caguirofie

哲学いろいろ

#41

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の四b 《愛》とは何か

つづけて この問いに対する結論は 次のようである。

 さて これらのすべての考えの中で 精神の本性は実体ではあるが物体的な実体ではないこと すなわち より小さい部分でより小さい場所を より大きい部分でより大きい場所を占めるものではないということを見る人は同時に 精神を物体的な実体と思いなす人々が誤るのはかれらの知識に精神が欠けているからではなく かれらが或るものを付加して それなくしては いかなる本性をも思惟し得ないからである ということを見なければならない。
 なぜなら かれらは物体的な表象なくして或るものを思惟するように命じられたなら これは 全く存在しないと思うからである。
(三位一体論10・7)

《それゆえ 精神はあたかも自己に欠けているように自己を問い求めるのではない。精神に現在しているものほどに認識に現在しているものは何であろうか。あるいは精神そのものほどに精神に現在するものは何であろうか》というほどに 《愛の三一性の時間的な過程で あやまつなら 精神は あたかも自己に欠けているように〈われ有り〉と自己を問い求めるのではない》。だから あやまつなら 我れありである。あやまつなら というのは 《愛の主体たる自己》が《愛する対象》に向かってその《愛》を愛するとき それを築き得なかったなら であり また まちがった欲望によって築いたなら である。これは 時間的な過程における非時間的な――なぜなら 《愛》とは 《知解》が時間的であるに対して また 《記憶》が無時間的であるのに対して 非時間的であるその――わが心である。もしくは 時間通史的なわが心である。
だからアウグスティヌスは われわれが問い求め・見出したと思うことがらを それを断定することを避けることによって 何も見出さなかったと言って 旧い三一性構造の上着の中に引き返すことをとがめ 聖書を註解して 次のように言う。

 聖書は神の尊厳なる似像(* つまり われわれ人間)の損ないを憐みつつ次のように語る。

 人間は似像のうちに歩こうとも 虚しく不安にされる。かれは宝を積むが 誰のためにそれを集めるのか知らない。
 (詩編 38:6)

 そのように 神の似像(* つまり 現実に心理の三一性構造の主体)に虚しさを帰するのは 似像〔* たるわれわれ〕が〔* あやまつことの結果〕損傷を受けたことを聖書が認めることに他ならない。しかも 聖書は《人間は似像において歩いているが》と言うことで 似像であることを取り去るほどにあの損傷が大きくないことを十分に示しているのである。
 それゆえ この『詩編』の文章は意味を違えないで 置き換えて真実に表現され得る。つまり 《人間は似像において歩こうとも しかも虚しく不安にされる》と言う代わりに 《人間は虚しく不安にされるが しかも似像において歩く(* つまり われわれの三一性は 神なる三位一体の似像である)》とも言い得る。
(同上14・4)

だから 《後にあるものを忘れ 前にあるものへと心をこめて身体を伸ばし》 〔見出したものの旧くなった〕三一性から〔新たな〕三一性へと 自己を愛し 神に知られるがごとく導けと 命じることが 時間完結する自己の生の過程において 自己を不在のもののように問い求めてはならないという命令の内容であるがごとく 《聖霊を受けよ》の言葉が われわれの独語の果てにささやかれるのである。

 たしかにキリストは人間として聖霊を受けられ 神として私たちに聖霊を注ぎたまうたのである。しかし 私たちは信仰の量りにしたがって この賜物を受け得るのであるが それを他の人々に注ぐことは出来ない。だが 私たちはかれらの上に聖霊が注がれるように神を喚び求める。神がこれをなしたまうのである。
(三位一体論15・26)

あの自由へと断罪された時間的存在たるわれわれの生は 自己を愛することにおいて――自己を愛しなければ何ごとも われわれは 為し得ない―― この分水嶺から分水嶺へ 日から日へ 三一性の似像において たどることと解されるのである。人は 《仕遂げたときから始める》ものであることは ことわるまでもない。
純粋社会学は それを《誘うもののようで 真実で》なければならないが 分水嶺に立つかぎりで すべての人びとに問い求められるものでなければならない。この土壌はしかし むしろ近代という時代がキャピタリスム神学の展開において用意したと推察されるのである。
したがって ここからは 愛の三一性構造の過程は 対話の領域 社会的な三一性連関の《組織(記憶)‐生産(知解)‐経営(愛)》の過程へとひろがって 問い求められることを 純粋社会学が要請していると推察されるのである。



なお 愛に 欲望( cupiditas )を含み 三一性過程は これを含んだ全体であるとしたからには この愛の過程的認識も必要であると考えられる。がこれは 先にも触れたように両性の対関係形式の問題として 対話の領域において 市民社会学原論として成すことにする。
いま そのための一助として やはりアウグスティヌスを引いておくなら 次のようである。そしてもはや これの註解を問い求めることは控え 最後に掲げるだけとする。身体の運動の三一性過程において

 さて 生殖器に内在する肉の欲望を婚姻の純潔は善く用いるのであるが しかもその欲望は意のままにならない運動を持っている。その運動は 堕罪(* つまり あの《落ちる》ことである)以前の楽園においては欲望が皆無であり得たか あるいはたとい存在していても 時には意志に抵抗することがないように存在していたことを私たちに示す。しかし 堕罪後の今は 欲望は精神の法に反しつつ 生むべき原因が全くないときにも 性交すべき刺激を与えるようなものであると私たちは考える。もしそれに人が屈服するなら罪を犯しつつ満たされる。

  • けれども 《あやまつならば 我れ有り》。

もし屈服しないなら 同意しないで 制御される。この二つのことは堕罪以前の楽園においては無縁なものであったことを誰が疑い得ようか。なぜなら あの貞潔は恥ずべきことをなさず あの祝福はいかなる不安も覚えなかったからである。したがって 処女の子が懐胎されたとき そこにはこの肉的な欲望は全く存在する筈がなかったのである。処女の子において死の制作者(* つまり悪魔)は死に値する何ものも見出さなかったにも拘らず 生命の制作者(* つまり キリスト・イエス)の死によって征服されるためにかれを殺すようになったのである。最初のアダムの勝利者(* 死の制作者=悪魔)は人類を拘束していたのであるが 第二のアダム(* キリスト・イエス)によって征服されて キリストに属(つ)ける者たちを放免する。
このキリストに属ける者たちは 人間の輩(ともがら)であるが 咎の中に居られなかったお方をとおして 人間の咎から解放された人間の輩である。したがって あの欺瞞者は自分が咎によって征服した人間の輩に征服されたのである。このことは 人間が高められることなく 《誇る者は主において誇る》(コリント後書10:17)ためになされたのである。
 征服されたのはただ人間だけであった。

  • 《心理》と 《精神もしくは いのち》を想え。

人間は(*――《心理》において《精神》に向かって甘える。だから 《鏡》そのものを見る――)傲慢によって神であろうとしたゆえにこそ征服されたのだ。しかし征服したまうお方は人間にして神であった。

  • 誰もが このお方に似るであろうと言われ得る。

神は謙虚に 他の聖徒らの中になされたのとは異なって(* つまり 聖徒らは 僕(しもべ)となされた) 人間を支配されず むしろ人間を担いたまうたゆえに 処女から生まれて征服されたのである。かくも大いなる神の賜物も またそれについて今 問い求め論議することは私たちにとって長すぎる別の事柄も もし御言〔* なる神のペルソナ〕が肉に成らなかったなら存在しないであろう。
(三位一体論13・18)

対関係形式の議論は 上に述べたように これを措くが 次の第五編として いま ここに触れていた《死の制作者(悪魔)》の問題を取り上げたい。つまり言いかえれば 愛の三一性過程において 悪魔と想定する何ものかが どうかかわるか なおこれを問い求めておきたい。それは 人間の生一般の問題から 自己の生についての愛を問い求めたからには この完結する時間的生の《死》とのかかわりあい それは三一性構造にどのように位置づけられるか これである。間接的には すでに触れたことではある。
(つづく→2008-06-02 - caguirofie080602)