#158
第四部 聖霊なる神の時代
第三章 聖霊は神から来て神である
〔第十八章 32 つづき〕
したがって 神から来て神である愛は固有の意味で聖霊であり この聖霊によって 私たちの心に神の愛が注がれ(ローマ書 5:5) この愛によって三位一体全体が私たちに宿りたまうのである。それゆえ 聖霊は神であるが 極めて正当にも神の賜物とよばれるのである(使徒行伝 8:20)。神に導く愛 それなくしては神の他のいかなる賜物も神に導かないような愛を他にして何を私たちは固有の意味で神の賜物と理解すべきであろうか。
〔第十九章 33〕
聖霊が聖書において神の賜物と言われていることをさらに点検すべきであろうか。このことが期待されるなら 私たちは《ヨハネ福音書》において 《誰でも渇くなら 私のところに来て飲むがよい。私を信じる人は 聖書に記されているように その腹から生ける水が川となって流れるであろう》(7:37^38)と言いたまう主イエス・キリストが御言葉を持っている。福音書の記者は直ちに付加して 《これはイエスを信じる人びとが受けようとしている聖霊について言われたのである》(7:39)と言っている。それで 使徒パウロも言う 《私たちはみな一つの御霊を飲んだ》(コリント前書 12:13)と。
しかし聖霊なるあの水が神の賜物とよばれるかどうか 問い求められる。私たちはここで水が聖霊であると見出すように同じ福音書の別の箇所では この水で神の賜物であると言われているのを知っている。主がサマリアの女と井戸の傍で話し会われたとき 女に 《水を飲ませてください》と言われた。女はイエスに ユダヤ人はサマリア人と交際していないが と答えたのに対して イエスは次のように答えて言われた。
――もしあなたが神の賜物を知り また《水を飲ませてください》とあなたに言っている者が誰であるか 知っているなら あなたのほうからその人に乞い求めたであろう。
女はイエスに
――主よ あなたは汲むものをお持ちでないし その上 この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手に入れるのですか。
と言う。イエスは答えて言われた。
――この水から飲む人は誰でも再び渇くであろう。しかし私が与えるであろう水から飲む人は永遠(とわ)に渇くことなく 私が与えるであろう水はその人のうちで泉となり 永遠の生命へと湧き出づるであろう。
(ヨハネ福音書 4:7−14)だから 福音書記者が説明するように この生ける水は聖霊である。勿論 聖霊は神の賜物であり それについて主はここで 《もしあなたが神の賜物を知り 水を飲ませてください と言っている者が誰であるか 知っているなら あなたのほうがその人に乞い求め そしてその人はあなたに生ける水を与えるであろう》と言っておられる。主はあそこでは 《その腹から生ける水が川となって流れるであろう》(ヨハネ7:38) ここでは 《その人のうちで泉となり 永遠の生命へと湧き出づるであろう》言われた。
(三位一体論 15・19)
すでに信仰にあっては キリスト・イエスがこう言われるから われわれは この史観を生きるのです。それ以外に道はありません。
むろんこのことは そうでなく生を送る人びとの主観と同じように 主観的なことがらです。また 同じ観点から どちらもある程度の 共同主観(常識)です。ただもし この信仰告白に意味があるとするなら それは それが《隠れたところから明るみへ引き出すべき真理》だと主張したいからです。むろん この文字そのものに真理があると言おうとするのではなく 信教の自由を尊ぶゆえに 主観の抱く真実を告白するのです。いや 信仰告白にはあまり意味はないと思われる。宣教・護教の時代はすでに過ぎたのであるし だから いまこの確認に 真実を越えて真理を見ようとしている。
われわれの共同主観は その原理的に 一般の共同主観にまさって 少なくとも隠れたところでは この経験的な社会の行為たる常識をみちびいている。なんなら すでに支配している。(それは あの経験的なものごとの支配欲に支配されていないことによって この地上の生を支配している)。この現実は すでに明るみへ引き出してよいことである。そうしないことによって たといこの地上の権威に従うことがt正しいとしても その真理を自己に帰して 人間たる自己がその起源であると誇ることを嫌わなければならないから。信教の自由のゆえに このことを正当にも言いうるし また実際 言わなければならない。もし自己が真理に属(つ)くなら 自己の上には神のみしか置かないとするならば ブッディスム風に言って 共同主観者のその主観は一人ひとりが 唯我独尊として存在する。つまり言いかえると 共同唯我独尊とでもいった存在形式として それは考えられてもよい。しかしながら そのことは あの《我れ考えるゆえに我れあり》を通過した近代市民のばあい 類型的には まったく同じ存在の形式を持っているのだということを意味表示している。意味表示しつつ そうなのである。
これがすでに現実であって――キリスト史観は 現実の存在全体の中では一v部であって 少数者であったとしても すでに現実であるなら―― この現実を表現し 明らかにすることは すでにその本来の性格と務めから言って それは 科学的な知解行為 人文科学ないし社会科学に属するとこそ言わざるを得ない。(客観世界を扱うとされる社会科学が 主観から離れてあるものではないことは すでに現代の常識です。だがもし ちがいがあるとすれば 一般の社会科学は その根底にある視点としての主観を 自明のことのように見えるかも知れないのだが その自明とする前提を疑わないか または 疑ってもさらに追究したりせず また追究してもこれを必ずしも明らかにしないし また し得ないと言うように 説き明かさないし なお説き明かし得ないことにあるようです。
《わたしは これこれ 誰だれの声について行く》という信仰告白は 一度うたがって見るべきであり 一度それに表現を与えておくことも必要であると思われた。いづれにしても 新しい時代には この内観において 一般の共同主観が それぞれ互いに問い求められてゆくと思われる。それは 信教・思想の自由に立つゆえにであり つまり 信教が自由であるゆえに 各主観の信教はほんとうは自明ではなく 自由であるがゆえに 一度は表明すべきであるとなると思われます。このキリスト史観の主張は その一翼です。
われわれの歴史は現代において あの人間の理論の時代を通過し あるいは少なくとも通過qしつつあるといった見方が提出されており この前提に立つならば いま信教の自由のもとに その主観を――信仰の次元での議論をも容れて――明らかにするということは この信仰(人間)を 知解しうるように 理性的にも明らかにしなければならない。そして問題は それほど難しいとは思われない。はじめには各主観ないし信仰に立っていたのであるし――あのルネサンスも信仰から始めているし 自然科学も信仰の中味の経験世界における吟味からだったし―― また 日本の社会に限って言っても 日常の生活習慣の上に立って さまざまな議論が展開されてきたということは 一般に 生活慣習の中の種々の信仰や主観とそれらが切り離せないものであることはむしろ記名であることを物語っており したがって世界史的に見ても この人間の理論・科学の時代は まづ歴史にとってごく最近の短い期間の現象なのであり おそらくその底流には つねに 人びとの主観ないし信仰が 第一次的にあって これらに支えられてのものだと言っても あながち否定されるべきではない。このような視野に立っての共同主観が――あたかも信仰の次元と人間の理論の次元とを綜合するというようにして―― 問い求められると考えられるのです。
このような観点から またこのような一つの議論として われわれは この小論に着手したのでした。内観が 現実であり まづ現実はこの内観にこそ存在するという視点が 確立されてゆくであろうと思われる。人間の理論は このことを 理論的に・つまりその限りで外に 明らかにしてきたとこそ言わなければならない。もしこの理論が 道具としてではあっても この内観として人間の中にあるのだと言うなら それは 知解行為(《コギト》)という人間の一行為能力としてなのだと答えなければならない。知解行為や理論は その限りでなお 外にある。なぜなら それらを 信仰もしくは人間の存在の全体とは為し得ないのだから。だから現代人にとって 自己の主観は 決して自明ではないのである。主観は 悪しき客観(知解行為は客観と捉えようとするから) あるいはたとい良い客観理論であってもその客観語へとは 拉し去られてゆくことは出来ないし またそのように〔信仰〕してはならないのである。
次には 次章でかんたんに この聖霊のもとに 史観が共同の主観であることを見ます。
(つづく→2007-10-22 - caguirofie071022)