caguirofie

哲学いろいろ

#168

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十二章a 人間の受け取った聖霊が 現実である

〔47〕
それでは 聖霊は 御子が生まれたとき 御父からすでに発出したのか それともまだ発出しなかったのか また 子が生まれた後 父と子とから発出したのか 問い求めることは出来るであろうか。時間がないところで この問いは意味を持つであろうか。
私たちは時間が存在するばあい 意志が先づ人間の精神から発出し かつ見出されたとき 子とよばれるかどうか問い求めることはできた。すでに生まれ あるいは生み出されるとき 意志はその目標において憩いつつ 問い求める人の願望が 享受する人の愛にあるように完成される。そして愛は この両者 言いかえると 生み出す精神と生み出された知識( notio )とから いわば親と子とからのように 発出する。しかし このようなことは つづいて時間の中で完成されるため 時間において何も始まらないばあいには問い求められない。それゆえ 時間なくして 御子が御父から生まれるということを知解し得る人は 御父と御子とから 時間なくして聖霊が発出するということをも知解しなければならない。

父はご自分のうちに生命を持っておられるように 子にも自分のうちに生命を持たせてくださった。
ヨハネ5:26)

という御子の言葉を 御父は生命なくして存在している御子に生命を与えたのではなく 御父が御子を時間なくして生みたまうたのである と知解し得る人は 御父は聖霊がかれから発出する根拠をご自分のうちに持ちたまうように御子にも同じ聖霊がかれから発出するようにさせたまうたこと またこの両者は時間なくして生起すること さらに聖霊が御子からも発出することを御子が御父から受けられた と知解されるように 聖霊は御父から発出するといわれることを知解して欲しいのだ。
もし御子が持つすべてのものを御父から受けるなら 聖霊が御子から発出するということも御父から受けられたのである。だが そこでは私たちは前とか後とかという時間を考えてはならない。そこには全く時間が存在しないからである。だから 時間の始めなく 本性の変化なく 御父から生まれることが御子に本性を与えるように 時間の始めなく 本性の変化なしに 父と子の両者からの発出が聖霊に本質を与えるなら 聖霊を父と子の子と名づけることは どうしてこの上もなく理に適わないことでないであろうか。それゆえ 私たちが聖霊を生まれたと言わないとき しかもかれを 生まれなかった と言わないのは この ingenitus (生まれなかった)という語で あの三位一体に二つの父 あるいは他のペルソナから由来しない二つのペルソナがある と誰も臆測しないようにとの配慮による。それは御父だけが他のペルソナから由来しないからである。
(三位一体論15・26)

聖霊は《生れたのではない / 生まれなかった》ものであるが つまりかれは《父と子の子》ではないのだが――さらにつまり 愛 interSusanowoïsme が 記憶 démocratie と知解 capitalisme とから発出するようであるというときにも あとの両者が 愛を生んだとは言わないそのとき――
しかも 《生まれなかった ingenitus 》と言わないのは 《二つの父がある》つまり《父なる神のほかに 聖霊を生む別の父がある》と臆測すべきではないためである。しかも 聖霊は 《父そして子とから発出する》のであるから たしかにかれは 父と子から《由来する》のである。父は《他のペルソナから由来しない》お方であるが 聖霊もそうであると つまり《〔父と子とから〕生れなかった》と言ってしまえば 《それではその聖霊は 父と同じように 他のペルソナからは由来しない》のだなと 誰も臆測してしまわないようにとの配慮による。人間の愛は 記憶と知解とともに 三一性をかたちづくる。つまり 三位一体の似像として 三一性なる似像を人間は持つ。だから キャピタリスムやデモクラシ社会組織が 愛する(自治する・経営する)のではなく 人間 またそれぞれの主観が愛するのである。しかしこの人間の愛も 三一性なる似像として 偶有的・可変的・時間的であるとするなら その人間の愛は 究極的に 神なる愛から生まれるのである。三位一体に背いてあたかも生まれる愛は 悪つまり 善の欠如つまり 虚偽の中の・死の中の愛である。この罪を免れる人間は誰もいないが その三一性の似像を その根源なる三位一体に関係づけるとき 人は この三一性の可変性・有限性なる罪・時間知が取り除かれてのように 主観全体がつまり史観として アマアガリする――もちろんなお時間の中にあるのだが――と知ることになった。
したがって御父のみが 生まれなかった とよばれる。勿論 その語は聖書にあるのではなく これほど深い真理について論議する人々がよく用いるものである。それはかれらの能力に適した表現である。さて御子は御父から生まれたのである。聖霊は御父から原理的に発出し いかなる時間の間隔なくして御父が御子にそのことを与えたまうとき聖霊は父と子とから共通に発出する。しかし すべての健全な精神には不快なことではあるが もし御父と御子が聖霊を生んだとするなら 聖霊は父と子との子といわれるであろう。したがって 聖霊はこの父と子の両者から生まれたのではなく発出するのである。
誰も人間は 愛を《生む》ことは出来ない。人は時間的に ある欲求(身体=精神的そしてかつ霊的)を見出し これの実現へ向けて意志する。《意志が先ず人間の精神から発出し かつ見出される》のである。《すでに生まれ あるいは生み出されるとき 意志はその目標において憩いつつ 問い求める人の願望が 享受する人の愛になるように完成される》のである。《そして愛は この両者 言いかえると 生み出す精神(記憶)と生み出された知識(知解)とから いわば親と子とからのように 発出する》。
つまり 人間の愛は 神の愛を第一義的な源泉として そう言ってよければ 人間の愛として 段階的ないし構造的である。しかしわれわれは この神の愛が A語倫理規範と見なされないようにと 経験的な人間の愛が そのまま 聖霊なる愛を宿すと見ようと言ったのである。
人間の三一性において 第三の行為能力の《愛》は 第二の行為能力たる《知解》が 一般に価値生産にかかわるという意味で 《生み出す》力であるのに対して――すなわち言いかえると 行為能力じたいではなく 具体的なものごとについて《生み出す精神と生み出された知識》とが 三一性の過程において 捉えられるとき これに対して―― 〔愛は〕 生産されようとする・また すでに生産されたかのようなその価値(人間のなんらかの真実)を はじめの意志にもとづいてのように 媒介する。(すなわち かれの真実・こころをいわば伝言として伝える)。――すなわち言いかえると 精神の視観(いわば父)とこれを捉えた知識(子)とから〔のように〕 発出する。のである。
はじめの意志(これが第三の行為能力 その意味での愛である)が 聖霊(真理)に裏打ちされているとき 真実となって 《はじめの目標に憩うということを享受する人の愛になるように完成される》のである。この永遠のいのちが 生ける水のごとく発出されつつ流れるとき 一般に経験的なものごとの愛(愛欲)が つまりそのような情念が 虚偽〔と悲惨つまりはじめの罪つまり時間行為過程〕から 解放されてのように 自由となる。情念が自由となるということは かれが欺かれない つまづかないということ つまづかないとは 八重の生け垣が築かれてのように 死から解放されるということ 死からの解放とは 不可変・不可死的なお方との順立の関係に入るということ そうなれば いかなる実を結ぶのですかと問われるなら 人は自由になると答えられた。
しかしこの三一性の過程は かの三位一体なるお方の似像であるので 可変性・可死性・壊敗性を持たないことはなく そこで《愛のないところに 恐れはない》と言われるのである。それは 《自由への恐れ 自由から〔逃れるべくして〕の恐れ》なのではなく 《自由であるがゆえの恐れ》なのである。またそれは 快活な恐れであると考えられた。
《つまづかない》かれは なおも《つまづきの石(キリスト)》に属くのである。《八重垣》は この関係性――しかも キリストなる《つまづきの石》は 超越的にしてあるだけではなく 日常の他者との関係のなかに置かれる――の中にこそあり むしろ 内的に あの悪魔たる蛇の差し出す《九重》のシンキロウ(その虚偽)と闘う過程にこそある。
(つづく→2007-11-01 - caguirofie071101)