caguirofie

哲学いろいろ

#174

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十五章 聖霊なる神の時代

〔第二十八章 51〕
われらの神 主よ あなたにおいて私たちは御父と御子と聖霊を信じます。真理なるお方が 《行け すべての国人に父と子と聖霊の名においてバプテスマを授けよ》(マタイ28:19)と言いたまうのは 実にあなたが三位一体の神にいますからです。主なる神よ あなたは主なる神ならざるものの名において 私たちがバプテスマを受けるようにお命じになりません。もし あなたが 一つなる主なる神でいましたまうように 三位一体でいましたまわないなら 《聞け イスラエルよ 汝が主なる神は一つなる神である》(申命記6:4)と神の御声で語りたまわないでしょう。また もし あなたがペルソナの区別なく父なる神ご自身であり あなたの御言なる御子イエス・キリストご自身であり あなたがたの賜物なる聖霊であられるなら 真理の書において私たちは 《神が御子を遣わされた》(ガラテア書4:4 ヨハネ3:17)と読まないでしょう。また 独り子なるあなたよ あなたは聖霊について 《父はかれをわが名において遣わされるであろう》(ヨハネ14:26) また 《私はかれを父からあなたがたに遣わそう》(ヨハネ15:26)とは言わないでしょう。
私は出来る限り また あなたが私に可能ならしめたまう限り 私の注視力をこの信仰の規則に向けて あなたを尋求いたしました。そして私が信じましたものを知解力によって見ようと欲し 多くのことを論じ かつ労苦いたしました。わが主なる神よ わが一つなる希望(のぞみ)よ 私に耳を傾けてください。私が疲れ果てて あなたを問い求めるのに倦むことなく 常に熱心に あなたの聖顔を問い求め(詩編104:4)ることが出来ますように。
おお あなたよ 私にあなたを問い求める力をお与えください。
あなたは私があなたを見出すことが出来るように創造されました。
私があなたをいよいよ深く豊かに見出すようにという希望をお与えくださいました。
あなたの御前にこそ わが力 そしてわが弱さがあるのです。
わが力を守りたまえ。わが弱さを癒したまえ。
あなたの御前にこそ わが知と無知はあります。
あなたが私のために拓きたまうたところで入り行く私を受け納れたまえ。
あなたが私のために入り口を閉ざしたまうところで 叩くこの私に戸ぼそを開けたまえ。
私はあなたを想起し 知解し 愛したいのです。
私を完全に再形成したまうまでは この想起 知解 愛の三つの賜物をわが裡に増させたまえ。

  • このまま一気に 最終の語まで読み終えたいと思います。

私は 《言葉が多ければ 罪を免れない》(箴言10:19)と書かれていることを知っています。けれども 私はあなたの御言葉を宣べ伝え あなたを讃美するためにのみ語りたいのです。かくも多くのことを語るとも 私は罪を避けるだけではなく 善き成果を得たく存じます。あなたによって浄福にされた人間はその信仰における真正の子に罪を命じませんでした。かれはそのような子に 《御言葉を宣べ伝えよ。時を得ても得なくても》(テモテ後書4:2)と書いています。時を得てだけではなく時を得なくても 主よ あなたの御言葉について沈黙しなかったあの人が多くのことを語らなかったと言うべきでしょうか。しかし かれはただ必要であったからのみ 多くのことを語ったのではありませんでした。
神よ あなたの御前では悲惨な しかしあなたのあわれみに避け所を求めている私の魂の内で苦しむ饒舌から私を解放してください。私は声では黙しても 思念(おも)いでは黙してはおりませんから。もし 私があなたの嘉(よみ)したまうことだけを思念いますなら この多弁から私を解放してくださるように懇願しないでしょう。しかし あなたが人間の思念は空しい(詩編93:11)と知りたまうような 多くの思念が私にはあります。どうか 私がそのような空しい思念に同意しないようにしてください。たとい それらが私を悦ばせますとしても それらを拒否し それらの中にあたかも微睡(まどろ)むごとく留まらないようにしてください。
このような空しい思念から或るものが私の書物の中へ入ってくるほどに私の上にそれらが力を持たないようにしてください。少なくとも私の考えと私の良心がそのような空しい思念から守られ あなたの保護のもとにあるようにしてください。在る賢者が 《集会書》という名称でよばれている自分の書物であなたについて語りましたとき 《私たちは多くのことを語るがかれのところに到達しない。私たちの言説の全体的な完成はかれご自身である》(43:29)と言っています。それゆえ 私たちがあなたの御前に到達しますとき 《私たちが語り しかも到達しない》ような《多くのこと》は止むでしょう。あなたは一つに留まり すべてのうちにすべてとなられるでしょう(コリント前書15:28)。私たちは終わることなく 一つにいますあなたを讃えつつ 一つのことを語るでありましょう。そしてあなたにおいて私たちは一つにされるでしょう。主なる一つなる神よ 三位一体なる神よ この書において私が語りましたすべてのものはあなたに由来することをあなたに属する人びとが承認しますように! そして或るものが私から由来しますなら あなたとあなたに属するものよ ゆるしてください。アーメン。
アウグスティヌス:三位一体論 15・28の終わり)

わたしたちは これを読んで 信仰生活が この施策活動にあるというのではなく このような思惟を 実地に 日常生活の中で――学び(記憶)・仕事(知解)・自立(愛)のなかで―― 問い求めてゆくこと 史観が生の全体をそのように一本の線としてつらぬかれるようになること しかもこれによっても まだ わたしたちは《かのお方に到達しない》。到達しないが この《到達しない》ということにおいて みづからの罪(時間的存在であること)を知り思惟してゆくこと このことにまさって すぐれた神の国はないと知られるゆえ このキリスト史観が まわり戻ってこの生を あるいは思惟の表現されたものとしては他の史観を 原理的に みちびいてゆくものであることを告白します。
アマアガリの時間は この原点をはずしてはないと言うよりは この原点のみが すでにわたしたちの意志の目的と休息であるアマアガリの時間なのであると決めてかかったほうがよい。そこには あの何とかしてあえぎ求めていた神の愛(《造られた者(土器)が造った者(焼き物師)に 〈どうして わたしをこのように造ったのか〉と言えるでしょうか》(ローマ書9:20)があり――これを 保守停滞と言う人は 自己および自己の自由を問い求めていないでしょう つまり 《これが わたしなのではない〉と自らつぶやくか 《そうだ それは敗者の論理だ》と人に向かって説くかする人は いまの自分がほんとは気に入っているか または 他人の中に自分を問い求めている・まだ自分が分からないかのどちらかであると言ったほうがよい。言いかえると たとえば上の言葉を神の愛と捉える人は すでに保守停滞を破って 打ち進んでいるでしょう―― もし神の愛が見られるならば これに固着することによって 人の愛が――そこで共同の水路にあたかも聖霊なる愛なる神が注がれてのように―― 発出するのを見ることができます。
これ以上に 明白な史観 人間の科学はないと思います。なぜなら わたしたちは その意志が 享受する人の愛となって完成されるとき 目的地(その段階ごとの里程標)に到達したように 喜びに満たされるからです。また この過程的な喜びをとおして 或る種 予感することによってのように 神の国を見るからです。ここに愚かさを見る人は むしろみづからの無知(時間知の子守り唄)によってその想像力がかき立てられてのように知った自分の知識のゆたかな愚かさによって 酔っている。
だからと言って このおのおのの独立主観におけるアマアガリの時間のみですべては終わったということにはならない。それは この主観の内的な史観の確立と 同等に・あるいは並行してというよりは 他者との共存の中の実存というように時間〔共同〕的存在であるからには 外的なやしろの建設の作業にも これが先の独立主観の形成に付随して あるいは独立主観は この外的なやしろの活動に捕捉されてのように 向かっているものである。そこには 明確な区切りの一線を引くことはできないというほどに 主観の独立(自由)というものは 独立している。これが 共同主観としてのアマアガリであると断じる人があってもよい。ともあれ キリスト史観は このような過程に 生きているものであって そのほかの場所で あるいはそのほかの道をとおって 生きるということはありえないというほどに われわれは一つなる神に仕えている。一つなる神に仕えているからこそ 主観は 各自の賜物を受け取って 多種多様である――それ以外の多様性は けっきょく 数量的な多数決の原則のもとに 押し流されて推移する歴史にしかならない――。
しかし 問題はあくまで この《主なる一つなる神に仕える》信仰が 史観として 理性的な知解力によって 一つの科学としても把握されることである。したがって 神は 信仰のこの明晰な自己把握をも やがて歴史の推移にしたがって すでに用意されていたものが明らかとなって行く形の中に用意されて 三つのペルソナから成る三位一体の神であることも 告知されるに及んだ。
いま 各ペルソナを区別して 固有の意味でそれぞれそのペルソナとしてよばれる神にもとづいて捉えるなら 御子のペルソナが キリスト・イエスとして現われる以前 これは 第一のアダムの時代である。また 類型的に早く言ってしまうと 父なるペルソナの神の時代であり したがって 第二のアダムの時代は それ以後 キリストなる御子のペルソナの時代であり しかも あたかもそのように区分されるかのように もし次なる新しい時代がそうよばれるのが妥当であるとするなら それは 第三のペルソナである聖霊なる神の時代であると考えられることになる。神の国の歴史をこのように考えることは あくまで 神の国がこの地上の国と境界を区画されてではないように存在したまうことによるものであり そう捉えることが 人間の歴史の把握に資すると思われる限りでの認識である。

  • つまり 父と子と そして両者のまじわりである聖霊とは そのように三つのペルソナとして捉えることは 互いに関係的に言われることによってである。その実体すなわち 父なる神の実体 子なる神の実体 および聖霊なる神の実体 これらは同じ一つの本性にいます。個は全体より小さいわけではなく 全体は個より大きいものではない。また 或る個と他の個とが 質としては違うというお方でもない。いや むしろ われわれは 非物体的な霊として 愛として 《性質のない善 量のない偉大さ》(三位一体論5・2〔2〕)として知解する。キリストの再臨が 霊としてわれわれの主観の内なるやしろに訪れるのか あるいは ふたたびこの人間として現われたまうことであるのか われわれはまだ 分からないが 仮りにこのかれの再臨までの時を 聖霊なる神の時代であると捉えるとするなら それは そのようにキリスト・イエスの そして同時に 父なる神の 時代であることと まったくちがわないと理解しなければならない。キリスト・イエスの支配が いわゆる第二のアダムの時代からいわゆる第三のアダムの時代へあたかも移行するというふうに捉えられるとするなら これにあたって そのことを 聖霊なる神の時代とよぶことも出来るかと考えられた。なぜなら 《資本(生産をとおしての人間関係)主義》というときの愛(資本)は 固有の意味では 聖霊なる神にあたかも関係づけることが出来るかと思われる限りで。

わたしたちは この新しい時代に焦点をあてるようにして 信仰という生なる神の観想とそこからもたらされるそれと行為との理性的な結婚 これを 史観としてまたその下位概念である理論としても 理性的な知解によって 明らかにすることを欲し これの問い求めに着手して来 また このように 《三位一体論》第十五巻の後半を読んできた。読み終えてのち さらにそのものとして 人間の歴史の推移に沿って 尋究してゆきたいとしていることなのである。
わたしたちは 《これからどうなるのかは わからない》 しかし 神の国の史観は一本の源泉としてまた水流としてつらぬかれている このような問い求めの場を――少なくともその場は――見出してのように これをさらに進めていくことにしたい。それが なおいくらか残されたと思われ 次章以下をこれに当てたいと思います。
(つづく→2007-11-07 - caguirofie071107)