caguirofie

哲学いろいろ

#161

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第六章 三位一体〔がむろん神なる愛である〕

〔第二十章 38〕
したがって エウノミウス派という異端の父 エウノミウスの詭弁的な論理は嘲笑すべきである。エウノミウスは御言によって万物は造られたが その神の唯一なる御言(ヨハネ福音1:3)が本性において神の御子であること 言いかえると御父の実体から生まれたものであることを理解できず また信じようとしなかったとき 御子は御父の本性 あるいは実体 本質の子ではなく 神の意志の子であると語ったのである。つまり かれは神に御子の生誕の原理となる偶有的な意志があると主張しようとした。
これは 私たちが前には意志しなかったことを意志することがあるという私たち自身の経験に示唆された考えである。あたかも神にあると思ってはならないため 私たちの本性が変化するものとして理解されないかのようである。《人の心には多くの思念がある。しかし主のはかりごとは永遠に留まる》(箴言19:21)という聖句は 神は永遠であるように そのはかりごとも永遠であり したがってご自身があるように はかりごとも変わらないことを私たちが理解し 信じるためにあるのである。しかし思惟について言われ得ることは意志についてもきわめて真実に言われ得る。つまい 人の心には多くの意志がある。されど主の意志は永遠に留まるのである。
また 或る人びとは独り子なる御言を神の決意(はかりごと)や神の意志の子と言わないために この御言は御父のはかりごとそのもの あるいは意志そのものであると語った。しかし私の考えでは 御言は実体からの実体 知恵からの知恵であるように はかりごとからのはかりごと 意志からの意志といわれるほうがよい。
(三位一体論 15・20)

人間は おのおの一個の個体であり 一つのペルソナである。この一個のペルソナが 三つの行為能力を持つ。それらは あたかも父であるような《記憶(想起)》の視観 その子であるような視観からの視観という《知解》 またこの両者を ある行為の方向性を持たせるようにして つなぐ《意志(愛)》 これらである。しかしまた ほんとうには 父なる神は 記憶行為ばかりではなく 知解も愛も持ちたまい そのようにして 子なる神も知解行為だけではなく 記憶も愛も持ちたまい また聖霊なる神も愛の行為だけではなく 記憶も知解も持ちたまうというように 人間のこの三つの行為能力においても すでに《記憶》において その知解とそしてその方向性(ないし力)ともいうべき愛は見出されるというようにである。
しかし 神なる実体は 三つのペルソナにして一つの本質でいましたまう。一つのペルソナにして三つの行為能力を持つという人間のばあいの三一性よりも この三つのペルソナにして一つの本質であるという聖三位一体のほうが 言詮を絶して不可分離的である。

  • 神には 《いな いな 然り 然り》しかない。それでいて 《否があったり 然りに変わったりする人間の三一性》を用いたまい 時に 《否 否 然り 然り》の自由に牽き行きたまう。つまり その真理を分有させたまう。

本質からの本質 知恵からの知恵 はかりごとからのはかりごと 意志から意志である神の御子は その父との関係において 《光(父)とその発耀(子)》とに比されて捉えられる。この父と子の一体において すでに――時間の懸隔なしに――第三の実体である聖霊なる神が 発出される。父なる神の独り子である御言と異なって 聖霊なる神は 父の子ではなく 父と子との交わりである。《光とその発耀》の明るさ・暖かさのようなものである。しかし 《光源》や《発耀》に 明るさ・暖かさがないのではなく 明るさ・暖かさが前二者と同じものでないとは言えない。すべてこの三つのペルソナは 時間のへだたりなく 存在したまい 知恵・はかりごと・意志(愛)であること自体が存在であるという不可変的な存在であり ペルソナの個は各個に等しく 個は全体に等しく また全体は各個に等しい一つなる本質であるお方である。
キリストが《聖霊を受けよ(現実者たれ)》と言われるのは この三位一体なる永遠の生命を飲みまつれと言われることに等しい。しかし人は その肉が霊に変わると理解してはならない。その場所で アマアガリするのである。アマアガリが約束されるのである。人間は誰も この生において義とされないから その保証が与えられたのである。あたかも保証金とよばれるのが 聖霊なる神であり このアマアガリ(神との和解 永遠の生命)への仲介者が 子なる神キリストである。しかし子なる神も聖霊なる神も その個なるペルソナにおいて 全体すなわち三位一体なる真実にして一つの神であると言われるのである。
ところが 子なる神キリストはイエスとして 人間となられたと告白しているのが キリスト史観者であった。神の御子であるキリストが いや人間イエス・キリストが あの死ののち復活した天に挙げられたことにより このキリストの死にあやかるなら 人間もキリストの永遠の生命にあやかることができるという史観である。もしそうでなければ 人間の生はすべて空しく みな飲めや歌えやと言って生きる以外にないというところに 聖霊なる神の現実性 つまり人間の現実性が存在すると聞かれたのである。
だから 人間の〔時間的な〕三一性をかたちづくる三つの行為能力は 全体として或る時は意志したりしなかったりする偶有的・経験的な・またどうでもよいものであり それは 人間の有(もの)である。記憶が〔たとえば デモクラシを〕想起したり 知解が知解(経済理論)したり また愛が愛(経営・政治ないし自治)したりするのではなく このわたしが 記憶し知解し愛するのであるから。もし あの生命の木を飲みまつるなら この一般に経験的な情念〔の世界〕が その木の船に乗ってのように 浮かぶのである。しかしこのアマアガリも 身体を離れてではないと言われるのである。なぜなら 人間は 神の似像であるが その人間の光・発耀・暖かさは 不可変的なものではなく 可死的・偶有的・経験的(あの欺きを許容する)なものであり 本質的に 不類似の類似であるから。

  • それでは 不可変的な絶対者を想定しなくとも よいではないかと言う人びとに対しては かれらもそのように反駁することにおいて 永遠の生命 または自由を欲しているのだと言おう。だから われわれ人間が この神を想定するのではなく 人間がそのように想定するというほどに人間なる存在として設定されているのだと言おう。したがって 誰でもみな 自分の神を見ているのである。言いかえると 主観の現実は 主観の神に存在する。(それは 主観的であってよいし 主観的である以外にありえない)。これだけを言えば 共同主観としての史観は 事足りるであろう。

また 単なる主観的つまり未熟なスサノヲ者の主観的な史観に 終わることなく あるいは逆に 一定の固定的な客観共同に連れ去られてゆくというものでもなく 〔なお可変的だが それぞれ真実を表明してゆこうとする〕共同主観・常識たりうると キリスト史観は 言っていることになる。この第四部は その原理的な観想を扱っている。


だから 約束された永遠の生命は 将来の栄光である。しかい いまが恵みの時 いまが救いの日であると証言されたのである。神が永遠でいましたまうから。なぜなら 神から来て神である聖霊が 保証金または賜物とよばれるなら これを与えるものと与えられるものの関係が存在するはづであり それはただしく両者の 服従と支配の関係ではなく 一致の関係にあって そのように〔恵みと救いが〕無償で与えられるのである。この無償の恩恵を告知するために 神の御子キリスト・イエスは 人間の二重の死に値するという高価な代償を払って 神の言葉・神の国となられた。いやもともとそうであったことを そのように告げ知らせたまうた。この手段によらなければ この告知(人間の自己還帰)は為され得なかったというほどに 人間は原罪の徒であった。逆に言いかえると この手段によるというほど 神の愛は 全世界をその証言に持つに至るというまでに 普遍的なものとして示された。たとえば この手段によらずに 権力によって たとえば大東亜共栄圏 あるいは 世界の一挙なる革命を目指すということにおいて 上からであろうとも 愛なる共存 自由人の連合を獲得するという歴史が引きつづいて起こったかも知れない。しかし神は このまだ経験的な人間の歴史の真実をさえ よしとされなかったというほどに その愛を示された。このことは 《誰も自己を誇ることなく 〈誇る者は主を誇れ〉と言われていることが成就するためである>というほどに 神は人間を愛した。人間は神を愛した。だからあの 第一の死(罪)において 高慢にも神への逆立(罪)を自己を頼んであたかもよしとするように背いたアダムとエワ の子孫に 神の愛を示されるのに この十字架上の死という愚かな手段にまさって それ以上にふさわしい手段があったであろうかと言われる。
したがって かくなる上は 人は 逆に言って《神国》あるいは《世界同時革命》を 自己の主観のうちにただしく確立されることを欲する以外に 道はなくなった。人間が第三のアダムへと新しく変えられる以外に 人間の生きる道はなくなった。
ともあれ われわれは あの第一の死をうけついでのちも――たしかにそのように身体の死は 時間(罪)的存在としてもはや免れないながらも――しかし その死が死なないという永遠の滅びに至る第二の死はこれを その向きを変えうるように その愛(力・真理そして聖霊なる賜物)を与えたくださった。ここで 唯一なる戒めは二つ すなわち 神の愛と人間の愛 これであると言われることが理解されなければならない。これを 倫理・道徳としか見ない人は みづからの心にたずねるべきである。人に 問い求めてはならない。


それは 御父がご自身の実体において決意 あるいは意志を持たないなら 御子が御父を知恵なるもの・意志なるものに為すのだと言われるような すでに私たちが拒絶したあの道理に適わないことを避けるためである。神は御子を意志をもって生みたまうだのかどうか と次のようにきわめて狡猾に訊ねる異端者に 或る人はたしかに鋭くも答えた。もし意志なくして とかれが言うなら 直ちに神の最も道理に合わぬ悲惨が生じるであろう。もし意志をもって と言うなら直ちに かれが企図していたように 御言が御父の本性の子でなく 意志の子であると いわば打ち克ちがたい根拠によって結論づけるであろう。しかし この人は極めて当意即妙に反対訊問をなした。父なる神は意志を持つ神なのか 意志のない神なのか と。そこで 異端者が意志なくしてと答えるなら 神についてあの悲惨が生じる。もし意志を持つ と答えるなら かれに《だから 神は自己の本性によってではなく 意志によって神である>と答え返されるであろう。だから この異端者に残されていることは 黙り込み 自分が自分の質問によって解き難い鎖にしばられたことを承認することだけである。しかし 三位一体における或るペルソナが固有の意味で神の意志とよばれなければならないなら この意志という名称は愛のように聖霊にこそ適しいのである。なぜなら どうして愛は意志と異なる別のものであろうか。
(承前=三位一体論 15・20)

だから 人間の三一性においてさえ 第一の行為能力である記憶行為(神の前の万人の平等というデモクラシすなわちインタスサノヲイスム その想起)において すでに その知解行為(経済理論としてたとえば 等価交換の法則は すでにはじめに交換者双方の絶対的ないし原理的な平等を大前提としている)が用意されており またさらに その愛(意志)(互いに人間として平等であることを愛するインタスサノヲイスムに立った・外なるやしろとしては 地球という規模におけるインタスサノヲイスムないしインタキャピタリスムという《社会》主義なる共同自治〔そこには 罪・争い・悪がなくなるというのではない〕)が その方向性として 宿されていると言いうるなら
このように言いうるなら どうして神の三位一体において 或るペルソナは意志を欠き また或るペルソナは想起しない 知解しない あるいは 愛さない ということが言えるであろうか。しかし 《意志ないし愛という名称は 聖霊なる神にこそ適しい》と言われるのである。このように――信仰にのっとって神を愛し 理性的に知解することによって――神を観想し見まつることは その観想の対象がわれわれ人間の生の源であり(だから われわれは かれを 《主》とよぶ) そのことによって 人間にとてこの上なく安全な生〔エルサレム(《平安の敷居》)=出雲八重垣〕 すなわちスサノヲのアマアガリの像なのである。唯一なる神は 聖三位一体なるお方であるゆえに いわゆる神々に対して信心を為すという宗教からはほど遠い存在であり 人間の知恵と知識とは このかれへの信仰と愛とからもたらされる。いや すでにはじめに かれすなわち神こそがわたしたち人間を 《われわれ(三位一体なる神)に似せて》造られたからこそと つねに見まつろうとしているものでなければならない。ここで 《主よ わがあわれみよ》あるいは 《神に栄光あれ》という言葉は 日本語としてもなじみの深い言葉でなければならないのである。
(つづく→2007-10-25 - caguirofie071025)