caguirofie

哲学いろいろ

#162

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第七章 三位一体(神)の似像が人間である

〔第二十章 39〕
この第十五巻で私は聖書に準拠して信者には十分なほど聖霊について語って来たと思う。信者はすでに聖霊は神であること また聖霊は御父や御子とは別の実体ではなく 父と子よりも小さくないことを知っているのである。このことは今までにも やはり同じ聖書に準拠して真理であると教示したのである。また神が創造したまうた被造物の考察によって 私に可能な限り このような真理について理性的な根拠を要求する人びとに対して 神の不可視性を造られたものをとおして かれらが出来る限り 知解によって(ローマ書1:20) 見るように勧めた。特に 神の似像によって造られた理性的・知解的な被造物をとおして またいわば鏡をとおして(コリント前書13:12)のように 出来るなら 出来る限り 神なる三位一体を 私たちの記憶 知解力 意志において認めるように勧めた。
記憶 知解力 意志というこの三つを各自は自分の精神において本性的に神的に配置されたものとして 鋭敏に観て 永遠にして不可変の本性を想起し 直観し 欲求することは精神にとって どんなに偉大なことか を記憶によって想起し 知解によって直視し 愛によって抱懐するのである。そこに精神は確かにあの至高の三位一体の似像を見出す。精神は自分が生きていること全体をこの至高の三位一体を想起し 見 愛することに それを想い それを観想し それを悦ぶように 関係づけなければならない。しかし その同じ三位一体によって造られたが しかも自分の悪徳によってより悪いものに変えられたこの似像を すべての点で似ていると思うように あの三位一体に比較せず むしろ いくらかの類似において非常な不類似を見るように 私たちは十分と思われるほど勧めて来たのである。
(三位一体論15・20)

神の似像である人間と 神とは――被造物とその創造者の関係 あるいは 片や時間的存在であり 片や これを時間的な存在として造った存在であるからには―― そのあいだに遠いへだたりがある。つまり両者は 本質的に不類似である。にもかかわらず 神の似像と言われる人間は 神に似せて造られたという或る種の類似が存在する。それどころか このような人間も 神の真理を分有することが可能であるとされる。なら 《いくらかの類似において非常な不類似を見るべきである》と一方で言われるにもかかわらず 人は この類似をとおして――鏡をとおして謎において――かのお方の像を問い求めるべきである。
《精神は永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない》(三位一体論12・7〔10〕)。《そこに精神は確かにあの至高なる三位一体の似像を見出す》と言われることは 人間の自己の認識であり 歴史の認識であるにほかならない。
次には 上につづいて さらにこれまでの考察の回想とともに 論議が進められる。

〔第二十一章 40〕
たしかに 父なる神と子なる神 言いかえると 実態的に持つすべてのものを或る仕方でご自身と等しく永遠である御言によって造り出した産出者と 虚偽によってではなく 真実に御言を生んだお方において存在する或るものを多くも少なくもなく実体的に持つ御父の御言なる神を 顔と顔を合わせてではなく 謎におおけるこの類似をとおして 私たちの精神の記憶と知解力においていくらかは推測することによって見るように 私は出来る限り 意味表示しようと心を配ったのである。私は知っているものをすべて たといそれについて思惟していなくても 記憶に帰し 知解には特別の仕方で思惟の告知を帰したのである。


私たちが真実であると見出したものを思惟するとき すぐれて私たちは知解すると言われる。そして私たちはこの知解したものを再び記憶の中に置く。しかし 私たちが思惟したとき 先づこの真理を見出し いかなる国語にも属していない〔発声以前の〕内密な言葉( intimum verbum )が生まれるのは 私たちの記憶のあのより隠れた深みにおいてである。この内なる言葉は いわば知識からの知識 視観からの視観であり 記憶のなかですでに存在していたが 潜在していた知解から 思惟によって顕在化する知解のようなものである。もし思惟そのものは自己の或る種の記憶を持たないなら 他のものを思惟しているとき 記憶に置いたものへ還帰しないであろう。

  • というほどに 人間の内密な言葉によって構成され展開される人間の理論は 人間の有であり また それは 知解(理論)が知解(理論)するのではなく 人間が知解するというほどに 人間の――主観の――三一性すなわちその存在の全体に 属している。ただ ここで言えることは 《この言葉は神である神の御言にこの謎においていくらかは似ているのだ。というのは この言葉は神の御言が父の知から生まれたように 私たちの知識から生まれるからである。だから 神の御言(キリストである)にいくらかは似ている と私たちが見出すこのような私たちの言葉(崇高な理論)を だが どんなに神の御言に似ていないか 私たちが語り得るように 考察するのに躊躇してはならない》(三位一体論 15・14〔24〕)と聞かれることである。

しかもわたしたちは この内密の言葉(人間の真実の言葉)を用いつつ 意思疎通しあってゆく。つまり史観を形成してゆくのである。言うまでもないことであるが 人間の主観は理論を含むが 理論が主観を包摂してしまうわけではない。
〔41〕
しかし聖霊について私は〔記憶や知解より或る意味で〕一層 強力な意志である私たちの意志 あるいは愛こそ聖霊に似ているように見えるということを この謎において示したのである。
なぜなら 私たちに本性的に存在している意志は 私たちを引きつけたり反発させる事物が意志に接近し 出遭うにしたがって種々なる情念を持つからである。それでは 意志とは何であろうか。私たちの意志は それが正しいとき 何を欲求し何を避けるべきか知らないとでも言うべきなのであろうか。たしかに もし知っているなら 疑いなく それは記憶や知解なくしては存在し得ない自己の或る種の知識を持っているのである。それとも 私たちは悪いことをしない愛は 何を為すべきか知らない と言う人に耳を傾けるべきであろうか。それで 知解力のように 愛も 私たちが思惟することによって到達し得るものが準備され隠されていると見出すあの統治的な記憶に内在している。なぜなら 私たちが思惟することによtって或るものを知解し愛すると見出すとき この知解と愛 という二つの能力をそこで見出すからである。それらは 私たちがそれらについて思惟していないときも そこに存在していた。すなわち 思惟によって形成されるこの知解力に記憶と愛が内在しているように――私たちが知っているものを語るとき いかなる国語にも属さない真実の言葉を語るのである。なぜなら 想起によってのみ また愛することによってのみ 思惟の眼差し( intuitus )は或る対象に還帰しようと努めるのであるから―― そのように記憶の中に置かれている視観を そこから形成された思惟の視観とを いわば親と子のように結合する愛も 記憶と知解なくしては存在することができない欲求されるべき対象の知識を持たないなら 何を正しく愛すべきか知らないのである。
(承前 三位一体論15・21)

あたかも 三つのペルソナの神に その三位一体が見られるように 一個のペルソナの三つの能力を持つ人間に この三一性が見られるのである。また この類似をとおして そこに 非常な不類似が存在することを見ることができる。なぜなら 人間は これを思惟し愛するとき あれを思惟し愛していないことができるからである。神はそのように 時間によって 想起し知解し愛する方ではない。時間なくして すべてを知りたまう方である。そうでなければ 永遠の生命と呼ばれ得ない。またこの源がなければ 人間の思惟や愛もむなしく意味のないものとなってしまう。たとえば 神は 人間の無意識〔の愛〕をも超えた方である。無意識も あとでそう(無意識)だった意識され 時間的なものだからである。(あるいはまた 人間の意志によるもの・人間的なものが ただ意識されていなかったというだけである)。意識〔された現実 に対する理論〕が 人間の生の全体あるいはその源でないのと同じように 無意識の領域も 人間の源であるなどと 《神秘的な》理論をかたちづくるべきではない。
無意識の領域にも意識された現実にも 神がその人をとおして介在するようにして働きたまうと理解すべきである。それは いちいち個々の事象に対してではなくとも 生の平安(八重垣)に対してという意味である。神は 生の不安に対して避け所となられるばかりではなく 根源的な平安でいましたまう。これが 現実であるとわたしたちは 疑いなく 告白する。

  • この表現=疎外は よそよそしくならない疎外である。この認識――むろん信仰に発するものだが――をちゅうちょして 自分を起源としてとき 自己あるいは現実は よそよしいものでありつづける。また 上の信仰告白を――自己還帰の理性的な知解・認識を―― 言葉として切り離し その観念を共同化させるなら それも よそよそしくなったという意味での自己疎外である。
  • しかしこのような信仰告白は 客観A語化し得ないであろうとわれわれは見た。もっとも 上のようにわれわれは A語を用いて 逆に客観的な思惟・表現の形式をとおして しゃべっているのではある。つまり その言葉はしかし 主観・S者から繰り出されているということである。

なぜなら この現実は すでに移ろい行かない真理であるから。それがすでに自己還帰であるとするなら 誰もがそれを まぎれなく 知っていたことでしかないのだから。この論証を――出来るかぎり――いま全体としてわれわれは行なっていることになる。
(つづく→2007-10-26 - caguirofie071026)