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哲学いろいろ

Hegel:Gottesbeweis (2)

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

○ 西羽義夫:ヘーゲルと神の存在証明

  http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/5832/1/hs02-043.pdf

§1 
 ▲ (p.50) ヘーゲルは神は優れて「精神」であるとする。「神は最高の感情ではなく,最高の思想である。この思想は表象の中に引き下げられるとしても,この表象の内実は思想の国に属する。」
 ☆ 《思想》だとすれば 《精神》は 身と心との内の心である。悟性・理性であり あるいは《記憶‐知解‐意志》の行為能力である。

 けれどもこの《精神》は ガイストであり どうも《霊》を言うと考えられる。単純にそう考えられる。
 つまりは 存在証明で証明しうるという限りで 《精神》の領域においてだと考えられると同時に――《いと高き昂揚》としての精神のようであると同時に―― すでに身と心なる経験世界を超えたところの《非経験の場》を想定しつつ言っていると考えられる。

 単純にそういうナゾなのだからという理由である。

 §1‐2
 ▼ (p.51) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 神は精神であるという命題は,差し当り,「神はただ自己自身を知っている限りにおいてのみ神である。神の自己知は更に人間における神の自己意識であり,神についての人間の知であって,この人間の知は神における人間の自知にまで進んで行く」という事態を含んでいる。
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 ☆ このとき 次のように区別されうる。

 非経験の場としての霊:《神の自己知・神に自己意識》
 経験事象としての精神:《人間における神の自己意識・神についての人間の知》

 §1−3 
 ▲ (pp.70−71) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ヘーゲルにとって信仰とは,

  「神は精神であるから,精神および真理の内で崇拝されねばならない」

 という意味を持つのである。
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 ☆ 次のように言いかえ得るであろう。

 ○ 神は霊である。これをそのまま真理=霊の内に捉えてわが心に受け容れる。と同時に もしその《神の霊 に対するわれのあり方》を多少とも言葉にし思考の領域で捉えようと思えば それとしての神学となる。

 ☆ ちなみに 信仰とは 《崇拝》とは関係ない。
 《非経験の場》としての――それが何であるか分からないナゾの霊として捉えたところの――神を そのままわが心に受け容れたとき成るのは 《身と心》とを超えたと想定される《非思考の庭》である。この庭の動態が 信仰である。そこからは ヒラメキが得られるはずである。

 §2
 ▲(pp.54−55) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ヘーゲルによれば,この〔* 神の存在証明の仕方の〕数多性は,出発点とされる有限者(* すなわち人間)の多様な規定に基づくのである。

 この多様な規定とは,例えば,宇宙論的証明における「世界の事物の偶然性」であり,自然神学的証明の「世界の事物の合目的的関係」であり,存在論的証明における,未だ主観的な「内容上無限たるべき神概念」である。
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 ☆ このことの意味するところは すでに《証明》の以前にその神の存在について 《経験世界を超えたところに 非経験の場を想定する》ということにほかならない。

 §2−1 
 すなわち 《世界の事物の偶然や必然》を超えたところに――すなわちあらゆる因果関係からまったく自由な場として――《非経験の場》を想定したことになるはずである。

 あるいは 世界の事物の《目的・意味》を問うたときに 《合目的的な関係》であろうがなかろうが ナゾとしての意味・意味としてのナゾをやはり想定したということを意味する。つまり その存在を証明する以前に 神をこの非経験の場なるナゾだと想定しているはずである。

 同じくあるいは 経験世界の相対性・時間的であることの制約そして有限性をもけっきょく超えたところの或る種のチカラ(または意味)を想定したいという意図があるらしい。
 つまりは ここから導かれると言っている《内容上無限たるべき神概念》も じつはすでに《有限なる経験世界を超えたところの場》として想定していたものである。

 時空間の世界に対して 永遠なる非経験の場
 有限の世界に対して  無限なる概念で捉えられるはずの場
 相対世界に対して   絶対

 などである。

 §2−2 
 ということは そのようにすでに初めに人間の側から《非経験の場》として想定しておいた神を 存在証明するということは むしろ《分からない。 または 分かるか分からないかが 人間には 分からない》という答えを得るということにほかならない。

 そしてそのおおいなる想定のもとで 派生する作業として神学がある。
 精神の昂揚は 概念の問題として そのような神に近づくことは出来るか。といった課題を 西欧の人間は持った。こう解釈しなくては仕方がないと思われる。じつは どうでもよいことである。

 形而上学が かたちづくられるかも知れないが だからと言って そのイデアの観念体系が どれほどの意味を持つかは 何とも分からない。決められない。或る人たちは それをきっかけとして 現実の哲学・思想を具体的に構築して行けるのだと言うかも知れないからである。


 §3
 ▲(p.55) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 5.2 神の存在証明の分類。

 存在証明は原理的には・・・幾種類も存在し得るが,ヘーゲルは,カントと同じく,2種類に大別する。

 第一種は「存在から神の思想,即ち,より詳しく言えば,規定されだ存在から神の存在たる真実存在」へと至る証明であり,
 第二種のものは「神の思想,即自的真理からこの真理の存在へ至る」証明である。
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 ☆ 《第一種》が ふつうの神学である。《第二種》は 基本的には ヒラメキのことである。ヒラメキ=インスピレーションを何とか言葉にして表わそうとしたその内容を言う。

 §3−1
 じっさいの作業では 両種が交ざっているかも知れない。そして 重ねて言えば これは言うところの存在証明ではなくて すでに想定したものについての――やはり実際に信仰をとおしての――説明になるものと考えられる。《無い神》についての信仰をも含むから けっきょく一般に哲学として 神学の体裁のもとにおこなわれるものと考えられる。

 §3−2
 ▲(p.55) 即ち,第一種の証明を有限的存在から神的概念の存在への移行,第二種の証明を概念からその概念の存在への移行と規定すれば,これらの移行はそれだけでは「一面性」を免れず,概念の全体を表現することはできない。真の証明は2種の証明の統一にある。
 ☆ と批評している。わたしの推論は 《すでに初めに想定がなされているのだから 両種の〈証明〉は けっきょく互いに入り組んで来るものと思われる》である。

 §3−3
 ▲ (p.56) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ・・・神の存在の道徳的証明に関して,ヘーゲルは,カントと同じく,この証明は神の存在を論証するのではなく,単に要請するものであるとする。

 即ち,善そのものは自己を実現する力はないから,世界の究極目的を実現するために第三者が要求される。何故なら,善を行う人間は有限であり,人間自身の自然的傾向により左右されるからである。従って神の存在の要請は「主観的確実性」を伴うが,この確実性(確信)は主観的であるに留まり,単なる「信仰や当為」に過ぎないのである。この証明もの「主観的証明」の中に含まれよう。
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 ☆ 《要請》が出て来ている。これはおそらく《証明》が要請するのではなく すでに初めに経験世界から非経験の場を要請してしまっているのだと考えられる。そのあと 《存在証明》という名の神についての説明が展開される。
 すなわち
 ▲ 即ち,善そのものは自己を実現する力はないから,世界の究極目的を実現するために第三者が要求される。
 ☆ という作業がすでに初めに行なわれていて それが《非経験の場》の想定となって持たれていると。

 神学も とうぜんのごとく 主観的な説明の域を出ない。

 §4
 その《第一種:神学》と《第二種:ヒラメキの読み解き》とに分類されけっきょくは統合されるべき――ここでは――三つの存在証明 すなわち《宇宙論的証明・自然神学的証明・存在論的証明》の具体的な吟味は もう必要ではないと考えられる。いづれも大きく《神についての・または神をわが心にその名として受け容れた信仰における神についての 主観的説明》 ここにすべて収められることになる。

 証明できたからどうの できないからこうのといった問題は生じないという意味である。
 想定とそして 受け容れとしての信仰 ここが出発点となっており その動態におさまったかたちでヒラメキも神学も 経験され表現されて行く。

 
 * 《想定》とは 想定する以前にじんるいが《神》という言葉を持っているという単純な事態のことである。そういう言語のナラワシの追認が 想定である。