caguirofie

哲学いろいろ

#160

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第五章 聖霊は愛なる神である

〔第十九章 36〕
かれらは聖霊は神の賜物であると言われるのを少なくとも認めるから かれらに 《聖霊の賜物》という言葉は 《肉のからだを脱ぎ捨てて》(コロサイ書 2:11)という言葉と同じ種類の表現であるのに注意させなければならない。


つまり 肉の身体は肉に他ならないように 聖霊の賜物も聖霊に他ならないのである。だから 聖霊は与えられる人びとに与えられるかぎり神の賜物である。しかし聖霊はご自身において たとい誰に与えられずとも 神でありたまう。なぜなら 聖霊は人間に与えられる前に父と子とに等しく永遠なる神であられたからである。父と子が与え ご自身は与えられたからといって聖霊は父と子よりも小さいのではない。聖霊は神としてご自身を与えるように神の賜物として与えられるからである。私たちは 聖霊はご自身の権能のうちにない と言うことは出来ない。

御霊は思いのままに吹く。
ヨハネ福音 3:8)

と言われている。さきに引用された使徒の言葉にも

一つの同じ御霊がこれらのことすべてを働き出し それらを欲せられるままに各人にそれぞれのものを頒ち与えられる。
(コリント前書 12:1)

とある。ここに与えられたものという服従と与えるものという支配が存在のではなく 与えられたものと与えるものの一致がある。


〔37〕
それゆえ もし 聖書が 

神は愛である。
ヨハネ第一書 4:8)

と宣言し そして愛は神から来て 私たちが神に留まり また神が私たちに留まりたまうようになすなら またもし私たちがこのことを神は御霊を私たちに与えたまうたゆえに認識するなら 御霊ご自身は愛なる神である。
(三位一体論 15・19)

父なる神も 子なる神も愛である。また三位一体ご自身が愛である。そして 御子が人間として派遣されたように――それは神のみこころを告知するためであった―― 聖霊が その御子の告知したまうた神のみこころであう愛の保証金として あるいはまた 真理としてご自身を示された御子(神の言葉)を 御子の去られたあと 明らかにするものとして 派遣されたのである。この聖霊ご自身は愛なる神であり かれを受ける人間〔の愛〕とのあいだに 《与えるものと与えられるものの一致がある》。
《保証金(手付け)》は 《与えられたものという服従と与えるものという支配が存在する》ところでは成り立たない。キリスト〔の聖霊〕を飲みまつる者に たとい父と子との間柄に比されるべき関係ではあっても その〔飲みまつる〕限りで 〔人間的な論法で言って〕対等の契約が交わされるときに成立するものなのである。最初の共同主観者アブラハムは その息子を神に犠牲に供するというまでに神を信じた(――刃物を取り息子をほふろうとしたとき 呼び止められた――)とき この対等の契約者とされた。共同主観者なる《民(ハム)の(ラ)父(アブ)》となった。それでも 人間は 第一のアダムの徒として原罪を背負い 時間的(可死的)存在としてしか生きられず この契約にあづかる対等の者となるには 超えられぬ淵を認めなければならない。このとき それに絶望することのないようにと 神は 第二のアダムを つまりその御子キリストを人間として 派遣された。
可死的存在であったかれが 《聖霊を受けよ》と語られ 道となられ 道が与えられたからには 淵が埋められたのである。この道に連なる人びとを 行ないの正邪や知恵・知識の有無にかかわりなく 恩恵によって信仰によって えらび分かちたまうた。あたかも創造に際して 神がこれらのことを はじめに約束したまいてのように 欲したまうのである。ここでは 《ユダヤ人もギリシャ人もなく 自由な身分の者も奴隷もなく また男も女もない》(ガラテア書 3:28)と使徒パウロによって証言されたのである。
これは 共同主観の原理であるものであり しかも――キリストが人間となられたように――われわれ人間の経験的な共同主観(常識)に深く関係するものとしてもあるのです。そうでなければ それは アヘンと同じです。つまり かれキリスト・イエスは 人間の《永遠の同伴者》としてあるというよりは 人間はかれ〔と父とから発出し神である聖霊を かれと父と〕が派遣したまうこの聖霊を受け取って 神によって生まれ 神の子となってキリストを長子とし さらには 神の友となると言われたのです。
《〈聖霊を受けよ〉と言われたキリストの言葉》を 文字として受け取る・つまりそのように知るのではなく 《十字架上のキリストを飲みまつり かれが遣わしたまう聖霊を受け取る》のです。これこれの薬を飲めばよくなると知るのではなく この薬を飲みまつるのです。《わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたまいしや》と言って キリストとともに十字架にのぼらせられたとき キリストの声を聞いてかれについて行くのです。神は われわれを復活させるために 死なせたまうのです。
われわれはもはや キリスト・イエスをわれわれの肉の眼で見ることはできません。言いかえると かれの肉を この眼で見ることはできない相談です。しかしかれの身体の復活をも信じるというほどに かれはここに生きていたまうのであり――少なくともかれは 十字架上に死んだというのなら その前には身体を持った一人の人間であった―― その復活という・つまり永遠の生命という神の愛の保証金――保証金というからには それは関係的にも言われるのものであり 契約が存在するのだと知るのではなく 実際に契約を交わすことが 史観でなければならない・つまり 渡すものと渡されるものが 実際に生きて 存在する――が 派遣されてもいるなら これを信じないという法はないと言う以上に 人間の〔知のパラダイムを回転させ変換した〕理性によって知解しうるし また 飲みまつる行為そのものを知解すべきなのです。
だから人は キリストを論じ告知するというよりは キリストを飲みまつった自己の主観を思惟し形成し表現すべきである。(これは 類型的には 〔マルクスと〕マルクス者〔との関係〕にも同じようなことが言われうるというように)。これを信じない人は時の充満を俟つべきだが 信じる人が信じていないと言うことは許されていない。また 信じて受け取ったなら その感謝は むしろ《悪魔との闘い》(エペソ書 6:10−20)の中に現わすべきです。

〔37 つづき〕
次に 神の賜物のなかで愛よりも大いなるものはなく 聖霊よりも大いなる神の賜物がないなら 当然 聖霊ご自身は神であり また神から来るといわれる愛なのである。またもし それによって父が子を愛し 子が父を愛する愛は言詮を絶して父と子の交際(まじわり)であることを示すなら 父と子に共通である御霊を固有の意味で愛とよぶことに優って適当な表現は何であろうか。三位一体において聖霊だけが愛ではないが 固有な意味で聖霊が愛と名づけられているのは理由のないことではない と私たちは 健全に信じ かつ知解するのである。

  • ここで 《資本(愛)主義》は ちょうどキリストの船に乗ってのように浮かび上がり かつその同じもとの場所で ちょうど構造的――各主観がこのように やしろ構造的となることによって 自由の力が得られる――となって むしろそのままでよいとさえ言ってのように 《社会(やしろ)主義》となるのを人は 見るであろう。このことを 《前史から本史への移行》と言うのはマルクシスムであり われわれは 《栄光から栄光へ変えられる》と言っていた。

そのわけについてはさきに語った。同様に聖霊だけが三位一体において愛であり 聖であるのではない。御父も霊であり 御子も霊であり また御父も聖であり 御子も聖である。このことについては私たちの敬虔な信仰は疑わない。しかも第三のペルソナが固有な意味で聖霊と言われるのは理由のないことではない。なぜなら 聖霊は御父と御子とに共通であるので 固有な意味で御父と御子の交際とよばれるからである。


しかし もし あの三位一体において聖霊だけが愛であるとするなら 御子は御父の子であるだけではなく 聖霊の子でもあると見られるであろう。そのように数限りなく多くのテキストで御子は御父の独り子であると言われ またそのように読まれるのであるが この言い表わしは使徒が父なる神について 《神は私たちを暗闇の力から救い出して その愛の御子の国へ移してくださった》(コロサイ書 1:13)と言っていることに一致しなければならない。使徒はここで 《その御子の国》と言わなかったと。もしかれがそのように語ったとしても それは極めて真実であろう。事実 かれはしばしば極めて真実にそのようにも語っている。しかし かれは《その愛の御子の》と言ったのである。だから もし三位一体において聖霊だけが神の愛であるなら 御子はまた聖霊の子でもあることになる。このことが極めて道理に適わないなら やはり愛は三位一体において聖霊だけのものではない。しかし私がさきに十分に論じた理由で 聖霊が固有の意味で愛とよばれるのである。
ところが 《かれの愛の御子》という表現は かれの愛したまう御子の つまりかれの実体の御子の という意味以外に理解すべきではない。たしかにかれの言詮を絶して単純な本性を持たれる御父の愛はかれの本性と実体そのものに他ならない。このことは私たちがすでにしばしば語ったとおりであるが なお繰り返すのをいとわない。このゆえに かれの愛の子はかれの実体から生まれたお方に他ならない。
(三位一体論 15・19)

《愛》とは 《保証金(弁護者)》というときと同じように 実体としてではなく関係として言われているように見えるが(――つまりたとえば 《わたしは人間です》というのは 実体によってこれを言い 《わたしは誰々の子です》というのは関係によってこれを言っている――) この愛とは 生命の制作者もしくは永遠の生命という実体(本質=存在者)を言い またもし愛という表現がふさわしいと言う限りで言っても それは 一つなる神のあたかも自己愛というようなかたちを言うのではなく 人間は一個のペルソナ(実体)にしかすぎないので 愛をも実体として言うなら それは そのまま自己愛というにすぎなくなるが 神は―― 一つなる神は――三つのペルソナの一体なる本性であり 父と子との互いの愛 およびその愛という第三の実体である聖霊とから成るという本質であるゆえ 人間的な愛とは 不類似の類似なるお方である。
つまり 人間は三位一体の似像として三一性の主体である。この三位一体の似像を 二人あるいは三人の人間のあいだで 捉えてのように 成就するものと考えてはならない。あたかも 一個の三一性なる主観の内において完成されるというほどに そうであるがゆえに〔愛が〕共同主観として働くのであるというように。
また 次につづく文章では 父の子なる御言葉は 《実体からの実体 知恵からの知恵 はかりごとからの はかりごと 意志から意志といわれるほうがよい》と知解される。
(つづく→2007-10-24 - caguirofie071024)