caguirofie

哲学いろいろ

#172

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十四章a だからと言って人間は 愛が記憶と知解とから発出するという三一性の中に閉じこもるわけではない。この三一性なる似像を人間は 三位一体に関係させうる。

〔第二十七章 つづき 49〕
しかし もしかれらが被造物であるこの似像を凝視するのに適しくなく また かれらの精神の中にある三つ しかも三つのペルソナであるように三つではなく 一つの人格である人間に属しているこの三つの能力が いかに真実であるか を見るのに適しくないなら かれらは神なる三位一体について人間の愚鈍にして無力な精神によっては捉えられない極めて透徹した根拠の説明が与えられることを望むより むしろ聖書に見出されることをなぜ 信じないのであろうか。
アウグスティヌス:三位一体論 15・27)

三つの行為能力によって捉えたもの(たとえば 唯物史観。その表現 言語体系)が 真実である――それはたしかに真実を含むが――のではなく 三つの能力 その三一性じたいが いかに真実であるかを見るべきである。そうするなら この真実は なお可変的・時間的なものであり ここに意志の目的はなく 愛は完成されてそこに憩うことはできないことを見るであろう。
聖書は 神の言葉であるが 人間の言葉によって神の言葉が語られているゆえ この人間の真実 の有限性 不類似の類似を指し示すのである。それは 何度も説いてきたように 人間の言葉の客観 またそれが倫理的に把捉されるなら律法規範 ではないことが それ自身によって 示されている。なら この言葉は要らないかというよりも 人間はこの言葉の世界といった時間知の中にあり この時間知を――超えることはできるが――離れて生きることはできないゆえに なおもその同じ言葉によって 真理を指し示す真実の内省が語られたのである。
カウツキーの著書は 《人間の真実 その三一性なる一つの実体(またそれは 似像であるが))》を 指し示している。聖書は 一見すると愚かに映るほど 《人間の真実》を――倫理的な言葉のかたちによっても――語り これをなお通して 真理を証言したのである。
キリスト・イエスが すべてのもの初めとなって そのことを生きられたのである。そのことを語りえた 聖書は。だから 内なる人の秘蹟・外なる人の模範と 讃えられ――そのように 倫理的な知識ではもはやなく また 理論としてでもなく 史観(もちろん信仰であるが)として―― この上なく安全にかれにわれわれは あやかれるのである。かれは そのことの告知を 死によって死に打ち克つという手段(史観の原理というまでの)によって為したまうたのであり 全世界をかれの証言として持った。ということは 全世界が かれという書物の注釈書となったと考えられ このような死の克服ということは われわれ人間には出来ないゆえに――使徒や殉教者はこれを為した―― かれは 人間の真実を語ったのではなく 神なる真理を指し示した。いや 真理なる神ご自身であったわれわれは告白するのである。この真理を生きることが 神の国なのであり われわれはこの神の国を分有するとき 自由である。人間の自由から 神の国を 精神において認め望もうとすることによってではない。ヘーゲルの言うように 《だんだんと真理に近づくようなしろものによっては 人間の理性は満足しない》からである。
人間の意志の究極の目的と休息は ここにあり それは 原理(キリストを飲みまつるバプテテスマ)としては 瞬時にしてその全体が その過去の虚偽の癒されてのように 成立し また なおも時間知を離れない神の似像たる人間は 日から日へ時間的に 現在から未来へ向けて負うことになる(それは 過去のなおも継承である)虚偽を その病いの状態に応じて回復へとみちびくことになる。真理から人間の中へ到来して 人間に近づくという道だからである。また 道というからには 目標と現在の地点とを結ぶ道程があり それは 時間過程的・歴史的であるからである。しかし このことは 類としての人間の各世代の連結にまづ立ってというよりは 一個のペルソナの一世代の・つまりかれの一生涯の期間内に 意志が憩う場所を見つけてのように その愛(生・史観)の全体として完成されるというのが われわれの信仰である。

  • 誰も これに 異論があれば出すべきだが これを妨げることは出来ない。

途中で ある日 神に召されてのように 身体の死によって挫折するかしないかは――つまり人間的な真実の経験的な挫折は―― このとき問題ではない。それは 後につづくキリスト者 つまり他の 類としての人間に記されるからというのではなく 一個のペルソナとしての人間の中に 愛つまり神の国は完結したものであると信じられなければならない。この独立主観によってしか 自由人の連合はもたらされない。だから 信じない人びとにはこの史観は 愚かに映り また或る種 大きなものとして恐れられるであろう。がそれに対してわれわれは 実験という言葉をそのような人びとに語るために用いるのである。(B.パスカルは 《賭け》の語をも用いた)。(これは かれらをつまづかせないためであり また かれらとわれわれとの間に 悪魔につけ入るすきを与えないためである)。しかし もし人が神に呼ばれたのなら 実験とか何とかということは 問題ではなくなるであろう。この実験と映る愚かさは 人間の真実を 鏡そのものとして探究する人間の理論の賢さよりも賢明な史観であるとわれわれは告知するのである

かれらが確かにこの聖書をこの上なく真実な証人として堅く信じるなら 祈りと問い求めと善き生きざまによって 信仰によって保持されているものを知解するように 言いかえると 見られ得るかぎり 精神によって見るように努めなければならない。誰がこのことを禁じようか。いな 誰がこのことを勧めないであろうか。もしかれらが盲いたる精神によってこの真理を認めることが出来ないゆえに 否定すべきであると思うなら 生まれながらの盲人は太陽の存在を否定しなければならないであろう。

  • 《祈り》とは 或る欲するものの獲得を願う祈りではなく 一般に具体的に所有からの疎外の止揚が 《主観》的に自己疎外の止揚を 基礎とすると言いうるほどに そのように 《内面へ向き変えられること》である。(むろんそこで なおかつ 神に祈るのである。ただ 祈るなら 自己還帰を獲得するであろうというよりは はじめに 自己還帰している。つまり 自己疎外の止揚の原点についている。ゆえに 祈るのである)。それは 神に呼ばれたあと なおかつ自己を保持することのあの《快活な恐れ》に似ている。または 同じである。これを 《弱き者のためいき / アヘン》であるというなら 何を《自己還帰》と言うのであろう。《愛のないところに 恐れはない》のであるから。誰も マルクスが 無神論に立ったマルクスが 祈らなかったと 思ってはならない。
  • だからわれわれは 信じる人に対して述べるというようにして 信じない人びとに対しても語らなければならない。しかし この信じるということは 信じない人びとに対して その史観が証言となるということでもあったことをわれわれは知っている。信じる人びとには 互いに助けとなるのだ。

だから 光は暗闇に照るのである(ヨハネ1:5)。暗闇が光を捉えないなら かれらは信じる人になるために先づ神の賜物によって照らされるがよい。そして信じない人に比して光であり始めよ。この基礎が前もって据えられたとき 信じるものを いつの日か見得るように 見るために立たしめられよ。実に 全然 見られ得ないが信じられるものがある。キリストは再び十字架において見られるべきではない。しかし もし このことが為され そして見られたということが信じられず将来キリストが再臨し 見られるであろうことが望まれないなら 終わりなしに見られるべきキリストに到達しないであろう。しかし あの至高の 言詮を絶した 非物体的・不可変的な本性を知解力をとおして 何とか認めるべきことにかんしては 人間の精神の眼差しが信仰の規則によって導かれるときこそよく練習するのである。それは人間自身がその本性において他の動物よりも優れている精神そのものにおいてなすのである。この精神に不可視的なものの或る種の直視( visio )が許されている。また いわばより高く内的な場所に栄誉をもって司るこの精神に 身体の感覚は判断されるべきすべてのものを告知する。神以外にこの精神よりも高く そして精神を服従させ指導すべきものは存在しない。

  • だからと言ってわれわれは 神の擁護 キリスト教の弁護をしたであろうか。むしろ あの《汝自身を知れ》と言ってのように照らされるがよい。そして信じない人に 人間の科学あるいは 社会の科学を提唱したのではないだろうか。むろん 理論はつねに工事中であるなら これにわれわれは努めたのである。

次が アウグスティヌスの締めくくるべき言葉である。
〔50〕
しかし 私が語ってきたこの多くのことにも拘らず あの至高の三位一体の言詮を絶したものに適しいことを少しも語らなかった と敢えて表明する。だがむしろ 神の驚くべき知識は私の弱さを超えており 私はそれに達し得ざる(詩編138:6)ことを告白する。
おお わが魂よ 汝の総ての邪曲(よこしま)に 恵み深くあられたお方が 汝の疾患をことごとく癒したまうまでは(詩編102:3) 汝は何処(いづこ)にあると思うや。汝はたしかにあの旅籠屋(はたごや)にいるのを知っている。そこへあの善きサマリア人は強盗から多くの傷を受け 半死半生になっている人を見つけて運んだのだ(ルカ10:30−44)。
また 汝は多くの真実を見た。それを見たのは物体の色を見る肉の眼ではなく 《わが眼が公正を見ることが出来ますように》(詩編16:2)と言って祈ったあの眼である。だから たしかに汝は多くの真実なものを見たのである。汝が見ることが出来るように証明したあの光によって それを見分けたのである。汝の眼をこの光そのものへ挙げよ。そして もし出来るなら 眼をそれに固着させよ。そうすれば 神の御言の生誕が神の賜物の発出とどのように異なるかを見るであろう。この相違のために独り子は 聖霊は父から生まれたとは言いたまわず(もしそうなら聖霊は独り子の兄弟となる!) 父から発出した と言いたまうたのである。それゆえ 父と子との御霊は父と子の 或る実体を共にする交際(まじわり)であるから 父と子との子である――これは冒涜である――とは言われなかった。しかし 汝はこのことを透明 明白に見るために 眼ざしをそこに固着させることは出来ないのである。私は知っている。汝にはそれは不可能だ。だが私は語る。私は自分に語るのだ。私は自分に不可能なことを知っている。それにも拘らず 三位一体ご自身が汝に 汝の中にある三つのものを示されたのである。その三つにおいて汝は 汝が未だ眼を固着させて観想し得ない至高の三位一体の似像を認識する。三位一体ご自身は汝の中に真の言葉が 汝の認識から生まれるとき つまり 私たちが知っているものを語るとき 存在することを汝に示された。この真の言葉は たとい 各国語が意味表示する言葉を発せず またそれを思惟しなくても 存在する。

  • わたしは すぐ上で カウツキー《キリスト教の起源》は 真実の言葉によって書かれていると言った。しかもそれは むしろ鏡そのものを見つめている。だから人間の精神を至上の存在形態としてここにおいて この真実の言葉(三一性)を保持しているのだ と。たとえばそれは こうである。かれは その著書の中で 《キリストとよばれた人間イエスは 歴史的に存在しなかったか もしくはこれを証明する資料は いわゆるキリスト教的な史料を除いて 信憑性のあるものは無い》という意味のことを述べている。おそらく――むろん歴史的な研究にもよって この説は反駁されているが いまこのことを別として しかし―― こう述べるカウツキーその人は 論理的・学問的な思惟において 真実を述べている。(かれの主観の中でそうだと われわれは知る)。

ところが 鏡そのものを見ているばあいには 歴史的事実を知るための資料・文献というものは そもそも基本的に言って 当てには成らないものだという・もう一つの人間の真実の言葉が そのとき同時に顔を出すものなのである。(そうでないなら 次に言う意味での学問・科学の至上主義となる。つまり 科学的な方法・学問的な手続きによらないばあいの生ないし生活は すべて非現実だということになる。逆に言いかえると 信憑性のあるとされる歴史的な文献などそれら情報から学問的手続きを経て結論されるところの判断は――そこに 一般に 個々の問題・論点それぞれの或る種の三一性 研究者の判断としての三行為能力の一体性 つまりそれぞれの真実があることは 公理であると思われるのだが―― はたして そこに人間の意志の目的と休息を見出しうる普遍的な真実であるだろうか。
(つづく2007-11-05 - caguirofie071105)