caguirofie

哲学いろいろ

#171

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十三章b 聖霊(愛)は父と子とから発出する。この三位一体の似像が 人間・三一性主体である。

むろん この論議は道筋が逆である。神から人間の中へ到来していることで なければならない。前章につづいて いくらか論争を行なおうとすれば そのように考えられるというほどの意である。
むろん このことによって たとい唯物史観が論駁されたとしても 唯物史観者じしんが かれの人格全体で 納得したとは思われない。また キリスト史観がより鮮明になったととも思わない。ただ この信仰に立つならば 史観としてそのように とりあえず 史観の場(つまり 主観でもあるが)の構造を明らかにすることは とうぜん許されてしかるべきであろうし 神秘的な表現を用いなければならないまでに理性的に知解しようとすることも 必要な課題であると思われるがゆえにであることにほかならない。
わたしは この必ずしも すべきではないと思われる論争のかたちで表現したことは K.カウツキーの《キリスト教の起源――歴史的研究――》を読んだことによる。ここには それはいわゆるこれまで一般に共通して持たれてきた学問の真摯な態度で書かれており あの人間の内密な言葉・真実な言葉があると考えたからである。ただ この――それが 或る一つの言葉で書かれたものであっても どの国の言葉にも属さない――人間の真実の内面の言葉は たしかにわれわれはこの言葉によって自己の真実を伝えるのではあるが 不類似の類似でしかないと言わねばならない。神の言葉 すなわち御父の御子 すなわち真理つまり愛に それはいくらかは似ていると考えられる人間の内面の言葉も 聖霊なる愛を生むことは出来ない(――当たり前だが――)というほどに 真理なる神の言葉にはなはだしく遠くへだたっているというのが われわれの史観であった。それが 精神において捉えられ認められたものにとどまる限り(そのとき もちろん 行動を伴っていないと言っているのではない) 共同の水路(つまり 理論とも言える)を形づくることが出来ても この水路に生命(史観もしくは愛)の流れることは見ることが出来ない。

  • または 理論を築くという目的・意志・そのような愛は 流れたわけではある。

しかし なるほど理性的に納得できても かれは まだ鏡を見ているのだ。鏡をとおして 理性的に知解することによって――なぜなら鏡は鏡 つまり似像でしかない―― 意志の休息と目的とを見ることが 望まれるのだ。
もしこのようないわゆる学問的に真摯な態度というものが 生の全体つまりその意味で史観の全体であるとされるなら われわれはなお自由でなくなる。つまり 身近な例で言って このような真実の態度を 精神の全体として もしコミュニスムを打ち立てようとするならば つまりたとえば そのようにして愛を打ち明け 婚姻ないし共同主観(つまりそのような八重垣)をかたちづくろうとするならば 人間はこの自己の内面の真実な愛に〔のみ〕拘束されることになる。どういうことか。
霊魂(形相)の真実は いまだ肉(質料)にしたがっている。つまり人間にしたがっている――これはほかならぬ唯物論の説く原理である――からである。たとえば 《形相は質料の反映である》という命題によるかぎり そうである。そのように愛を打ち明けられた人は つねにそのつど 拘束されることになる。いくらか飛躍があるかも知れないが そうなると いわゆる共産主義の説く《婦人の共有》は 霊魂という名の肉体の共有でしかなくなる。八重垣成るコミュニスムは そうではなかろう。この人間の真実の愛を その精神をあの至高の三位一体の似像であると認めるときにこそ――言いかえると この人間の真実の言葉も なお時間的・可変的・偶有的なのだと認めるときにこそ―― われわれは 真理(自由)の国に入るのである。そこで 霊的な――つまり 意志の真の目的であり休息を見出しうる――愛を 受け取る。すなわち聖霊なる神の国に 人は入るのだ。聖霊なる愛なる神は 人間が これを生んだのではなく 人間〔の意志〕を超えて 発出され派遣されている。この現実を受け取るとき 《血筋によらず 肉の意志によらず また人間の意志にもよらず 神によって生まれた人びと》ということが把捉されるのである。そうでないと 《自由人の連合》は その連合形態の〔形相的な〕自由であり またともあれこれが実現された場合にもこの連合形態(社会形態)によってのみ 人は自由となるとしか つまり外形的なやしろの中でのみ自由であるとしか 考えられないことになる。
独立主観の自由人であるからこそ そのかれらの連合が 外的なやしろにおいても成り立ってゆくのである。第二のアダムであるキリスト・イエスは この独立主観の自由人の初穂となられた。だからもし かれが今も生きてこの世を支配しているなら つまり人間にはそのゆな現実があるとするなら つまりそれが人間の生命(愛)であるとするなら この実体に属くことによって(その声を聞き分けてついていくことによって) またそのことによってのみ さらに言いかえると 人間の内面の真実な言葉そのものによってではなく この真実の言葉を生かす真理なる実体(それも声 言葉だ)によって 自由人の連合も可能となると考えなければいけない。真実の言葉はその三一性において かのお方の似像であり 似像であるならなお 可変的・時間的なのである。三一性の実体 その三つの行為能力は 人間そのものではなく――人間は三位一体なる神の似像である。また 《キリスト教の起源》(それがキリスト教を否定していようと肯定していようと)の真実の三一性 記憶・知解・愛の真実は カウツキーその人そのものではない―人間の所有するものである。唯物史観が人間を造るのではない。人間が唯物史観を持つのである。また物質が人間を造るのではない。物質は人間を構成するものである。
人間は そのように把握するのである。把握したものは 人間そのものではない。また人間の全体ではない。もし全体であったとしても――全体をよく反映していたとしても―― それはなお 可変的で時間的な実体として 移ろい行くものである。もしここに 究極的な事体として神を問い求めようとしないとしても 移ろい行くものを移ろい行くものとして 捉えることは 生かされなければならない。しかし そこまででも留まっているとするなら 唯物論と言いながら なおやはり形相主義の唯心論に結局は陥って行くことにならないであろうか。そこには 唯物史観として捉えた形相と その根拠である物質との 相互関係の中でしか 人間は把捉されないからである。
人間の真実を なお移ろい行くものとして捉えないなら あるいはそう捉えたとしても はじめの唯物史観という真実が真理と見なされ この真理の枠内での諸真実ないし諸理論がただ 移ろい行くのだと主張することになる。そのときには 唯物論と言い 唯心論と言っても 結局は同じものごとの盾の両面でしかないようになる。
このように説くことは 《誘惑(いざな)うもののようでいて 真実である――しかもこの真実は 可変的・有限な真実であり なおかつあの不可変的な真理に裏打ちされている――》と或る人が言ったとしても それは不思議でも 理性的に知解しがたいことでも ないであろう。人間の表現するもの(言葉ないし文章 あるいは身振りなどの動作)は このように《欺いているようで 真実である》というかたち なお言うならば 《虚言を語っているようで その虚言が欺かれることはない・つまり虚偽から自由である真実》によって その意志が伝達され したがってその目標に到達するという目的に憩う人の愛が完成されてゆくものではあるまいか。このことはわれわれは すでに《知のパラダイムの変換》ということで語った。
カウツキー著《キリスト教の起源》を読んでこう考えた。そこに語られる真実は 鏡としての・もしくは主観の場としての 真実であると。人間は この真実によってではなく その鏡をとおして――そしてなおも謎においてのように―― 自己およびその根源(その光)を問い求める真実によって 自由となると考えるのである。いや まづ先に光に触れ つまり予感することによってであれ 真理は自由にするとの声を聞き(信じ)かつ 理性的に知解したがゆえに なお 謎においてのように 自己を問い求めるのではないだろうか。これを 空想であると考える人びとは いわゆる空想 つまりほんとの空想(アマテラス語しんきろう)に脅えているのである。このシンキロウを 外的に血と鎌とによって打倒しようと またそのことによってしか打倒できないと信じている人びとは 間違った史観に立っていると思われた。マルクスに――それへの傾斜(たとえば 《共産党宣言》や《ゴータ綱領批判》)はあるが―― そのような思想はなかったと考えられる。レーニンによるソシアリスム革命は このシンキロウを――それがなお別の形でしろ存続すると言ってのように―― 旧体制の中でいわば封建市民としてではなく ソシアリスム社会形態の中で近代市民として 各主観が 主体的に 克服するというための社会的な土壌の革命であったと考えなければならない。
(つづく→2007-11-04 - caguirofie071104)