caguirofie

哲学いろいろ

#61

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第七節a 人間キリストは しかし 神の御言である

1 神の御言

私たちはまた神の子 父のひとり子 すなわち唯一の子である我らの主イエス・キリストを信じる。しかしこの御言葉を私たちは 声と口とによって発せられ 空気を震動させながら通過して行き 音が鳴っている間よりも長くは続かない私たちの言葉のように考えてはならない。
というのは あの御言葉は変わることなく存続するからである。なぜなら知恵について《自分自身で存続しながら すべてのものを新しくする》(知恵の書7:27)と言われたとき それはこの御言葉について言われたのであるから。だがこの御言葉は それによって父が知られるゆえに 父の御言葉と言われる。私たちが真実を語るとき 私たちの精神は聞く者に知られ 私たちの心の中にひそかに抱いていることはすべてこの種のしるしによって他者に認識されることになるのであるが 私たちはこのことを言葉によってなすのである。同様に 父なる神が生みたまうたあの知恵は これによって最も隠れたる神秘にいます父が それを知るにふさわしい精神(人間)に知られるのであるから かれの御言と呼ばれるのは しごく当然である。
だが私たちの精神と 私たちの言葉の間には 大きな距離がある。というのは 私たちは音としてひびく言葉を生むのではなく これを造るのであり しかもこれを造るとき肉体を質料として用いているからである。だが精神と肉体との間には大きな相違がある。しかし神が御言を生みたまうたとき 神は存在するものを生みたまうたとき 神は存在するものを生みたまうたのであって 何かすでに造られ かつ組み立てられていた質料から生みたまうたのでもなく 自ら存在するものをご自身から生みたまうたのである。

  • だから 神の御子は そのペルソナが 光からの光 知恵からの知恵 本質からの本質と呼ばれるのがふさわしい。

私たちは語るとき しかも虚偽ではなく真実を語るとき 私たち自身の意志の願望をよく考えてみると 私たちも同じことに努力しているのである。というのはこのような場合 私たちが努力しているのは できる限り 私たちの心を 聞く人の心に移し入れ 聞く人がこれを認識し 見通すことができるようにすること以外の何であろうか。こうすることによtって 私たち自身から離れてしまうわけではないのであるが しかも他者の中に私たちの知識を生ぜしめるようなしるしを生ぜしめているのであり また 心は その能力の許す範囲で それをとおして自己を指し示すいま一つの心を生ぜしめるのである。私たちはこのことを言葉 音声の響き 顔付き 身振り等 内なるものを表現するために用いるすべての手段によって なすのである。しかし私たちのこのような内なるものを 完全に生ぜしめることができないし したがって語り手の心を十分に知らせることができないので 虚偽が生まれてくる余地が出てくるのである。
しかし父なる神は 神を知ろうとしている人びとの心に最も正しくご自分を示すことを欲したまい また示すことがお出来になるので ご自分を示すために 生みたまうたご自分と同じ性質のもの(御言)を生みたまうた。そしてこの方によって万事をなし また万物を秩序づけたまうたので この方は《神の力および知恵》と言われる。またこのゆえにこの方について 《力強く果てから果てにまで至り すべての物をたくみに治める》(知恵の書8:1)と言われているのである。
アウグスティヌス:信仰と信条 2 神の御言)

2 御言の受肉

しかし《御言は肉体となり 私たちの内に宿った》(ヨハネ1:14)のであるから 神から生まれた知恵そのものが 人びとの間で創造されることを決意したまうたのである。
(同上=信仰と信条)

というのは 神の賜物 すなわち 聖霊によって 神の深い謙卑が私たちに与えられた〔の〕である。この神の謙卑とは 神があえて 処女の胎内に人間性の全部を摂取することを決意したまうたことであるが  そのばあい神は母体に完全に内住しながら これを少しも傷つけることなく そこから離れたまうたのである。
・・・
しかし私たちは 私たちの主イエス・キリストが地上においてはマリアを母として持ちたまうたことを否定する者たちをも忌避すべきである。あの時 神の配剤は 女から生まれた男となることによって 男女両性を尊重し また ただ単にかれが摂取したもの〔=人間性。また 体・魂(これらは 動物と共有する)・霊(その場)〕のみではなく それによってかれが摂取した媒体(すなわち 母マリア)をも 神の配慮の中にあったことを示したのである。かれが 《婦人よ あなたは 私と なんの係わりがありますか。わたしの時は まだ来ていません》(ヨハネ2:4)と言ったからといって 私たちはキリストの母を否定しなければならないわけではない。しかしかれは自ら 神性という点では母を持っておられないことを私たちが理解するように 注意を促された。しかしかれが十字架につけられたのは 人性にしたがって十字架につけられたのである。そしてこれが 《あなたと私となんの係わりがありますか。わたしの時は まだ来ていません》とかれが言われたときであって その時はまだ来ていなかったのである。
《わたしの時》とは すなわち わたしがやがてあなたを認めるであろう時なのである。なぜなら その時というのは 十字架につけられた人が人間としての母親を認めて 愛弟子にいんぎんに委託された時であったからである(ヨハネ19:26−27)。
(信仰と信条 3 御言の受肉

3 受肉した御言

肉体を持たず 目にも見えない神の御言は 魂と霊とを有する人間の肉を摂取したとき 女性の肉体によって汚されるということがありうるだろうか。〔もしこのような議論が成り立つという向きには 次のように答えるべきである〕。御言の神威は 人間の肉体の脆弱さということを別としても 魂と霊との介在によって隠されているのである。人間の魂そのものも肉体によっては汚されないのである。というのは 魂は 肉体を支配し かつ生かしているときではなく 肉体の死すべき利益を貪欲に追求するときに 肉体によって汚されるからである。
(ibid.)

〔このように〕多くのものについて欲情( libido )がある。・・・この欲情は身体の全体に対して外側からも内側からも力を加え 霊魂が欲望を肉の求めに結び付け混合させて人間全体を動かすのである。その結果 身体の快の中でもそれ以上に強いもののない快が生じ それが頂点に達した瞬間には 思考活動の突端といわば番兵とは ほとんどが隠れてしまうことになる。しかし結婚していても 使徒が勧めるように 《注意して自分の身体を聖く尊く保ち 神を知らない異邦人のように快楽の病に陥ることなく》(テサロニケ第一書4:4−5) もしできればこのような欲情なし子を産もうとする者は 知恵と聖い喜びの友となるであろう。
神の国について 14・16)

このような欲情を伴なってなしとげられる行為は 世間の指弾を避けるために密室を探してなされる不倫のわざだけではなく 地の国が公認した恥ずべき売春の習慣においても 公衆の面前を避けるのである。
姦淫はそれをおこなう者じしん 恥ずべき行為と呼んでおり それを好む者であってもあえて人前で行なおうとはしない。それでは夫婦の性交はどうだろうか。やはり目撃者のいない部屋を探すのではないだろうか。《ローマ最大の弁論の祖》とされるある人(キケロ)も言っているように すべての正しい行為は白日の下でなされることを欲している。したがって この正しい行為も人びとに知られるのを欲しながら 見られると顔を赤らめるのである。
夫婦の互いの行為が子を産むためであることを知らぬ人はいない。たしかに盛大な儀式をもって妻をめとるのは それをなすためである。しかし子を産むその行為に際しても すでに生まれた子たちでさえ証人となることは許されない。この正しい行為がなされたかどうかを知るには心の眼が必要であるが 身体の眼は避けられるのである。すると 自然本性から見てふさわしい行為が恥を伴なってなされるということは 〔最初の人の罪に対する〕罰に由来するとしか考えられないではないだろう。
神の国について 14・18)

受肉した神の御言は これらの罪・恥からいっさい無縁な道であった。(むろんそれらの感覚から無縁であったということではない)。そうでなければ 最初の人アダムの罪が 神の愛によってゆるされたと説くことに対して 人びとから迫害を受けるようなことはなかったであろう。しかも かれが身体を伴なった人間でなかったならば 十字架上に血を流して死ぬことはなかったであろう。さらにまた この迫害の結果 十字架上の死に至るまで 神の御言として・かつ人間として 従順であられ またしかもこれを欲しられて 神の愛を完成させたまうたのでなければ かれ自身 史観であるという道ではなかったであろう。
〔旧約の時代の〕アマテラス語による律法は ただこの新約のキリスト史観を用意する〔神の計画によって与えられた〕人間の知恵による共同自治の方式・掟であったということが 示されなかったであろう。

  • このような神の御心=史観の原理が 神の独り子の・人びとの迫害による十字架上の死をもってでなければ 告知され得なかったかどうか――生存中の言葉と行動とによる史観行為の言わば最終の手段の一つとして(なぜなら 復活と高挙が残されている) どうしてもそのような告知の形式が採られなければならなかったかどうか さらにあるいは 最終の手段の一つとしても ご自分の権能によって他の方法・その死という手段に匹敵する方法が用いられることは 可能であったと思われるのに 何故それを採られたのか―― これについては しかるべきところで われわれはこの教師(アウグスティヌス)の言葉を引いて論じるであろう。

(つづく→2007-07-16 - caguirofie070716)