の中から復活し 弟子たちにあらわれたとき 息を吹きかけて 

聖霊を受けよ。
ヨハネ20:22)

と言われ したがって聖霊が御子からも発出することを示しておられる。また 御霊は福音書の中で読まれるように 《かれから出て すべての人を癒す力》(ルカ6:19)である。
(三位一体論 15・26)

神の言葉を預かる者たちあるいは使徒たちは その人間の思惟や理論によって 神なる実体を このように あるいはこれまで見て来 またさらに見ようとしているように 人間の実体から類推して捉え表現したのではない。神の言葉すなわちキリストが かれらに臨んだのである。しかるに 唯物質論は 逆に 人間の理論から出てこれを超えて あたかも一つの神学を構成するようなそれ自身を築いたのである。(この理論とは あの《鏡》を――たしかに似像として――捉え これを観想し表現する言語体系のことである)。
これは 人間の理論を超えているが 人間を超えて〔生きて〕いない。三位一体なる神〔と いま言うならばそれ〕の似像である人間の三一性を超えて 根源的な実体を捉えたとし これを知解しまた愛するのであるが この知解・愛また記憶は 生きたものとはならない。これは 実際には 唯物史観となって あたかも共産主義とよばれるコミュニスムの運動として ソシアリスムの社会を築くまでに 生きたもののようであるが それは 人間の三一性そのものとそれを超えた領域との構造を把握しようとするにすぎない。この構造が信じられたとき 三一性主体としての人間が 実はその理論に合わせてのように 行動して〔その限りで生きて〕いるにすぎないと言うべきである。
マルクスその人はもし コミュニスムを 掲げるべき理想であるとかそれに基づくべき準拠であるとかではなく 現実のいまの運動であるとしたなら それは かれの三一性の・上に述べた大きな構造が――この構造じたいを信じてではなく また 実際に言って 物質を信じてでもないだろう―― この構造を支える何ものかへの信によって つねに裏付けされていたからであろう。唯物史観が 唯物史観を表現する(あるいは生きる)のではなく 人間(マルクス)が 唯物史観を 人間の(かれの)有として 表現しまた生きたのである。必ずしも明示されなかったかれのむしろ信仰(それは史観だが しかし唯物史観ではないであろう)が 唯物史観〔なる理論〕を所有したのである。その逆ではない。
しかし キリスト史観の場合は たとえばパウロその人が 神に捉えられてのように この史観を生きたのである。また著わしたのである。かれの所有したものは その生きた生における行動や会話全体である。だから――と言うように―― マルクスその人も このような生の構造・過程をたしかに生きたのである。たが その所有したものが いわゆる唯物史観と名づけられた行動や会話の全体であった。しかも 後に そのかれの表現した思想が その文章が 唯物史観と名づけられ持たれるようになった。
《マルクシスム(唯物史観)は わたしのものではない》という意味のかれの発言は このことを証ししていると理解される。

  • マルクシスムは マルクス自身ではないし またマルクシスムを保つ人もその唯物史観じたいではないのだから それぞれ その主観において生きていることになる。主観において生きていること自体 双方にとって問題はないわけである。表面的には名称の問題 実質的にはそこで共同主観が またその原理が はたらいているものかどうかが問題であることになる。

神を否定し根源的な存在を物質とたしかにするかれも そのように神に捉えられてのように 神の賜物でありそれじしん神である聖霊によって 神が必要としたまう限りで いわゆる唯物史観なる思想を表現したのである。と言いうる。神の次元への観想によってこのように 表現して捉えることのほうが 現実を証しするであろうと考えられる。しかし このソシアリスムじたいが明らかにしようとした構造――三一性の次元とそれを超えたものとの構造―― これは 問い求めの場所としてというように 生きたものである。類としての人間つまり 三位一体なる神の似像という存在一般の視点から言って。

〔46〕
しかし 復活の後 キリストが先づ地上で聖霊を与え(ヨハネ20:22) 次に天から聖霊を遣わされる(使徒行伝2:4)というのは どうしてであろうか。私の考えでは この聖霊という賜物によって私たちの心に注がれ この愛によって私たちは神と隣人を愛するようになるからである。それは律法と預言者(つまり聖書)全体が懸かっているあの二つの戒め(マタイ22:46)によるのである。この二つの戒めを表示しようとして 主イエスは再度 聖霊を与えたまうた。一度は地上において隣人の愛のために 二度目は天から 神の愛のために与えたまうたのである。あるいは他の理由がこの再度の聖霊の授与のために考えられるとしても イエスが少し後で 《行け 父と子と聖霊の名において すべての国びとにバプテスマを授けよ》(マタイ28:19)と言われて かれらに息を吹きかけられたとき 同じ聖霊が与えられたことを疑ってはならない。このテキストは特に三位一体について示されているものである。したがって ペンテコステの日に つまり 主が天に昇られた後 十日目に この聖霊が天から与えられた。聖霊を与えられるお方がどうして神でないであろうか。神を与える神は何と偉大であろう! いかなる弟子も聖霊を与えることはなかったのである。たしかに弟子たちはかれらが手を置く人びとに聖霊が降臨することを祈った。しかしかれら自身が聖霊を与えたのではない。教会は按手の慣習を今もその指導者の中で守っている。魔術師シモンでさえも 使徒たちに金を差し出して 私が聖霊を与え得るように 《この権能を私に与えてください》とは言わず 《私が手を置くすべての人が聖霊を受けるようにこの権能を私に与えてください》と言っている。・・・

(つづく→2007-10-30 - caguirofie071030)