caguirofie

哲学いろいろ

神のイメージ(1)

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

神のイメージ・質問

 三位一体論から入ります。

 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 ☆ したがって――と言ってもこれは タトエですが―― ひとは神の似像(にすがた)であると言われるわけですが そのすがたを 三位一体なる神に似ているという意味に採ると 次の図式が得られます。 

 ○ (神学および ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ここから 神のイメージを考えるにあたって次の図式を取り出します。


 ○ 三位一体(神)と三一性(経験存在) 〜〜〜〜〜〜

  神: 父なる神―――子なる神―――聖霊なる神:三位一体
  ____________________
  人: 記憶行為・・・・・・知解行為・・・・・意志行為:三一性

  国家: 司法・・・・・・・・立法・・・・・・・・・行政   :三一性
  
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ☆ 問題は端的に言って 神なる三位一体は 時空間を超えており 父なる神と子なる神と聖霊なる神とのあいだに 時間差がない。というのに対して 人間や社会においては 記憶(秩序作用)や司法の判断内容と 知解(認識)や立法(法律条文)と そして意志や行政の執行内容と これら三者のあいだに いかんせん 時間差がありまたその内容にも 食い違いが生じるということ ここに問題はあります。

 三位一体は 即時に その一体性が成ると考えられるのに対して 経験世界における《三一性》は 互いの内容に齟齬を来たし 実行が成されるときに 時間差がある。

 これが 神のイメージを示そうとしたひとつの説明です。





 問いは 次です。

 1. もしこの神のイメージがその図解のとおりだとすれば そのような神の意志は 存在すると思うか?

 2. むろん人間には分からないという前提で言うのですが 経験世界における行為や出来事にかんして じつは神の意志が そのままではないが はたらいていると見る見方は ありうるのか?

 3. つまりそれは ものごとが即時に成るのではないわけだけれども 神にとっては千年が一日だと言われるがごとく 少しづつ 神のこころづもりに沿って じんるいの歴史はいとなまれて来ていると見る見方は ありうるのか?
 4. つまり 三位一体なる神にあっては すべてその意志は即時に成るのだが じっさいに人間とその世界にあっては 時間差をともないつつにでも 成就――たとえば 自由の――に向かってあゆんで来ている〔と見る〕のか?

 5. それとも 神のイメージは まやかしであり まったくのまぼろしであると見るのか?

 6. つまりは ここで《非思考の庭 つまり 信仰》の観点を持ち出すなら この信仰は いったい何をのぞんでいるのか? 何を 将来ヘむけて予感しているか? あるいは 信仰もまぼろしであって 何もないか?

質疑応答(1)

1. もしこの神のイメージがその図解のとおりだとすれば そのような神の意志は 存在すると思うか? 
 ◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 bragelonne理論におけて、
 神に《こころ》は存在し得ますか?
 それは、神の《擬人的》理解、解釈となるのでは?
 《こころ》がないのですから、《意志》はないのでは?
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ じつは この質問は 質問の仕方が変に手の込んだかっこうになっています。おっしゃるような疑問をとうぜんのごとく抱きつつ (1)からつづく――これも変な・なぜならおっしゃるように 神が擬人化され心を持つかのように扱われている――問いに答えよと言っています。

 言いかえると 神の擬人化といった架設をどう扱うかという・隠れた問いにも答えつつ 全体をどう料理するか。こういう問いになっています。

 神はまぼろしかとか 信仰はまぼろしかといったふうに 少しでも擬人化された神のイメージと 哲学的思惟とのあいだを取り持とうとしていますが これは ほころびを縫い切れるものではないようです。――と分かっているかたちででも 問うてみるという質問です。

 ということは けっきょくのところでは 《あなたの信仰は どうなっていますか》といった問いになっていると受け取っていただけるのではないでしょうか。どうでしょう。


 
 変則的ですが 回答を俟ってみたいと思います。




 2. むろん人間には分からないという前提で言うのですが 経験世界における行為や出来事にかんして じつは神の意志が そのままではないが はたらいていると見る見方は ありうるのか?

 ◇ 働いていると見えることはある。 / しかし、それは人間の解釈ということになるのでは?
 ☆ ええ。つまり 個人の主観の問題だということだと思います。
 ということは 一般に回答者氏の主観として 回答してもらってよいということにもなります。

 あるいはさらには 主観においては 《神の意志が この経験世界に はたらいていると見えることはある》と言ったとき では ほかの主観にとっては・つまり社会一般のあいだでは その自分の主観が どう成って行くのか? 
 《神をめぐる主観は 他者とのあいだで どのように扱われて行く》のか? といった問題をともなっているかと考えます。



 3.つまりそれは ものごとが即時に成るのではないわけだけれども 神にとっては千年が一日だと言われるがごとく 少しづつ 神のこころづもりに沿って じんるいの歴史はいとなまれて来ていると見る見方は ありうるのか?
および
4.つまり 三位一体なる神にあっては すべてその意志は即時に成るのだが じっさいに人間とその世界にあっては 時間差をともないつつにでも 成就――たとえば 自由の――に向かってあゆんで来ている〔と見る〕のか?

 ◇ 神の《意志》を仮定するから、矛盾が生じるのでは?
 ☆ あぁ それでしたら 問いは《神の意志を仮定した》のですから その問いじたいが 矛盾をはらんでいる。という回答ですね。

 そうですね。そうだとまでは言わなくても まだ済むように思いますので 言うことにしますが。
 たとえば (2)で主観の内では 《神の この世への介入》がありうるということでしたので その線に沿って この(3)および(4)を いちおう矛盾なく 答えていただけるのではないかとも考えます。





 
 5. それとも 神のイメージは まやかしであり まったくのまぼろしであると見るのか?
 ◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 《まやかし》となるのでしょう。
 イメージは、表象、心象であり、経験事象に属するのでは?
 神を語った瞬間、それは《ウソ》となるでしょうし、
 神と思った瞬間、それは神ではなくなっている。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ ここは すごく微妙ですね。

 かんたんに言ってしまえば その《まやかし》にあって《まぼろし》として (3)や(4)の問いに 主観として どう答えるか。これを 求めているかっこうです。
 

 

 6. つまりは ここで《非思考の庭 つまり 信仰》の観点を持ち出すなら この信仰は いったい何をのぞんでいるのか? 何を 将来ヘむけて予感しているか? あるいは 信仰もまぼろしであって 何もないか?
 ◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 信仰すら主観でしょう。
 《まやかし》。
 信仰も否定されなければならない。
 で、ないと、
 《智》の欠如した、新たな《グノーシス》になってしまうのでは?
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ たぶん――これまでの(1)から(5)までに一応の説明をした《問いとしての仕組み》がかろうじてでも妥当だという前提に立つかぎりでは―― グノーシス主義のような《神をめぐる知識としての理論やその体系》にはならないと考えます。

 むしろ雲が空に浮かぶようなかたちの説明内容であり 問いとしての前提なのですから 主観のいだく思惟にかんするかぎりの表現は 言ったあと すぐにでも消えてしまうかも知れないからです。その成立があやうい《対話》であり そこに閉じ込められた哲学としての探究に成っているかと思うからです。


 そしてもう一点です。
 この(6)の問いは こうです。
 ひとつに (1)から(5)までにおいて 擬人化した神(つまりそれは 偶像と化すおそれのある内容を持つ)をめぐる主観としての歴史観――つまり 言ってみれば キリスト史観――の開陳と そしてこの(6)では そのキリスト史観(=思考物)と信仰(=非思考)との組み合わせは 出来るか? と問うています。

 おそらく《出来る》とすれば それこそ《まぼろし》としてだろうと思います。

 ただし・ところが 《信仰》というものも その非思考の庭にあって ヒラメキを得ることがあり ヒラメキから経験思考にまでつなげる場合もあるということが言えます。

 だったら 経験思想としてのキリスト史観と ヒラメキ思想とを照らし合わせてみることも可能なのではないか。

 つまりは早い話が 信仰からのヒラメキは 将来の歴史の過程に何を見ているか? 何をのぞんでいるか? 見ることも望むこともないとき それにもかかわらず 何かの予感をあたえられているということが あるかも知れない。

 そういう――主観内面における――歴史にかんする予感また預言を もしあったら 聞かせてください。という問い合わせになっています。

 どうなりますか。