caguirofie

哲学いろいろ

#170

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十三章a 聖霊(愛)は父と子とから発出する。この三位一体の似像が 人間・三一性主体である。

〔第二十七章 48〕
しかし あの共に永遠で等しく 非物体的な 言詮を絶して変わることなく不可分離的な三位一体において 発出と生誕とを区別することは極めて困難である。このゆえに さらに知解を深め得ない人びとには 私がこの事柄についてキリスト教の国人の耳には 或る説教で語り そして語られたものを書き留めたもので差し当たりは十分であろう。とりわけ 聖書の証言に準拠して 聖霊は御父と御子とから発出するということを私は次のように教示した。

それでは もし聖霊が御父と御子とから発出するなら なぜ 御子が《聖霊は父から発出する》(ヨハネ15:26)と言われたのであろうか。もし御子が自分の有(もの)をご自分の存在の根拠であられるお方へ常に返されるのでなければ それは なぜかと思うか。それゆえ 御子は 《わが教えはわが教えではなく 私を遣わされたお方の教えである》(ヨハネ7:16)と言われるのである。したがって もしここで御子がご自分の教えが理解されるなら なおさら聖霊は私から発出しないと言っておられるのではなく 《聖霊は父から発出する》と語られる箇所で 聖霊はかれからも発出すると理解すべきではないであろうか。
御子はその神であること――御子は神からの神であられる――を受け取るお方から 聖霊が御子からも発出する ということを受け取るのである。このため 聖霊は御父から発出するように 御子からも発出する ということを御父自身から受ける。ここで なぜ聖霊は生まれた と言われず むしろ発出すると言われるのか ということが 私たちのようなものによっても理解され得るかぎり 或る程度は知解されるのである。もし御霊が子といわれるなら たしかにかれは父と子の子といわれるであろう。このことは全く道理に適わない。たしかに いかなる子も父と母の子以外の二人の子ではない。父なる神と子なる神のあいだにこのようなことを想像してはならない。なぜなら 人間の子は父と母から同時に発出するのではないから。子は父から母の中へ発出するとき 母から発出するのではない。また子が母からこの世の光の中へ発出するとき 父から発出するのではない。
さて 聖霊は父から子の中へ発出するのではなく また子から被造物を聖化するために発出するのでもない。たとい御父が御子に 聖霊がご自分から発出するように御子からも発出するようにさせたまうにしても 聖霊は両者から同時に発出するのである。私たちは御父や御子は生命であるが聖霊は生命ではないということは出来ない。このゆえに 御父がご自分のうちに生命を持ち 御子にもご自分のうちに生命を持つようにしたまうように 生命がご自分から発出するように御子からも発出するようになしたまうのである。
アウグスティヌスヨハネ福音書講解 99・8−9)

私はこれらの言葉をあの説教からこの書物に写し記したのである。しかし 私がその折 語った相手は信じない人びとではなく 信じる人びとである。
アウグスティヌス:三位一体論15・27)

《生命(愛)がご自分から発出するように御子からも発出するようになしたまう》神とは 何と偉大なことであるのか。その神は 《ご自分のうちに生命を持ち 御子にも語自分のうちに生命を持つようにしたまう》のだ。この三位一体の神を わたしたちの存在の根源と言わないよりは 言ったほうがよいのである。なぜなら われわれ人間も わづかながら――むろん 生命を持つようにさせることは とうてい出来ないが(人間の・科学の力を尽くして その技術的な操作の手段を講じることは できるが)―― わづかながら 愛(そして殊に性の関係では いのちとも呼ばれる)が自分から もしくは相互のあいだから 発出するように喚び求め これの実現を時として見ることはありうるのである。この根源を 形相を持たない質料 第一質料因 すなわち物質という究極的な存在というものに 見ようとするのではなく われわれ人間の・その似像である三一性実体にすでに形相(精神の視観能力)が与えられているとするなら それ・つまり 三一性主体がその似像であるところの三位一体の神に ゆだねるようにして 観想しようとすることは 時間的存在たる人間の生命であり愛である。
もし この人間の持つ形相(言葉ないし言語としての記憶・知解・愛)が 単に人間の身体をかたちづくる質料ないし物質の脳裡や神経において反映し翻訳されたものにすぎないとするならば 言いかえると いま無機物や植物は問わず さまざまな種類の動物において 人間以外の生物には たとい部分的には共通して同じ物質ないし質料によってそのからがが構成されていようとも この翻訳能力は付与されていない。つまりだから 人間は万物の霊長として そのように生物が進化してできたものだと見ようとするならば ――いま或る種 突飛なことのように響くかも知れないが――いまの人間という一生物種が これ以上に 進化しないという考え方も出来るとは言えないであろう。
もちろん だからと言って いま現在に あたかも究極的な存在として神を想定し この神が人間ともなったとして 至高の人間という模範を断定してしまうことも 出来るとは言えない。しかし ひるがえって 生物の進化の過程の中で――いまそのように仮定しての話しだが―― 物質を形相として翻訳可能にさせ言葉を持たせ得る物質の存在形態 すなわち人間が いまの段階で最高の存在(生命)であると断定してしまうことはより一層あやまった宗教形態ではなかろうか。
言いかえると こうである。人間は―― 一個のペルソナとしての人間は―― 類としての人間(広く人類 つまり そのような生物種)に アマテラス語客観において すべて還元されてしまうわけではないだろう。(いま経験的に 人間という一生物種がいるというだけであって 一個の人間が 類としての人間に この一生物種の前提のもとにさえも 還元されるかされないかは 分からないと言っていなければならないであろう)。あるいは 時間的に――つまり上のように空間的ではなく 歴史的に―― 一個の人間の一生涯ないし各世代を超えて 単に類としての人間の継続性の中で 愛しあい生活し生きるとは つまりそのようにも還元されてしまうとは とうてい考えられないのである。
唯物史観がもし このように 物質に拠って人間存在を捉える限りで いまの人間という一生物種 類としての人間なるものを 暗黙のうちにその大前提として見ていなければならないとするならば――必ずしもそうは言っていないだろうけれど 社会的にも《社会的諸関係の総体が 人間の本質であ》って そんほかに 本質=存在者は存在せず つまり その根源的な本質は 物質なのであると いわば堂々巡りの大前提を前提としているとするならば―― むしろ結局においては いまの人間の形相能力〔・その歴史的な段階ごとの精神(つまり 物質それじたいの自己認識といった反映形態)〕を 最高ないし最終の存在としていることにほかならない。それはむしろ 形相主義 idéalisme その意味での唯心論に立っていはしまいか。われわれは 形相主義的な唯心史観も そして唯物史観も しりぞけるのであった。そのように人間にしたがってではなく――そのとき たとえ生物のさまざまな種の進化をいう想定に立つことえお認めてさえも その進化の過程の一段階としての人間にしたがってではなく―― 人間は つまり他の動物にまさって形相能力を持つこのいまの人間は 至高の三位一体なる神に呼ばれて――つまりそうであるがゆえに 類としての人間とその歴史客観に 一人ひとりの人間が 還元されきることなく それぞれがその主観ごとに神に呼ばれて―― 生きることのほうを 客観といえば客観であると つまりいづれにしても 究極的に自由であるとした。この上に立って 唯物史観が生きるのである。その逆の道筋ではなかろう。
主観ごとの自由とは 或る意味で危険であるかも知れない。しかしわれわれは ここにおけるやはり主観ごとの自由な実験 自然的なプレ・スサノヲ者ごとの何をしてもよいという自由ではなく これまでに述べてきた神の国としての史観に 自由意志によって立った愛 これが 形相能力を生かし したがって物質と言うなら物質 つまり身体をも当然のごとく生かすと見る。(この愛が 共同主観であるが アダム・スミスは あの《同感》の概念を出して そのはたらき・機能的な側面を〔も〕捉えた。しかし 第三者の冷静な観察によっても同感が得られるような行動・思想に 愛があり人は自由であるというよりも いまあえて神秘的な言い方をするならば 至善なる形相・至高なる三位一体に属く人の愛・行動が 第三者の同感を得るのである)。
究極的な存在の観想において 物質をそれと見る史観はその途中で止まってしまった・つまり判断停止の状態にこそあると考える。ここでも人間は自由を見ようと思えば――その精神において―― 見うるであろうが つまり自己が自己として立ちうるであろうが 意志の目的と休息は ここにはなく つまりいまだに中途半端であり そこに見た自由は 精神において認めるというのではなく この精神をなお至高の存在である三位一体の似像として認めるときにこそ 意志は目的を見出してのように憩い休むのである。そのとき 愛が――人間がそれを生み出したというのではないほどに―― 発出するのである。
これは 形相能力のなんらかの一環とてではなく また物質ないし身体の運動そのものに還元されてでもなく むしろ自己の全体をそのものに委ねてのようにその御者(おんもの)が働いてというように 永遠の生命(自由)であるとわれわれは告白するのである。
むろん この論議は道筋が逆である。神から人間の中へ到来していることで なければならない。前章につづいて いくらか論争を行なおうとすれば そのように考えられるというほどの意である。
(つづく→2007-11-03 - caguirofie071103)