caguirofie

哲学いろいろ

#42

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の五 神の愛によって 死の制作者(悪魔)が征服されたということ

まづ 子なる神のペルソナは 《御言》と呼ばれうる。《肉に作られた御言》が キリスト・イエスであり われわれが神に似るであろうと言われるときは この子なる神に似るのである。しかし 神なる三つのペルソナの一体は その一体が時間的な隔てなく不可分離であるので――つまり その似像が 時間的な三一性主体たる一個のペルソナのわれわれ人間である―― 《父なる神の御言は独り子であり 全体的に父に似て 等しく 神からの神であり 光からの光(その光の発耀)であり 知恵からの知恵 本質からの本質である》(三位一体論15・14)と拝せられる。われわれが 自己自身を愛するがごとく そう捉えられる。

 神の御言(* 発耀)は 全く父(光源)と同じであり しかも父ではない。一方は御子であり 他方は御父であるから。
(三位一体論15・14)

  • そしてこれは このように ペルソナが異なるということは 互いに関係的に言われるのである。実体においては 一つである。

 父はあたかも御自身を語るように 御言を全てにおいて御自身に等しいものとして生みたまうのである。・・・御言において存在するものはみな 御自身のうちにも存在し そこに存在しないものは御自身のうちにも存在しないからである。
 この御言は或る虚偽を決して持ち得ない。なぜなら 御言はその存在の根拠(* =父)と同じように変わることなく存在するから。

 子は父が為したまうのを見るのでなければ自分からは何ごとも為し得ない。
( ヨハネ福音5:19)

 御子はこのことを能力によって為し得ないのである。・・・
(三位一体論15・14)

子の父と父の子との一体性 この神の実体は あたかもわれわれが自己自身を愛し その自己の同一なるにとどまるために――つまり それが 自由人である―― その保証金(もちろん 比喩である)を与えられるがごとく 聖霊なる神の愛を 同じく何ら時間的な隔てなく 発出せられる。

  • この聖霊は あたかも神の国と地上の国(三一性領域)とが全く互いに行き交いがないかのごとくではなく われわれが受け取ることのために〔のみ〕与えられるものと拝せられる。

神は 愛であり霊であり また 計画(はかりごと)をなされるかのごとく知恵であるが 互いに関係的に言われる三つのペルソナについて 父も子も愛であるが 《聖霊》が神の愛であるとよばれるのはふさわしく 《父》は知恵であり 《子》は知恵からの知恵であり 言いかえればすなわち 《御言》は計画からの計画である。この御言が 神の独り子(あるいは 《第二のアダム》)として肉に作られたイエス。・キリストその人である。
聖霊を受けよ》と言われるとき――われわれは もはやキリスト者であるように言うが―― この肉に作られた御言すなわち イエス・キリストのあの十字架上の死を飲みまつれと聞く。飲みまつることによって 《聖霊を受ける》。

  • われわれは ここに到達しなければならない。

《子は父が為したまうのを見るのでなければ 自分からは何ごとも為し得ない》ことを 能力によって為し得ず 十字架上に死なれたとき このことによって われわれに聖霊を注がれたのである。精神のまちがった欲望によって自己自身から離れ 神の愛から滑り落ち しかも似像において歩むわれわれは 《あやまつならば 我れあり》と自己の分水嶺を超えて進み 進みながらも心理・愛の三一性の有限・可変的な構造の中に――これは しばしば共同幻想の呪縛である―― 死の制作者に捕縛されたかたちで存在していたとき 《肉に作られた御言》が この《処女の子において死の制作者は死に値する何ものをも見出さなかったにもかかわらず 生命の制作者の死によって征服されるためにかれを殺すようになった》。このことにおいて 聖霊を 注がれたのである。
かくて 《このキリストに属ける者たちは 人間の輩であるが 咎の中に居られなかったお方をとおして 人間の咎から解放された》のであり 愛の三一性構造が なお有限・可変的ながらも 日から日へ 栄光から栄光へ(旧い共同主観から新しい共同主観へ また 旧い種 species から新しい種へ)変えられるべく 《したがって あの欺瞞者は自分が咎によって征服した人間の輩に征服されるのである》と拝せられる。《このことは 人間が高められることなく 〈誇る者は主を誇る〉ためになされたのである》。
それでは 愛の三一性主体は 人間の咎から解放された人間のともがらであることへと 心をこめて身体を伸ばし その構造・過程において いかにあの死の制作者(つまり かれが 現実において 《心理の三一性のみが 現実であって これを鏡として それをとおして見るのではなく それ自身を人びとが見ていることを 現実のすべてであると欺瞞する》その欺瞞者である)を征服すべきであるか。
この死の制作者は 悪魔とよばれる。死の制作者は かれじしん 死ぬことはない。肉体と無縁なかれ自身 死ぬことはない悪魔は あやまつ人びとを自己自身からすべり落ちた常態へとつなぐ。つなぎとめられた人びとが その精神によってではなく 身体の運動そのものによってその心理の三一性構造が 鏡(その枠組み)として 不可変的な世界のすがたであると見る。死の制作者がそう欺瞞するからであり その欺瞞の根拠は 死の制作者じたいは死ぬことはない〔ことが神によってゆるされている〕からである。

  • 《その日》つまり 人間にとって神直視の日 この悪魔は千年のあいだ つなぎ置かれると言う。(ヨハネへの黙示)

すべり落ちたままの三一性主体が この欺かれによって――《あやまつならば 我れあり》と開き直るのではなく 《われ考う ゆえにわれ有り》と述べることによって―― 鏡の中の屍として 生を生きている 現にいま生きていると思いなすとき 人間の咎から解放された人間のともがらは 日に日に何度も死んでいる。人間の咎とは 《あやまち》である。時間的存在たる人間は このあやまちを免れ得ない。生命の制作者の保証金を受け取ることによって きみに三位一体のすがたを見させたいがためである。日から日へこの似像において歩むことが 解放のすがたなのである。保証金が神の御言によって すでに注がれたからであり 神の子にならしめられる栄光から 神に――それは 子なる神その人である――に似るであろう栄光へ かれ一代の生の過程において 正しく歩むからである。
この共同主観は 独語としての純粋社会学に属し その対話としての共同主観は 時代の移行として捉えられる。すなわち 政党としての あるいは 経営行為としての あるいは文活動としてのもしくは生活日常の行動としての 三一性過程である。それらは それぞれ 政治理論としての・あるいは経営理論としての市民社会学の範疇であり 文学・芸術等であり もしくは市民社会学原論の範疇に属している。愛の三一性過程であるほかないことは 言うまでもない。
これが 神の愛によって 死の制作者が征服されたことの内容であり 受け取りである。これの領収証は 過程的実体であり この自己の生の三一性において歩む時間である。
《だから その行状において階梯(きざはし)の歌を歌う人々はさいわいである。長い縄のように諸々の罪を曳きずる人々はわざわいである。(イザヤ書5:18)》(三位一体論11・6)と もはや聖霊を受け取ったと見出したわれわれは 臆面もなく言うことにしよう。
だから 《精神は永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。〔したがって 男は――また 対関係において 女も――頭に蔽いを被ってはならないのである。・・・(* 鏡そのものを見させるべきあの蔽いを被ってはならないのである)》。(三位一体論12・7)。

 だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく公共的なものとしてこのようなもの(* 欲望としての愛)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なものの無知によって――魂はこのことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは人間の試練に他ならない。
 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練(コリント前書10:13)が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。

  • 自分の善というとき 善とは 形式である。愛の行為形式のことである。

魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう(コリント前書6:18)。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によってそれらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(集会の書19:1)と聖書に記されているようになるのである。
(三位一体論12・10)

 ・・・罪がただ甘美に思惟われるだけではなく 行為においても実行されるべきであると精神によって決定され得るのは 肢体を外的な行為へと動かし あるいはそれによって抑制されるべき最高の力である精神の意図が悪しき行為に譲歩し仕えるときだけである。
(三位一体論12・12)

これらはすべて 神の御言が肉に造られることによって 死の制作者が そのことによってすでに 征服され 征服されたことの神の愛が 聖霊として 保証金となって われわれに与えられ すでに自己を見出したというように すでにこれを受け取っているなら受け取っていないと誇るべきではなく 誇る者は主において誇るためになされたのであるから われわれは ここにおいて この謎において鏡をとおして あのお方を見まつることができる。謎とは 不明瞭な寓喩であり 寓喩とは たとえば《保証金》というたぐいである。

 それで 私たちは至高なる三位一体の似像によって 言い換えると神の似像によって 人間が創造されたということを 同じ似像が三人の人間において理解されるように理解してはならない。特に使徒は 

 男は神の似像であり 栄光であるから 頭に蔽いを被ってはならない。しかし女は男の栄光である。
(コリント前書11:7)

と 男は神の似像であり したがって女には被るように勧めるその蔽いを頭から取り去るように語っているから。・・・だから 私たちと共に恵みの共同相続人であるとき 誰が女をこの共同から遠去けるであろうか。また同じ使徒は他の箇所で言う。

 あなたがたはみなキリスト・イエスに在る信仰をとおして神の子らである。キリストにおいてバプテスマされたあなたがたはみなキリストを着ているのである。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく 奴隷も自由人もなく 男も女もない。・・・
(ガラテア書3:26−28)

・・・それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。女は 身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性のあの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神がその部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は留まらない。この精神は男のみならず女も持つことは明らかである。・・・
(三位一体論12・7)

つづけて 《だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。ところが 男と女の身体によって一つの精神の職務の配分が象徴されるのである》と述べられる。わたしには 《鏡をとおして見るのではなく 鏡を見ている》という死の制作者に属くあの不従順の子らは 《その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性のあの部分を象徴し得た》女性に男が あたかも精神によって心理の三一性を見るのではなく 心理の三一性によって精神を〔鏡として〕見るようにして 甘える結果の人びとであるように思える。
男尊女卑とは その愛の三一性構造の裏返しのかたち もしくは 心理の三一性構造がそれぞれの身体の性のちがいによってそのまま見られた男女間の関係としてのかたち であるように思われる。これが 死の制作者のもたらす蔽いそのものである。それが 三一性構造の共同幻想化である。
各カテゴリ(神の愛から欲望という愛まで)から成る三一性構造から 欲望の愛が 言わばその主体(女性)が 聖霊の非共同相続人であるかのごとく 分離され排除され もしくは 頭に蔽いを被るべきでない共同相続人を自認する男性が 心理・欲望のつまり時間的なものの)管理人である女性という三一性主体に甘えることによって 欲望の愛の側にあってそこから 鏡としてのように 精神の愛・神の愛を見ている。これらの結果またその事態そのものである。
この不従順のらに 三位一体のすがたを見させることは取りも直さず 人間のともがらとして あの欺瞞者・死の制作者を征服することにほかならない。これが われわれの愛の三一性過程である。聖霊を受けよと言われる十字架上の主を飲みまつることによって 神を喚び求め 神がこれを為したまうのである。自由人とその社会は このようなものとして捉らえられる。
できうれば 神 これを為したまえ。
(おわり)