caguirofie

哲学いろいろ

#169

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十二章b 人間の受け取った聖霊が 現実である

《つまづかない》かれは なおも《つまづきの石(キリスト)》に属くのである。《八重垣》は この関係性――しかも キリストなる《つまづきの石》は 超越的にしてあるだけではなく 日常の他者との関係のなかに置かれる――の中にこそあり むしろ 内的に あの悪魔たる蛇の差し出す《九重》のシンキロウ(その虚偽)と闘う過程にこそある。
だから この過程において《語るのはあなたがたではなく あなたがたの父の御霊があなたがたにおいて語る》(マタイ10:20)と言われるのである。この《父〔と子と〕の御霊》とは 聖霊なる神 すなわち《愛》である。
誰も人が 《愛》を生むのではない。わづかに 意志〔と記憶と知解の三一性過程〕において行為するとき そこに発出される〔ことを欲し 喚び求め 時にその〕愛を 見得るというように 見とどけるのである。この愛を精神において認める人びとは 〔聖霊なる〕愛が あたかも自己の上を通過した(もしくは たしかにあの共同の水路を流れた〕と語るのである。この聖霊なる愛を人は受け取る。あたかも 十字架上のキリストを飲みまつるというように。かれらは すでにそのようにして三位一体なる神を見うるのである。かれらは たしかに自分たちが〔もはや永遠に あの共同主観者らの父アブラハムにまで遡り〕 生かされていると悟るのである。このとき 八重垣は エルサレム(平安の敷居)である。それぞれの目標に憩うとき いやその目標に向かって走るときすでに 平安のなかに包まれているからである。
これは 史観〔という生〕である。この知解じたいは 人文科学であり社会科学である。これは 社会科学(ヤシロロジ)の理論であって 史観であるなら初めに信仰・主観(社会思想)であり 誰もこれを ただ精神において認めることによって 宗教(アマテラス語客観しんきろう)にしてはならない。
だから 《愛する者たちよ 互いに愛し合おう。なぜなら 愛は神から出るものであり 愛する人は皆 神から生まれ 神を知っているからです》(ヨハネ第一書4:7)と使徒ヨハネからわれわれは聞くのです。《いまだかつて神を見た者はいません。しかし わたしたちが互いに愛しあうならば 神はわたしたちの内にいつもおられ 神の愛がわたしたちの内で実現しているのです》(同4:12)というのは 社会の科学もしくは 人間の科学です。科学がもし人間の理論でしかないなら これは 使徒の言葉は 神の言葉であり 科学ではないと言わねばなりませんが このように《聖霊》もしくは三位一体の神を 人間の観想によって 理性的に知解して表現しようとすることは 人間の科学ではなくて 人は何を科学するでしょうか。
アダム・スミスは この《愛》の働きを 《同感 sympathy 》の語で呼んだ。このことによって 各主観の主体的な行為を主張した反面で その機能的な側面が注目を浴びることになった)。
もしくは 具体的な諸分野の科学は 何のためにこれをおこなうというのでしょうか。科学ならば実験もつきものであり 或る意味で 史観も実験によります。社会科学に実験がないというのは うそです。人に対して あるいは社会に対して 実験をするなどとは 不遜・不謹慎だという精神を 精神において〔のみ〕――だから アマテラス語(そのような律法)において―― 言っているにすぎません。実際には このような律法も容易に 超えられており 実態は 経済・政治・社会的なA圏の またはA圏による社会全体の運営において 試行錯誤という実験をくりかえしているのがそれです。しかしこれは A圏なるスーパーヤシロという頭の上で 行なわれるから 精神はこれを否定しているにすぎません。(また その限りで 否定すべきです)。ヤシロすなわちS圏次元で 自由にこれをおこなえば この実験は実験であっていいのです。愛(自治・経営・政治)は 人が生むものではなく――もちろんそれを欲してこれに取り組むのですが―― ましてやA圏のアマテラス語シンキロウによって創造されるものではなく 自由な人間(だから史観)の意志によって発出するものならば その意味で人はすでにつねに 実験をおこなっている。
つまり 三一性の過程は 実験でないということはない。(新しい行為としての実験でないなら 人は 聖霊なる愛を受け取ることはできない――卑近な言い方をすれば 未知の人であった相手と 恋愛におちいるなどということはありえなくなる―― また キリストを飲みまつることはできっこない。いわゆる前例を破るものは つねに実験です。これがないなら 人間の歴史は 動物の歴史 いや動物に歴史はないその生に 変わりはない)。実験とは 頭の上に しかし自己の中に あの共同水路をとおって 聖霊なる愛が流れる。自己の真実が伝えられることを喚び求めての人間の行為であり またそれは 先に愛なる聖霊を受け取ってのゆえの行為の発進であり これが 外的な可変的・可視的なA圏という《頭の上で》 幻想的な共同の運河をとおって 為されることを嫌うがゆえに いま 愛も実験であると強弁するのです。
(だから人は A圏による政治をとおして 福祉が得られるとか その切り捨てに反対するとかという《頭の上》の愛には 向かわないほうがよい。また やしろに政治が必要であるなら その最低限は S圏の中でのアマテラス行為として つまりインタムライスムとして これを欲するべきである)。だから史観は 科学です。保証金ともよばれる聖霊が与えられているゆえに その上に・つまり人間のあいだに 愛なる資本が 歴史的に 蓄積されることをわれわれは見ます。その土台は インタムライスム=インタキャピタリスム(株式の分有=共有)でした。《資本》主義とは 新しい時代に向けて この謂いであり それはまた 八重垣なるやしろに基づくとするなら 《社会(やしろ)》主義でもあります。これを 科学的なコミュニスムとよんでも 歪んだ精神の持ち主でないかぎり 非をとなえることはないでしょう。
しかしながら われわれは これをキリスト史観とよびます。なんならシントウ(神の道)とよんでも差し支えない。要はそれが宗教ではないという一点です。また唯物史観という場合には それが ただA圏批判という側面に連れ去られていく恐れがある。または だから 何も よぶことはしないほうがよい。したがってこれは 理性的な知解に〔も〕根ざすということであり もし人間が 理性あるいは思惟〔の力〕すなわち自己にのみ絶対の信頼を置くものではないとすれば――そのとき たとい理論はこれをただの道具として 三一性が三位一体の似像であると捉えているのなら かつ 思考能力にも絶対の信頼を置かないなら―― このような科学が現われてくることは 理の当然であり 事の必然であろうということに 異をとなえる人びとは 別の宗教にこり固まっていると人びとが言っても 否定できないでしょう。
いくらか論争的にもなりましたが むしろキリスト信仰を弁護するようなかたちででも このように人間および社会を科学すべきだと 大方の意見は見るとしか考えられない。こう断定する人があっても 不思議ではないでしょう。
《三位一体論》第十五巻は 最終の二章を残して大詰めに近づいてまいりました。
(つづく→2007-11-02 - caguirofie071102)