#36
もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422
付録の三a それでは《愛》はどこから来るか
それでは 《愛 charitas / dilectio / amor / cupiditas 》はどこから来るか。
一般に 感性(五感 および 第六感?)は その感覚の自己の側の器官と 自己以外のその対象と そこに現われるその感覚とより成る。身体の運動はここにあって ここ以外になる。しかし人間には かれが本性として《自由(自由人)》であることを宣言されているがごとく 《身体〔の運動〕》の源を 神と分有している。(神を持ち出さずに 《無意識》の領域として とどめる場合もある)。身体の生命は 魂とも呼ばれるにふさわしいようにして 心が備えられ心で見る能力が与えられている。
そこで 三つの要因から成る感性は つまり身体の運動つまりもう少し広く生活は 人間の言葉で 人間は意志によって動くと言うにふさわしく 愛する人と愛されるものとその愛とから成ると表現される。この三つの要因の一体性(三一性 trinitas )が ただちに《自由》であると言うには 人間はあまりにも有限で凡小であるが この《自由人》を大前提としている。(付録の一)。
そこで 愛ないし感性の三一性から成る身体の運動そのものは 心理と呼ばれ この愛の大前提は 精神(もしくは 逆に 物質)と呼びうる。《愛》がここに生起するものであることは 言うまでもない。
それでは 愛は――あるいは義なる心から不義なる心までを含めて―― どこから来るのか。
そこでアウグスティヌスに拠れば かれはわれわれが 《心理(肉の眼や耳など感覚器官で視られうる)》の世界にしか生きていないにもかかわらず 《精神(もしくは 物質:――以下 同じ)》の領域にも下降(もしくは上昇)してそこに到達しうると言うがごとく 愛の三一性(つまり生活)の源たるその大前提を捉えようとする。《三位一体論》第八巻を全編で見た第十章(それは 量的にみれば 第八章第十節といったほどの文章構成)でひとまづ打ち切り 新しい巻に進む。すなわち第九巻第一章を次のように始める。
私たちはたしかに三位一体を問い求めている。それも或るなにかの三位一体(もしくは 三一性)ではなく 神なる三位一体 真実にして最高唯一の神なる三位一体を問い求めているのである。だから読者よ 待って欲しい。私たちはなお問い求めの途上にあるからである。
(三位一体論9・1)
そしてこれは 第八巻第十章の最後で
ここから私たちはなお上昇し 人間に許される限り より高いものを問い求めて行かなければならない。
しかし 問い求めていたものをすでに見出したと思わないように ここで暫く私たちの注視力を休ませよう。それは 或ることをそこで問い求めるべき場所を見出した人がよく休息する場所のようにである。しかしまだ問い求めていたものを見出したのではなく それを問い求める場所を見出しのである。
(8・10)
とすることに呼応する。
しかし言うまでもなく わたしたちが問い求めているものは 心理の三一性に生きるための 神なる三位一体である。
- 純粋思想派は このクリスチア二スムの神学としての三位一体論を継承するがごとく その神にもとづくようにして 三一性心理の自由は 社会が国家(A‐S連関体制)という形態を採るときに 人びとはその構成員として もっとも自由であると考えた。反純粋思想派は 三位一体の神を 現実の質料(その質料群の関係が 心理次元に対応する)の根源たる第一質料つまり物質にあると見て 国家という社会形態を揚棄し再編成してもなおかつ――またそうするべく―― 人はその新しい社会の形態の中で 自由でありその内容としてよりよく互いに平等であるとした。後者が 物質を 三位一体の神であると見て そこに描いたその像は 物質の共同性 communisme なる社会であった。《共産社会》とも呼ばれるこの心は それが正しい神の像であるかどうかいま別にしても 単なる心理の世界つまり 目に見える現実の社会の像と同じであると 基本的に言って 捉えているのではない。そのことは留意すべきである。
- したがって一般に 《共産主義》と呼ぶ実践論が この純粋社会学のインタスサノヲイスムと同じくするところと異にするところとは この点からも明らかであろう。
いまアウグスティヌス(354−430)は このことを予表するがごとく つづけて
もし問い求める人が 知りかつ語るのにきわめて困難な事柄を確固たる信仰において問い求めているなら 誰もその人を非難する権限を持たない。しかし問い求めているのではなく断定する人を もっとよく考え あるいは真実を教える者が誰であれ 直ちに非難するのは正当である。
(9・1)
と述べる。
また 反純粋思想派の祖・マルクスその人は アウグスティヌスが
また 誰も真理を分かってしまったように軽率にも喜ばないように
常に聖顔(* 三位一体)を求めよ。(詩編104・1)
と言う。
(9・1)
と言うように
共産主義〔* というかれの問い求めた聖顔〕はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。
(《ドイツ・イデオロギ》)
と明言した。つづけて
われわれがコミュニスムとよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。
と言う。言いかえればマルクスは 純粋思想派の系譜における当時一般のクリスチア二スムに反を唱えたものにほかならないという部分は大きい。この意味でのマルクスは まだ 何も言っていないことにほかならない。したがって ここに立脚するかぎり 心理・愛の世界(これは 一般に経済的な社会現実と把捉された)におけるパルタイとしてのコミュニスム(つまりいわゆる共産党だが)は やはりこれも 何も語っていないに等しい。
《いまの状態を廃棄する(もしくは 揚棄する)ところの現実的な運動》とは とりもなおさず 身体の運動たる生活一般のことにほかならないからである。もちろんこの軌道修正が 一つの大きな力をもったことは語るにあまりあるが 実践形式を広くインタスサノヲイスムに置くわれわれの実践は――心理・愛・経済社会的な実践は―― パルティ・コミュニストと呼ばず ただいまこの地点に立った・この地点からの民主自由会議と呼ぶことにした。民主自由会議のさらに新しい次の段階・次の時代には やはり広くコミュニスムの共同主観に立った別の運動がおこると捉える。
言いかえれば――いま 三位一体なる神の像を問い求める前にこの議論をなすわけであるが―― 仮りにマルクスという人間が問い求めた議論に立つなら その《コミュニスム》なる三位一体の像は 共産社会と捉えるよりも――つまり 物質の共同性連関による社会関係と捉えるよりも―― それが 《心》であるからには 《自由人》を大前提とした人間の主観 したがって 共同主観 sensus communis / common sense と呼ぶべきだと捉えた。
それは 《理想》ではなくとも 一見 《一つの現実の基準》であるかのように見える。しかしそれは あくまで 《心》であって もしくは その心の土台である魂ないし いのちとしか呼びようのない・だから 目に見えない つねに目に見えない 愛のかたちであるとした。いや だから これが 愛・心理・身体の運動の源泉とも呼ぶべき〔神とともに・神によって分有する〕やはり《いのち》であると考える。
神が 人間にとって超越的な実体であるというのは この謂いであって そのほかの領域にはない。しかも この《いのち》の領域において 愛の源泉たるいのちの領域において われわれ人間も 超越的にして無限性なる神の実体(想定)と 類似し その《ちから》を分有するよう断罪されていると言うのであって。
それでは この愛はどこから来るのか。その源泉を 心理なる現実的三一性が依拠する神なる三位一体であるだろうとして この三位一体とはいかなる像なのか。
身体の運動が 特に目に見えて捉えられるとき それは心によって認識され 心理とよばれ この心理とよばれる現実世界は 身体の運動の奥なる精神の領域において またその領域とともに 読まれるというとき それはやはり《心》をとおしてであると すでに言っていた。言いかえれば この《心》が 精神とともに 自由人であることを大前提とするというとき そのことを取りもなおさず 大前提の大前提たる神の領域と この神の領域じたいをわれわれが分有することができるということを前提していた。これは むしろ 経験律であると思う。
このように〔のみ〕神を前提するとき たとえばこれをより具体的に《三位一体》と規定すると考えたのであったが なおそのかたちは いかなるかたちであるのか。言いかえれば この《三位一体》の像が 愛の三一性のかたちと いかなるかたちでかかわり その源泉となるのか。われわれが ここで独り言をつぶやくようにして問い求めるものは これである。またそれは 愛・心理・有限性の世界において 対話がしたいがためであった。
しばらく アウグスティヌスの言うところを聞いてみよう。かれはつづいてこう述べる。
もし自分が何かを知っていると思いなすなら その人は知らなければならないことをまだ知っていない。しかし 神を愛する人は(*――自己自身を隣人のように 隣人を自己自身のように 愛するがゆえに 神を愛する人また いまの場合 独語をつぶやく人は――)だれでも神から知られているのである。
(パウロ:コリント人への第一の手紙 8:2−3)と。ここで使徒は 神を知った――これは危険な先取りである――と言わないで 《神から知られた》と言う。・・・しかしさらに重要な使徒の言葉がある。
兄弟たちよ この私はそれを把握してしまったとは思いなしていない。ただ一つのことをなすのである。すなわち 後にあるものを忘れ 前にあるものへ心を集注して身体を伸ばし(* もはや言うまでもなく 形相をでもなく純粋思想を伸ばしでもなく) キリスト・イエスにあって神が上から招いて下さるその棕櫚の枝(* 賞つまり 身体の運動の自由である)を追い求めているのである。だから 私たち成人したものはみな このことを思念(おも)うべきである。
(ピリピ人への手紙3:13−15)使徒はこの生における完成(*完成 しかも この生における)を語っている。それは後にあるものを忘れ 前にあるものへ心をこめて身体を伸ばすことに他ならない。問い求める人のこの志向こそ 私たちがそれに向かって進み それに向かって全力を傾けるその目標が把握されるまで もっとも安全な道である。・・・かくて私たちは見出した者の如く問い求めよう。かくてまた私たちは問い求めた者の如く見出そう。
人間は仕遂げたそのときに始める。
(集会の書18:6)からである。
(三位一体論9・1)
たとえば これが保証(つまり 人間の愛または神の愛)であり 保証はここにのみある。保証はこれでしかない。
そこでわたしたちが 回りくどくも下降(または上昇)して問い求めるこの愛(保証金)の三一性ないし三位一体とは何か。
(つづく→2008-05-28 - caguirofie080528)