caguirofie

哲学いろいろ

#20

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

5a 日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(つづき)

まづ初めに この節では 実存としての 生産・政治・実存の三領域が 法・非法・不法の三行為として捉えられ それらが 三位一体であるというとき それらは――日本における情況としても―― キリスト信仰の神格および人格の三位一体論に立って 仮説していることを述べなければならない。
 いわゆるキリスト教のことだが この三位一体論とは アウグスティヌスによれば 父なる神と子なる神と聖霊なる神の三位一体であり 言いかえれば 神と イエスと 聖霊とであるが それらが それぞれ 〔行為あるいは世界として〕 不法と 法と 非法とであるというのが ここでのこれまでの仮説である。その概念的な構成である。
アウグスティヌスの文章に少し触れておこう。

 《外なる人》の三一性( trinitas )は 先づ外側で見られるものにおいて つまり 《見られる物体》《そこから見る人の眼ざしに刻印されるかたち》そして《この両者を結合する意志の注視力》にあらわれた。・・・
 次に 精神の力そのものにおいて 外側から知覚されたものから いわば導入されたものとして他の三一性が見出された・・・。そこでは三つが同じ一つの実体に属しているように見えた。
 この三つとは 《記憶の中にある物体の似像(にすがた)》《そこから思惟する人の眼ざしがそれに向けられるとき刻印されたもの》そして《この両者を結合する意志の注視力》である。
アウグスティヌス:三位一体論 中沢宣夫訳 pp.427−428)


 神なる三位一体( Trinitas )は 私たちの精神の三一性において私が示した三つのものによって 御父は三つ全体の いわば《記憶》であり 御子は三つ全体の いわば《知解》であり 聖霊は三つ全体の いわば《愛》である とあたかも父は御自身のために知解し 愛さないで 子が父のために知解し 聖霊が父のために愛し 父だけが御自身と子と聖霊のために 想起(* 記憶)するかのように さらにあたかも子は御自身のために想起し 愛さないで 子のために父が想起し 聖霊が愛し 子だけが御自身と父と聖霊のために知解するかのように またあたかも聖霊は御自身のために想起し知解せず 父が聖霊のために想起し子が知解し 聖霊だけが御自身と父と子のために愛するかのように理解すべきではない。むしろ 三つのペルソナ全体と各ペルソナがその本性において この三つのものを持っているというように理解すべきである。
(同上 p.463)

三位一体は つまり特にその構造は たとえば以上に拠って理解されるべきであるが 不法・法・非法の三位一体を あえて この文章での概念の中において捉えるとすれば それは《〈外なる人〉の三一性》 もしくは 従って 《〔有限なる〕世界》の三位一体であると言うことができる。概念の構成として さらにそれぞれの領域をも 対応させて あえて把握するとすれば ここで 《不法》は 精神の《記憶》(想起とも言い直しているように 記憶行為ととるとよい)であり 《法》は 精神の《知解》(知解行為であり 知解行為能力である)であり 《非法》は 精神の《愛》(もちろん 愛の行為能力であり 能力行為である)である。

  • ただし 《これら三つの行為領域(ペルソナ)全体と各行為領域がその本性において それぞれ この三つのもの(記憶・知解・愛)を持っているという方向に理解すべきである》というのが 神学の分野における認識である。なお《愛》は 意志のことである。

いま やや乱暴に図式的に解釈するなら 社会的な視点に立って 《記憶》は 実存としての実存 ないし政治(まつりごと)の核であり 《知解》は 実存としての生産もしくは労働行為一般であり 《愛》は 実存としての経営・政治および感性の世界である。
また 記憶は 《不法》行為として 《不在》であり 知解は 《法》の世界として 質料関係(またその関係への関係のあり方)である。愛は 《不在なもの》と 《質料の世界》とを結ぶやはり《実存としての政治行為》である。(政治というとき つねに 共同自治というのが 中立的な概念であろう)。
ただし 三位一体論が たとえば以上のように 質料(ヒュレー)と形相(イデア)との相互関係を仮りに正しく捉えていたとしても それは 行為以前 いや 一般に 認識以前の原理(はじめ)に属す。信仰の領域に属す。またそうである以外にない。アウグスティヌスに拠ることは 三位一体論を離れることでなければならない。純粋社会学として 三位一体論を原理(はじめ)に持つ事はアウグスティヌス揚棄することでなければならない。(念のために言うが それは 《必要として離れる》ということでなければならない)。
アウグスティヌス揚棄したのは カール・マルクスであった。ただし カール・マルクスは 西欧人であった。そして 日本の社会は アウグスティヌスを持たなかった。マルクスの出る必要はなかった。
日本においては アマテラスの家系を称する者のアマテラス(その不文の神学)に拠る種としての三位一体論が 述べられた。インド 中国の思想=不法行為の成果をも取り容れて 末法に際しては アマテラス神学が揚棄された。そのことの経緯については すでに見たとおりである。この節では一つの論点としてアマテラス〔とそれによる揚棄およびその揚棄論〕以前が 問題である。日本の社会は おそらく アマテラス〔とスサノヲの関係による体制〕以前にも存在していたはづであり もしそうだとするならば 現代にもその情況が受け継がれていないとも限らず しかも それ以後〔特に 現代における特徴としての〕日本が受け容れた・もしくは 日本がそれによって包まれた西欧社会の系譜との関係において その系譜とアマテラス以前と以後とが それぞれ交錯する情況が 問題となるだろうと考えるのである。仮りにこの前提に立てば。――
たとえば 西欧の系譜の一つの起源である《創世記 Genesis 》を問題にするなら 問題というのは アマテラス以前と この創世記との 概念上の関連がである。何故なら ごく単純に Genesis とは 本来の意味で 従って少なくとも西欧の系譜にとって《類 genos 〔としての生産行為〕の起源》だとの認識に立つものだからである。この概念の世界と アマテラス以前〔および 従って それ以後〕とが いかに関連すると見るかは この純粋社会学において 見過ごすべき事柄でないと思われるからである。
もっとも このGenesis は イエスによって揚棄されている。つまり イエスによる神の揚棄によれば たとえば説としての天地創造であるとか あるいは 種族としてのカインであるとかは 個体の中へ(または 個体の中で)揚棄されるのであった。ただしそれだからこそ また その限りで西欧の系譜にとっては このイエスによって揚棄された《 Genesis 類の起源》は 種の相違にかかわらず 成り立つとされるのであって 従って それは 非《聖書》圏の民族にとっても いわば無条件に その起源もしくは原理(はじめ)とされることになるからである。《キリスト教は 勝義の宗教である》(マルクス)。
また このイエスによって揚棄された《起源・ゲネシス》の概念に立って ふたたび たとえばプロテスタンティスムやマルクスを捉え返しておくならば。――まづ 前者プロテスタンティスムは 揚棄されたところの《 Genesis 》〔たとえば〔人類は みな兄弟!!》〕によってまさに類として包まれた個人が 自己のうちに神(それによるえらび=予定)をもって 特に 何ごとにも優先して 《法》の世界の労働・生産に励むという・あたかも 《法》の世界での成功が そのまま《選び・選ばれ(エリート)》を表わすかのごとくなる様式において ごく大雑把に捉え返すことができる。

  • そもそも 選ばれているかどうか 言いかえれば日本語としては 浄土に生まれるかどうかは 分からず 知り得ないままである。また それでよいとしたかたちである。

またそのとき この行為様式は そのまま親鸞イスムによる《アマテラス》の普遍一般化(かつ世俗大衆化)に相当すると言えるだろう。つまりいづれも 《世界》との和解を求める《不法》行為を 自己によるはからいとしては 放棄するという《不法》行為に拠って立っていると考えられてよいからである。――また 後者マルクスを同じく捉え返すとすれば かれは イエスないしプロテスタンティスムというふうに経過した《 Genesis 》の系譜が さらに行き着いた先である(ないし いわばその概念的な完成である〕ヘーゲルを批判する。その《法の哲学》を批判し つまり 実は そのようにヘーゲルにまで至るその《不法》行為形式を批判し 従って この批判の拠りどころとしてのかれのその新しい《不法》行為形式は やはり その視点に立って 新たなかたちで《法》の領域――経済の世界――において実現し展開されるべきことを説いたのであった。それは どういう内容かと言うと 端的に言って それは プロテスタンティスムによって あたかも《普遍一般化・世俗大衆化されたアマテラスとしてのスサノヲ》こそが――つまり そのようなプロレタリアにしろ いわゆる市民一般にしろが―― それまでの種としての国家形態・経済社会制度じたいをも 自らが作り直すのであると見たのであった。
その意味で このマルクスの新しい《不法》行為形式は いわばアマテラスを内に採り容れたスサノヲの反乱である。また一般化したアマテラスの中のスサノヲのスサノヲによる復活である。この復活による反乱 という生産行為 これを継続することこそが そのときそのときの 《世界》との和解=新しい《不法》行為でもあると。――このような《旧約》から《質料主義者》に至る一連の〔しかも 非連続の〕《政治行為》の書き替えの系譜は 《類 genos / Genesis 》が 《類》として存在する限りにおいては 日本の情況における アマテラス以前にも以後にも 実存の一筋として通底していると考えるべきであるとまづ言わなければならない。
(つづく→2008-05-12 - caguirofie080512)