caguirofie

哲学いろいろ

#173

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十四章b だからと言って人間は 愛が記憶と知解とから発出するという三一性の中に閉じこもるわけではない。この三一性なる似像を人間は 三位一体に関係させうる。

逆に言いかえると 信憑性のあるとされる歴史的な文献などそれら情報から学問的手続きを経て結論されるところの判断は――そこに 一般に 個々の問題・論点それぞれの或る種の三一性 研究者の判断としての三行為能力の一体性 つまりそれぞれの真実があることは 公理であると思われるのだが―― はたして そこに人間の意志の目的と休息を見出しうる普遍的な真実があるだろうか。
これら真実をとおして 《人間》の目的が問い求められ それが見出されて意志の休息を そのつど 得てのように 人間が生きること すなわち一般に言えば このような史観が 大前提であるのではなかったか。
著書(カウツキーの)の中の論旨は明快で その研究の基礎と言い成果と言い その中で真実であるのだが残念なことにそれは そのように鏡を見て――歴史・社会・現実の そして自己の存在であるところの鏡を見て――捉えたというほどの真実をしか語ってくれない。この一つの鏡の像に対しては 同じ鏡の中から もう一つの像とは言わないまでも 別のことがらを証しする別の真実の声が生起せざるを得ない。《コギトは絶対なのか》あるいは 《どんなコギトであれば 絶対か》などの声である。そもそも この三一性は 可変的・偶有的・時間的であり似像であるのだから。
書板に書かれた真実の像であり それは人間そのものではない。言うなれば だからここで カウツキーは あたかも一人の天使となったかのごとくなのである。もしくは天使に仕えているごとくである。(われわれは 神の声を聞くとき これをもたらしているのは天使だと認識するが 天使に仕えるのではなく この声を聞き分けてキリストについて行くのであって この今度の天使は絶対だなどと言うことはゆるされない。或る時の或る一個の天使を――それは 三一性の真実に深くかかわるのだ―― 他の天使らより上に置き 置くと同時に この天使をそれを派遣したまう神よりも上に置いてしまったのではないか)。ところが われわれの生は そもそも人間の生は 何を意志するかによって左右されると言ってもよい。(文字どおり 左右されるのである)。しかもこれは あくまで身体をともなっての史観であり行為である。天使と同化してのように 身体を離れ 自分は清められたとうそぶくことは許されていない。このとき 人間の内面の真実の声は 逆に言うとすると 《たとい各国語が意味表示する言葉を発せず またそれを思惟しなくとも――三位一体の根源を元として―― 存在する》のだ。言いかえると わざわざ表明して書物を書く(行動する)ということになると この真の言葉そのものに従って生きるということを意味し この真の言葉の存在じたいが かれの存在もしくは その存在の根源と見なされたことに等しい。このときかれは 一人の天使になるか もしくは或る天使に仕えるのである。(だから 史観論であるとか方法論であるとかの場合は 至高の存在つまり神を観想してのように 表現せざるを得ないし 一般に理論は 本質として つねに建築中であると前提していなければならない。しかし だからその前提は当たり前ではないかと言う人びとも そのかれらの三一性の真実が 一つひとつ 分散してしまっていいということにはならない)。
アマアガリということは 天使の存在に等しいものとなるということを意味するが たしかにそうなのであるが それは人間〔の三一性や三つの行為能力〕にしたがってではなく 三一性がその似像である三位一体の神にしたがって生きるとき それへとわれわれが変えられるのである。〔《わたし(キリスト・イエス)より前に来た(アマアガリした)者は皆 盗人であり 強盗である》(ヨハネ10:8)。〕このとき カウツキーの精神は 記憶(視観)とこれを知解するその視観の像 これら両者によって 第三のもしくは初めの 意志をいわば純粋なものとし あるいはあたかも中立とし その結果 視観〔とその視観の像〕がやって来る現実(歴史)という鏡そのものにあたかも同化してしまっているのである。言いかえると カウツキーその人が 意志し研究したというよりは 唯物視観が(もしくは 何らかの現実の要請そのものが) かれをとおして 理論したという結果である。ここには 悲しいかな 意志の目的と休息はなく 一つには自己満足があり あたかも意志の目的と休息とを欲する意志が なお別様に存在し かれはそれへと化してしまったという感が強い。いや そうなのである。(しかも その――その――目的は果たされている)。キリスト史観は このような精神を信仰とは見ず 宗教と呼ぶのである。
しかし キリストが 使徒をとおして 語るというとき 使徒は 意志を持った人間である。同時に 意志は別様に存在しない。だから キリスト信仰は 宗教とはなりえない。客観A語化しえないのである。なぜなら 律法客観語に対しては 律法によって死んだから。神の隠れた真理 人間の謎について こんなにも深く尋究する人びとは この主観の信仰 単純な(愚かな)史観 つまり人間のひとつの主観が ほんとうの生きた客観だということを すでに心(身体)に刻み込んでしまったのです。
人間の真実の言葉は たしかにそれが存在し それをわれわれは持ち貴ぶのであるが これを神なるキリストの似像であると認める。認めるとき 三一性なる真実の言葉は その意志(信仰)を持った人間の有となる。言いかえると 真実の言葉なる三一性過程は あの虚偽を――時間的なものからさらに来る虚偽を―― 内的に棄てる動態である。この虚偽を棄てることは 鏡の中でこの部分あの部分を取捨選択して意志するというのではなく 鏡をとおしてあの謎において見まつろうとするあのお方に固着し 固着することによって 鏡の中のものを 愛し(つまり欠陥に対しては憎み) 生かしてゆくのである。だから 鏡それじたいを 精緻にあやまりなく知ろうというのではなく 鏡は鏡 つまり似像であるとして その可変的なものごとを 生かしてゆく。(ここに 原理的に言うところの 所有からの疎外の止揚が見られる。それは この部分はすでに所有し あの部分が無所有だからこれの疎外を揚棄するのだといった或る意味で具体的な自己疎外の克服の過程 それを史観とするやり方 とは 微妙にちがうと言わなければならない。後者は 共同主観として 言わばやしろの諸関係の中で その全体として 行為する過程である。ただ 前者の主観的・主体的な行き方が すでにそれじたいにおいて 共同主観であると悟った人びとが 後者の過程をみちびくのであり そのとき自由人の連合は完成される)。
唯物史観が コミュニスムないしソシアリスムとして これを為すというのは誤りである。また唯物史観者なる人間が 唯物史観によって 為すということも 誤りである。なぜなら 鏡そのものに拠って その鏡〔の中のものごと〕を 塗り替えるないし配置転換するということだからである。意志の目的と休息は なお残されるのである。だから 世界のすべてを塗り替えなくては おさまらない結果となる。しかしそれは たとい塗り替え尽くしても なお同じ鏡という世界は 人間にとって可変的なものとして また ふてぶてしい顔をして むしろその構造全体を表わしているであろう。これをさらに知解しようと努める人間は そのまま同じすがたで残され そこでは 知解した三一性の真実の集積は獲得されるであろうが この真実を人間の有とする共同主観は なおどうすればよいかと頭をひねる現実が残されていることであろう。わたしたちは いくらか誇るように言うとすれば このようである。

〔50つづき〕
ところで 私たちの思惟は私たちが知っているものから形成されるのである。また 思惟する人の眼差しに 記憶が保持していたものに全く似ている思惟の似像がある。この二つを いわば親と子のように第三の意志あるいは愛が統合する。この意志は思惟から発出すること(誰もその本質や性質を全く知らないものを意志しないから) しかも意志は思惟の似像ではなく したがってこの叡智的なものにおいて生誕と発出の区別が明らかになることを――思惟において見ることと意志をもって欲求しあるいは享受することは同じではないから―― なし得る人は認識し見分ける。わが魂よ 汝はそれをなし得た。勿論 人間の思惟に絶えずあらわれる物体的な類似の雲に囲まれて ほとんど汝が見なかったものを十分な言葉で解明し得なかったし また解明し得ない。しかし 汝自身ではないあの光が次のことを汝に示す。
物体の非物体的な類似とそれを点検して知解力によって観る真なるものとは別である。このことや他の同様に確かなものをあの光は汝の内なる眼に示したのである。だから汝が眼差しを固着してこの真理を見ることが出来ないという理由はどこにあるのか。汝の無力にないとしたら どこにあるのであろうか。それでは汝の無力はどこに原因があるのか。それは汝の邪曲のうちにこそあるのではないだろうか。だから汝のすべての罪に恵み深くあられるお方を他にして誰が汝の疾患を癒し得るであろうか。それで 私はこの書を論議によらず 祈りをもって閉じたい。
アウグスティヌス:三位一体論15・27)

人間の三一性つまり 三行為能力の一体性は(つまり例えば外的なやしろにおいては 立法・司法・行政の分権的な統一性は) 無時間的・原理的な一体すなわち三位一体の真理を分有できるが この地上の生において それは 時間過程的な統一である。言いかえると 司法(視観 / 記憶)もしくは立法(視観からの視観 / 知解)における法(その思惟の似像)と 第三の行政(意志・愛・自治・経営・政治)とは 別である。原理的に言って 〔司〕法から それをあたかも親として 生まれる立法に対して 行政は そこから発出する。しかも人間の時間的な存在は 可変的でもある法(人定法)を見出し思惟し知解し表現し またそれとは別様にというほどに 行政するであろう。また そもそも 人間〔社会〕にとって或る法と 《それを点検して知解力によって観る真なるものとは 別である》。或る法というのが 《物体の非物体的な類似》のことである。
《だから汝の眼差しを固着して これら三一性を超えて それがその似像である三位一体の真理を見ることが出来ないという理由はどこにあるのか。汝の無力にないとしたら どこにあるのであろうか》。だから 三位一体なる神に固着して かれから来て神である聖霊を受け取ってのように この鏡である三一性を もしくは鏡の中の三一性を 生かせるように 《汝の疾患を癒す》という史観が キリスト・イエスによって与えられ〔ることが 示され〕たと告白する人がいても 不思議でも 道理にかなわないことでも ないのである。事実われわれは これを信仰している。これを 理性的にも知解しうるように われわれは キリスト史観の問い求めに着手してきた。
次章では 《第十五巻の最終章》を読んで つまりアウグスティヌスの予告した《祈り》を読み取って さらに新たなわれわれの出発としたい。
(つづく2007-11-06 - caguirofie071106)