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哲学いろいろ

#38

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の三c それでは《愛》はどこから来るか

ことを近代という時代に限れば スサノヲ・キャピタリストとしての近代市民は キャピタリスムという形相をもって キャピタリストという広く《愛の人》となり その共同自治を築いた。築こうとした。玉を突く人というイデア いや もはや形相であるからには 神の領域に近いイデア または この神の領域を半ば収奪するがごとくして――なぜなら 初めに人間はこれを分有していたからである―― そのようにして得たイデア この形相が キャピタリスムだと考えられる。モノの分配あるいは配分について さらに 知恵をはたらかせば キャピタリスムは 《自治の人 つまり 自治の人が互いに共同自治する社会》という考え方として 広く愛の問題をあつかっていると考えられる。


それでは 神の像はどのようにこれを問い求めるべきか。言いかえれば 近代市民スサノヲ・キャピタリストのその知解行為は どのような領域でこれが及ばず その意味で 陥穽を残すことを余儀なくしたか。しかし われわれは もはや 純粋思想派〔としてのキャピタリスト〕と反純粋位相は〔としての反キャピタリスト〕との確執には触れず ここから眼を離して さらに前にあるものへ心を集注して身体を伸ばすべきである。したがって そもそも 神の領域は いかなる像(仮象)として捉えられ 自己はどのようにこれにかかわるか これが純粋社会学の課題であると考える。また 独語として 眼を離すのであって 対話として ふたたび眼を戻して帰ることになろう。
愛という保証のよってきたるところは それが三一性をかたちづくっているものであるからには たとえば《等価交換》つまり 《等価交換への 人としての等位交通》という自由と また 《法の前の平等》という法による共同自治の形式 言いかえれば 《経済人 homo oeconomicus 》という自由人が 愛し(生活し) 互いに平等なる経済人またその人びとの法による共同自治 これが愛されるということの結果である。かつ 人間としての原理(はじめ)であった。そしてここには 経済人としての愛の三一性がある。また この意味で この純粋思想派も 経済(知解・生産)が土台であることをうたっている。
しかしこの愛の三一性は可変的である。だから ここには 時代(キャピタリスムないしソシアリスムも)としての三一性なる構造の心があり 逆に ここには前進する自己の心の三一性はとどまらないと言える。逆に言えば キャピタリスムの時代としての心の三一性構造が 《心》の無限性領域なる三位一体 殊にその聖霊なる神によって保証されたとしても その逆ではない。(《神の見えざる手に導かれる》のは 自由経済人が そのみづからの計画とともに 神のはかりごとをも予定していたろうか)。神の愛は 人間の愛によって――前者が後者によって 後者をとおして見られ得るとし 見られたとしても―― 保証されるというものではない。この意味で 人間は 有限であって 法則として不可変的な自然の一部である。《法則として不可変的な自然》と言うとき それはすでに自然(質料とその運動)を 形相の次元で確かに見ている。しかし この形相を固定するのではなく この形相をとおして 聖霊なる神の愛を 人間社会における保証として見ることは 不適当ではない。また不思議ではない。自然の一部である限り 人間は これを実に為しうる。
それでは《自然》のだれが だれを愛してその保証を 雨として風として しかも 形相次元で捉えるからにはそれを 不可変的な実体としてわれわれが受け取るべく 与えるというのであろう。
クリスチア二スムの思想に立てば これを 父なる神が子なる神を愛し この互いの愛によって 聖霊なる神つまり神なる愛が 発出して――しかしそこに 時間的な間隔を見ない―― 存在し 《子なる神》はすなわちイエス・キリストとして 人間としてのペルソナでもあると言う。わたしは この節の当否を問わず この知解の過程は われわれにとって必要でありかつ有益であると思う。
人間は それぞれ一個のペルソナであって その三つの能力によって 愛の三一性を――時間的にである――かたちづくる。しかし 神の領域は 何ら時間的な隔てなく 父と子と聖霊とが 三位一体であると言う。父が子を生み この子を愛し 子が父を愛するとき 聖霊がそこに発出し これら三つのペルソナは――人間の愛の三一性がそれは いくらかは類似しているが 不可思議にして それからは ほど遠いかたちで―― 一体である。それは 人間の愛の三一性が おのおの一個のペルソナにおいて 過程的に心をとおして見られるというに対して 神の三位一体は 三つの位格すなわち三つのペルソナにして しかもそうであるがゆえに より一層 個が各個と 個が全体と 全体が各個と それぞれ 同じである。強固な三一性である。これが 人間がその一部である《自然》のすがたであると言う。人間がその一部であると言うのであって 子なるペルソナすなわち イエス・キリストが 神でしかない あるいはつまり形相でしかない と言うのではない。身体の運動じたいに もしくはその源に この神の領域が存在すると言う。この仮象のすがたを われわれは肉的な眼によって 見られ得ると言う。ここに上昇することが 自己自身を愛することにほかならないと言う。のだろうか。
ここには 《経済人》の領域が確かにあって 経済人の領域が 《心》をとおして 三一性から三一性への前進として変えられる。つまりことわるまでもなく ここからわれわれの愛が来る。と言う。のである。わたしが思うには この説の当否を別として――なぜならわれわれは 宗教を論じているのではない。また 信仰は われわれの本質(心理および精神)のかたちではない。信仰は それが 実現してしまえば やがて あの時には信じていたなぁという感慨をもって 過去を振り返る時が来る。だから このクリスチア二スムの理論の当否を別として―― われわれの愛がどこから来るのか たとえばこのように異常な節制によって世俗的なものを軽視するごとく 自己自身の内奥に分け入り独語するかのようにして これを問い求めることは 人間にとってふさわしい社会(つまり人間の関係)のかたちであり そのかたちを形成するというように考えられるのである。純粋社会学はこのとき 生きると思われる。
アウグスティヌスの次のような三位一体論を聞くとき われわれは 近代市民キャピタリストらの神学を――つまりかれらが どのように キャピタリスム自治共同へと突き動かされたかを―― よく理解するように思うのである。アウグスティヌスは 神の三位一体から人間の三一性へという方向で説き進む。

 さらにまた 三つの能力を持ちながら一つのペルソナである人間としての似像(にすがた)のように この神の三位一体は一つのペルソナではなく 三つのペルソナ つまり子の父 父の子 父と子との聖霊である。(1)人間の記憶 そしてすぐれて 動物が持たない記憶 言い換えると その中に叡智的なものが身体の感覚によっては到達できないように包含される記憶は この神の三位一体の似像において それ相応に 当然比較にならぬほど等しからずとは言え 御父との或る種の類似を持っているのである。
 (2)同じく 私たちが知っているものを語るとき そこから思惟の志向によって形成される人間の知解力は いかなる国語にも属さない心の言葉( verbum cordis )であり 勿論 遥かに隔たってはいるが 御子との或る種の類似を持つのである。
 (3)知識から発出し そして記憶と知解とを結合し いわば親と子に共通な しかし親でも子でもない人間の愛も はなはだしく等しからずとはいえ この似像において聖霊の或る種の類似を持っている。
 しかも この三位一体の似像において この三つの能力は一人の人間そのものではなく 一人の人間の有(もの)である。そのように あの至高の三位一体御自身――その似像が人間なのである――においては あの三つの能力は一つの神の有ではなく 一つの神であり また それは一つのペルソナではなく 三つのペルソナである。三位一体のこの似像(つまり人間)が一つのペルソナであるのに 至高の三位一体御自身が三つのペルソナであるということは たしかに不可思議にして言い難く あるいは言い難くして不可思議なことである。三つのペルソナの三位一体は一つのペルソナの三一性よりも一層 不可分離的なのである。神性―― divinitas あるいはもっと正確に言うなら deitas ――の本性において三位一体は真実に存在するのである。この神性は各ペルソナの間で変化なく 常に等しい。それは 存在しなかったことなく また別様にあった時もなかったのである。また 存在しなくなるであろう あるいは別様に存在するであろう時は存在しないであろう。
 しかしながら 三位一体の不完全な似像の中にある三つの能力は物体ではないから 場所的に分かれているのではないとしても この現在の生において相互に大きさによって分離している。なぜなら いかなる集塊も存在しないが それでも私たちは或る人においては知解力よりも記憶力の方が大きく 他の人においてはその逆であり また或る人においては この二つの能力が大きさにおいて愛に凌駕される――この二つが等しくあろうが等しくなかろうが――のを見る。そのように 二つは各個よりも 各個は二つにより 各個は各個により 小さいものは大きいものに凌駕される。すべての疾患から癒やされて 互いに等しくなるとき 恩恵によって もはやいかなる変化も蒙らないものも本性的に変化しないものに等しくされないであろう。それは 被造物は創造主に等しくなく そして被造物はすべての疾患から癒やされるときも変えられるであろうから。
(三位一体論15・23 中沢宣夫訳)

生産行為の 時に断定的な 自由という形式(自由競争) この生産行為の社会的な交通整理としての法の前の平等(それは 神の前の 神の子とならしめられるであろうとしての平等である) このような共同統治形態 つまりこれらの愛の 時に制度化される主観共同化(この共同主観の社会的な表現が 法律である) これらを みづからが 旧い三一性から新しい三一性へと 前進し変えられるようにして 愛してゆくという(つまり 文学し経営し政治してゆくという)いわゆる近代市民の社会とその形態は
この近代市民社会は それを問い求め終わりすでに見出したがごとく しばしば 断定することによって(そして それによって すでに 愛の形式として ビルト・インされてのように) 現代から見れば 不可変的な実体であると想定される三位一体の神に その保証たる愛(聖霊)をとおして かれら ないし われらが 甘えた結果(かつ過程)であると理解されるのであり こう理解されるがごとく――なぜなら 神ないし自己自身がこの制度的な社会に甘えたとは思えない。心理の三一性において甘えたのであり―― その形相の体系(イデオロギ)じたいは むしろ 完璧である。
(つづく→2008-05-30 - caguirofie080530)