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哲学いろいろ

#159

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第四章 聖霊が神の賜物である


聖霊が神の賜物である というほどに この神から来て神である聖霊の宿る〔各〕主観は 共同化されうる。
もしこのことが ごく普通の共同主観(常識)として捉えられず 何もの神の法によって人をしばると見られるとするなら それは あの信教の自由という客観語が その人の主観をなおしばっているからである。言いかえると この信仰の一命題を――信教は自由であると言うのに――なお 自己の外に見出そうとするからだ。自由ないし現実は まづ内観にこそある でなければならない。このことが 閉鎖的な主観主義や精神主義にみちびくと言うのであろうか。《信教は自由だ》と主観語としてでも言うことと 《神が自由にするとわたしは思う》と言うことと どちらが より閉鎖的であるだろう。むろん前者が 《わたしは何も信じない》と付け加えているなら それはそのとき 後者とともに 相互対立的ではあっても 一つの共同主観のかたち(過程)をつくるであろう。少なくともわれわれは このように 現代人にとっての自明の前提をうたがうことを 一般に史観の一つの初めとしなければならないであろう。時代が そうなのだ。

〔第十九章 34〕
使徒パウロも 

私たち各自にキリストの賜物の量りにしたがって神の恵みが与えられる。
(エペソ書 4:7)

と言う。キリストのこの賜物が聖霊(現実)である ということを示すために使徒は 

そこで こう言われている。

かれは高みに上ったとき 捕虜(悪魔)を捕らえて牽き行き 人びとに賜物を頒ち与えられた。

(エペソ書 4:8)

と言う。主イエスは死人の中から復活された後 天に昇り 聖霊を与えたまうたと信じた人びとはこの聖霊に満たされ あらゆる国の言葉を語ったということは周知である。《種々の賜物( dona )》といわれ 単数で賜物( donum )といわれていないことに異議があってはならない。パウロはこの証言を《詩編》から引用した。しかし《詩編》では

あなたは高いところに上られ 捕虜を捕らえ 人びとのうちで贈り物を受けられた。
詩編 67:19)

となっている。多くの写本 特にギリシャ語写本ではそうである。私たちはヘブル語からそのように翻訳されたものを持っている。使徒預言者(《詩編》記者)と同様 《種々の賜物》と言って 単数で賜物と言わなかった。しかし預言者は 《あなたは贈り物を人びとのうちで受けられた》と言ったが 使徒は 《かれは人びとに賜物を頒ち与えられた》と言っている。そのように預言者の言葉と使徒の言葉の二つから しかもこの両方に神的な言葉の権威があるゆえに その完全な意味が生じる。主は人びとに賜物を与えられたこと また主は人びとのうちで贈り物を受けられたこと その両方が真実である。
主はちょうど 頭がその肢体に与えるように 人間に賜物を与えられたのである。また主は人びとのうちで かれらは主の肢体であるから 贈り物を受け取られる。主はかれらのために天から叫ばれて 

サウロよ サウロよ お前はなぜ私を迫害するのか。
使徒行伝 9:4)

と言われ また かれらについて 

お前たちが私のいと小さき者の一人に為したとき 私に為したのである。
(マタイ 25:40)

と言われた。だから キリストご自身が天から与え また地において受け取られたのである。


さて 預言者使徒が複数のかたちで賜物のことを語ったのは 聖霊なる賜物によってキリストのすべての肢体に 各自に特有なものである多くの賜物が共通に頒ち与えられるという理由からである。各自が賜物全体を持つのではなく 或る者はこれ 或る者はあれ と各自の賜物を持つのである。勿論 各自はみな賜物そのもの 言いかえると聖霊を持ち それによって各自には各自の賜物が頒ち与えられる。他の箇所でパウロ

すべてのものは一つの同じ霊の働きであって 御霊は思いのままにそれらを各自に頒ち与えたまうのである。
(コリント前書 123:11)

と言って 多くの賜物を列挙している。この言葉は《ヘブル書》の中にも見られる。

さらに神も 徴しと不思議とさまざまな力ある業とにより また御旨にしたがって聖霊を各自に頒ち与えることによって証しされたのである。
(ヘブル書 2:4)

使徒は 《かれは高いところに昇って 捕虜を捕らえて率き行き 人びとに賜物を与えられた》と語った後 

さて 昇った ということは まさに地下のより低いところにも降りて来られたからでなければ何であろうか。降りて来られた者こそ 同時に あらゆるものに満ちるために 諸もろの天の上にまで昇られたお方である。そしてかれは或る人を使徒となし 或る人を預言者となし 或る人を伝道者となし 或る人を牧師 教師となしてお立てになった。
(エペソ書 4:8−11)

と付言した。見よ このゆえにこそかれは複数のかたちで賜物と言ったのである。なぜならかれは他の箇所で言っているように

みなが使徒だろうか。みなが預言者だろうか。
(コリント前書 12:29)

であるから。しかしここで かれは付加して

聖徒たちを一つにして奉仕の業を達成させ キリストのからだを建てさせるために
(エペソ書 4:12)

これは《詩編》が歌っているように(126:1)捕囚後に建てられる主の家である。なぜなら 教会( ecclesia )とよばれるキリストの家は 今まで悪魔によって捕らえられていた人びとが その悪魔から救い出されて建てるのであるから。悪魔を征服したお方自身がこの捕虜を率きつれて行かれた。そして聖なる頭の肢体となるべき人びとがその悪魔と共に永遠の罰の中に曳き入れられないようにと キリストは悪魔を先づ義の束縛で 次に権能の束縛で拘禁された。それゆえ この悪魔は捕虜とよばれた。高いところに昇られ 人びとに賜物を与え あるいは人びとのうちで贈り物を受け取られるお方がその捕虜を捕らえたまうたのである。
アウグスティヌス:三位一体論 15・19)

以上が 史観の多様性 同じ一つの史観の原理のもとに共同の〔多様な〕主観性を明らかにしたものです。これについては つけ加えて多くを語る必要はないでしょう。
ただ 時代のちがいはある。われわれは現代において 《主の家》は やしろ全体なるキュリアコン(一般に 社会形態)であり 《教会》は 第一次のやしろ形態すなわち いまのスーパーヤシロ(A圏)に対するヤシロ(S圏)であり これを自治態勢の面からみれば エクレシア(各都市・ムラ)であると捉えるのでした。また 聖霊なる同じ一つの賜物のもとに 種々の賜物 すなわち《使徒(外交官) 預言者 伝道者 牧師・教師等》は むしろ一人ひとりの各主観がこれらエクレシアないしキュリアコンの中で 共同主観となるとき そこに見えざるものとして働く 社会的行為の中の言葉であり力であると見るのでした。つまり 職業としての上のそれらを排除するわけではありませんが そのような時間の共同体(つまり時代)へ移行しうるし また移行するであろうと考えるのでした。
これが聖霊なる賜物〔のはたらき〕であり――言うなれば さまざまな職業の中で 仕事をとおした人間と人間との関係の中で 間接的に このはたらきとしての《外交官》が働くのです(むろん 自分勝手に外交官となるのではない)―― またそれは 原理的にも人間の経験的にも 愛という言葉でよばれるのがふさわしいと言われているのです。

  • われわれは この《愛〔という霊なる資本〕主義》のもとで 賞を求めて走らなければならない。むろんこの賞(《棕櫚の枝》)は 天の国に積むのです。天の国に積むというほどに キュリアコン / エクレシアつまり主の家 / 教会 つまり《やしろ》に 要するに 《市民資本(霊および肉ないしモノを含む)》として 積むのです。また モノは再生産されてゆきますが 霊の人としての主観の資本=愛は その一生涯 一代で 完成されると言われるのです。しかし 霊と人とは 肉から霊に変わるのではなく 身体を離れずしてアマアガリする 肉の情念に死につつ情念の船が浮かぶと理解すべきだと警告された。

大袈裟に あるいは突拍子もないように 言うとすれば そのように《神の見えざる手に導かれて》 やしろの動態が営まれる だからそのように たとえばアダム・スミスの時代から今日に至って 人間の理論が揚げて棄てられると思われるがゆえにです。そのような新しい時代の主体は われわれ一人ひとりであり またこれがあたかも第三のアダムとなって――そのとき スコットランド人の鍛冶屋(スミス)のアダムは この第三のアダムの先駆者であったかも知れません―― それぞれが主役となるというわけでした。あるいは あたかも〔前〕古代市民の時代に 人間は鉄を発見し鍛冶(スミス)を持つことによって おおむね やしろがやがて国家という社会形態となるに至ったとするなら いま 逆に この国家という《ヤシロ‐スーパーヤシロ》連関形態を揚棄してのように 各人がそれぞれ史観のスミス(鍛冶)となって エクレシアおよびキュリアコンなるやしろを運営してゆくということは 歴史の流れから言って 不都合でも不適当でも非学問的でも非現実的でもないでしょう。こう言ったとしても 問題を茶化したことにはならないでしょう。《鉄は熱いうちに打て》と言われています。
このような時代だと言うのが われわれの史観です。

  • そのとき 神のカの字も キリストのキの字も 現実の仕事の場では持ち出す必要はさらさらないでしょう。観念の鉄を打つのではなく 肉に霊を刻んで鉄とするのです。鍛冶は ほかならぬわたし あるいは きみです。これが 信教の自由 いわゆる幻想的な宗教の揚棄の過程です。
  • なお 《主の家(キュリアコン)》あるいは《教会(エクレシア)》つまりそのようなやしろとしての新しいエルサレム 八雲立つ出雲八重垣が 《悪魔による捕囚から放免されたのち》建てられるということについては 前第三部までに 触れてまいりました。

〔35〕
さて 使徒たちの活動が記されているあの《使徒行伝》の中で読まれるように 使徒ペテロは キリストについて語ったとき ユダヤ人の心を強く撃った。《兄弟たちよ それでは私たちは何を為すべきか。私たちに示してください》と言う人びとに対して ペテロは言った。

悔い改めよ。そしてあなたがた一人ひとりが罪の赦しを得るために主イエス・キリストの御名においてバプテスマを受けよ。そうすれば あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
使徒行伝 2:37−38)

また 私たちはその書物で 魔術師シモンは使徒たちが手を置いたために聖霊が人びとに与えられたのを見て その権能を受けるために金を使徒たちにさし出そうとした ということを読む。このシモンに対してペテロは 

お前の金はお前もろとも失せてしまえ。神の賜物が金で得られると思っているから。
使徒行伝 8:20)

と言った。また 同じ書の他の箇所でペテロは コルネリオやかれと共にいた人びとにキリストを告げ知らせ 宣べ伝えた。聖書は語る。

ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに それを聞いた人びととすべてに聖霊が降った。割礼を受けている信者でペテロに随いて来た人びとは 異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て驚いた。それはかれらが異言を語って神を讃美しているのを聞いたからである。
使徒行伝 10:44−46)

聖霊が問題の縺れを解決するため バプテスマを受ける前にかれらに降ったゆえに ペテロが割礼を受けていない者たちにバプテスマを授けたという自分の行為について 後にエルサレムにいた兄弟(共同主観者)たちに弁明したとき 次のようなかれの言葉を聞いたかれらは感動した。

そこで 私がかれらに語り始めたとき 聖霊がちょうど 最初 私たちに降ったように 彼らにも降ったのだ。その折り 私は主がかつて

ヨハネは水でバプテスマを授けたが あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう。

と仰せになった言葉を想起したのである。それで 主イエス・キリストを信じる私たちと同じように神がかれらにも賜物を与えたまうたなら 私のような者がどうして妨げ得ようか。
使徒行伝 11:15−17)

この他にも聖書には 聖霊はかれによって神を愛する人びとに与えられるものとして神の賜物であるということを一致して証明している多くの証言がある。しかしそれらの全部を集めるのは非常に時間がかかることである。私たちがさきに語った証言で満足しない人びとにはどんな証言なら十分だろうか。
(三位一体論 15・19)

(つづく→2007-10-23 - caguirofie071023)