caguirofie

哲学いろいろ

神のイメージ(2)

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

前記の内容へのおぎない。

おぎないます。


 ひとつに 神の想定を置き ふたつに 神を人間になぞらえて意志を持つとさえ仮定して それでは神は 人間たちの世界にどのように介入しているか? とまで問うこころみです。つまりは それぞれの主観における・神と人間との関係としての歴史観――キリスト史観――を問うています。

 そしてじつは この問いを けっきょくすべての人に問うています。なぜなら 神の想定の中から《無い神》をらぶ無神論の信徒にも 同じく同等に問うているからです。また 有神論の信徒については キリストの神とそのほかの別の名前の神とは すべて互いに同じ類型であると見ているからです。

 少しでも一般的になるならキリスト史観を 梵我一如史観と言っても ヤハヱー史観と言っても あるいは アッラーフ史観と言っても 同じです。





 すべては 一人ひとりの主観の問題であり そのような内面における思いやそれを言葉にして表現した内容をあつかっています。これが やはり大前提です。

 そしてひとは 人生観や世界観を持つことになるからには そこに歴史観をもたずさえていると言っていい。
 漠然と持つ思いとしての史観のほかに 非思考なる信仰から得られるヒラメキを思考の次元に降ろして来て これを預言やあるいはけっきょく一般の思想としても表現する そのような歴史観をも持つことがあり得る。

 このあくまで主観の内面で持たれ場合によってはいくらかはさらに繰り広げられる歴史観 これを 主観の内から外に出してみた場合 それは どのように社会の中で扱われて行くものであろうか? ここまでをも問おうとしています。





 早い話がたとえばキリスト史観として言えば 神にとって千年が一日だとすれば イエス・キリストの歴史への登場のあとちょうど二日を過ぎて 世界にはおおむね民主主義が根を下ろしつつある。といったまぼろし史観が得られるかも知れません。
 あるいは 別様に考えるなら 三位一体なる神にあってはあたかも司法と立法と行政とが 神の意志するその一瞬にことが決まりその内容は即座に実現している。たとえば《自由》も そのように成る。

 というときこの神の意志する《自由》が 人間の歴史においては どのように推移しているとひとは見るか? 

 (あ) 神において自由はすべてにおいて即時にまたつねにすべてであるのだから 人間は そのことの地上における実現を――みづからも努力しつつ―― 気長に俟てばよい。と考えるか?

 (い) 立法府の立てた法律の行政による執行が その内容が違っているではないかという物言いを受けたとき そこに司法を巻き込むことをも伴なって 時間をかけて 解決への人びとの努力がすすめられる。これをキリスト史観にあっては すでに神においてはすべて食い違いも時間差もなく即時に実現したかたちになっているのだから 初めから解決している。と見るか? つまり 神にあっては 問題が初めからない。と見て そのあとどうするか?
 
 (う) すなわちそのようなキリスト史観をいだく主観は どのように実際の具体的な時間過程としての歴史の中で振る舞うか?

 (え) 言いかえると こういった梵我一如史観はすべて まぼろしに終わると見るべきか? 勝手な空想であり妄想であるということになるのか? No.2の回答によるなら 《病的で ねじの外れた妄想》であり《思考の名にあたいしない》となるのか?・・・




 (お) あるいは別様に考えるなら ひとりの人間にあって おのれの自然本性に合った身と心との内的な秩序(=記憶)は そのまま即座に知解され その秩序内容(=知解内容)に沿って意志されるといったことがあり得るか?

 (か) これこれが 論理としても合理的であり情感の共同性としても妥当であると知解した内容が そのまま意志によって実行に移されるということはあり得るか?

 (き) 前二項を言いかえると ひとの意志行為は 記憶と知解とのあいだで 内容の食い違いとその認識や実現の過程としての時間差とをともなっているのが一般的であると考えられるが 果たしてこの実態は――つまり 記憶・知解・意志の互いに食い違った三一性は―― 神の三位一体のごとく成れるか? 成れないとき そのへだたりについて どう考えるのか? 

 (く) 言いかえるなら 神の三位一体は 不整備なる三一性をたずさえて生きる人間にとって まぼろしか? しかもまぼろしとしてどこか心の片隅にでも持たれるような総合的に捉えた《現実》であるのか?

 (け) ひとは神の似像であるというのは おそらくこの三位一体と三一性との類似において言っていることだと考えられるが そういった人間観は もはや廃れたか? 必ずしも廃れてはいないとしたら その人間観からさらに歴史観にまで思惟を広げたとき それは 人間にとってどういう《現実〔の一端〕》を成すか?

 (こ) 要するに 神をひとは何であると思っているか? これが問いです。



 (さ) なお 神の三位一体は 真理と言い表わされ 人間と社会の三一性は 〔変わり得る〕真実や〔客観と言っても皆に共通の内容を措定しがたい〕事実として表わされると見ます。(そういう定義での用語として使えると思います)。
 
 (し) 人間にとっての現実は 心の主観的な真実と社会における事実とから成るか? それともそれらのほかに 神の真理をも どこかにのぞみ見ているのか?

 (す) つまりは 三位一体なる神は 無神論の信徒にとっても 真理としてけっきょくは持たれていると推し測られます。そういう勝手な前提で質問しています。