caguirofie

哲学いろいろ

#29

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

9a 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その六)

さて この節で ひととおりの結論とします。
ここでは 前節を承けて 実存行為としての 私的所有の揚棄 もしくは 《不法》行為アマテラス(およびスサノヲを含む)の私人性の廃絶を 論じることになる。そしてそれを ここでは 次のような角度から論じたいと考える。すなわち その論点が 《アマテラス》つまりたとえば《国家》に対する ヘーゲルおよびマルクスのそれぞれの観点の相違を扱う。その角度からである。あるいはそれは そこにおける両者のその同じ系譜の中の対立点もしくは その後者による前者の書き替え こういった内容が 日本において どのように反映されているのか これである。

  • なお 同じくこの節は 第六ないし第七節から論じてきた 日本における《法》の世界の特徴として 《第一点》として 性関係・《非法》の世界をとおしてそれをながめて見たとき その法の世界・実存としての狭義の生産行為は 《アジア的》・停滞的でしかも実存的実存 的であるという点。そして《第二点》は 一般に 《ひとりはみな 生産行為への別れにむかってみづからを演出する / おのれ自身をせりふにして》と言うことができるが そのとき 《海にぼろぼろの台本が / 散って塩を吸ってゐるやうな 秋の日》と言われるように いやむしろ その狭義の生産行為への《演出》には《台本》はないのであるという点。これら二点についても 扱いたいと思う。


さて 二つの文章の引用から始めよう。

 《M》
 へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。
 民主制と他のすべての国家形態との間柄は キリスト教の他のすべての宗教との間柄のようなものである。
 キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。同様に 民主制はあらゆる国家体制の本質であり 社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり それと他の国家体制との間柄は 類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし 民主制においては類がそれ自身 実存するものとして現われる。
マルクス:『ヘーゲル国法論批判』)

 《H》
 国家は 実体的意志の現実性であり この現実性を 国家的普遍性にまで高められた特殊的自己意識のうちにもっているから 即自かつ対自的に(* 絶対的に)理性的なものである。この実態的一体性は絶対不動の自己目的であって この目的において自由はその最高の権利を得るが 他方 この究極目的も個々人に対して最高の権利をもつから 個々人の最高の義務は国家の成員であることである。
ヘーゲル:『法の哲学』第三章 国家 §258)

この二つの文章による《国家》に対するそれぞれの観点は 基本的には互いに矛盾なく しかも 前者《M》は 後者《H》に対して新たに書き込みをおこなっている。まづそのように考えられる。
ここで両者の文章において 《国家》とあるところを たとえば 《不法(不法行為)》もしくは 《アマテラス》という語と入れ替えて読むとすれば どうであろうか。またそのとき 《M》の文章においては 《宗教》の語は それもひとつの《不法》行為領域であり 従ってそう読み替え さらに 《人間》とあるところを 《法(法の世界)》もしくは《スサノヲ》という語と入れ替えて読むことができるであろう。
そこで 次に《H》の文章を その読み替えとともに読み進んでいきたい。まづ第一文

 国家は 実体的意志の現実性であり・・・

ここで 《〔実体的〕意志》とは 《国家》=《不法》と 《市民社会》=《法》の世界とを互いに結ぶ《非法(非法の領域)》である。たとえば 不法アマテラスと法スサノヲとを結ぶ《ウケヒ(誓ヒ)》という政治・経営・愛の行為である。あるいは それに対して 自然法の系譜では あの《社会契約》という行為が考えられている。

  • ただし この社会契約という考えは ヘーゲルはそれを退けている(『法の哲学』§75 §258など)が 単に 《法》の世界における《契約》という法の概念を 《非法》の世界へと類推したかたちであろうと考えられる。
  • 古事記ではそうではなく この《〔社会〕契約》以前の人間の集まり・関係というものを とことんまで疑い ゆるさない・そして時には殺意をも排さない地点である《ウケヒ》の概念において 捉えた。それは 自然法の系譜が この《契約》以前を たとえば 《万人が万人に対して狼である》状態と捉えるのと対照することができる。またその対応する要素も見られると考えられる。

さて 《国家は 実体的意志の現実性である。》は したがって ここで

 アマテラスは 非法としての政治(もしくは 《ウケヒ》)の現実性である。

となるだろう。(もちろんいまは ヘーゲルの文章の立ち場に立ってである)。さらにこれを噛み砕けば

 不法行為は 非法の世界の現実性である。

つまり

 不法行為は 法の世界と不法行為とを結ぶところの非法行為の 現実性である。

という一つの命題となるだろう。したがって ヘーゲルによれば 《この実体的一体性(* 三位一体)は 絶対不動の自己目的であって・・・》と述べられてゆくのであるが この命題がいわば再獲得されたところで 今度は マルクスの文章《M》に戻ってみよう。かれは この命題からさらに一歩先に進むかたちで その文章を述べているが それは たとえばその第一文において 次のように読み替えてうかがうことができる。

 ヘーゲルは アマテラスから出発して スサノヲを 主体化されたアマテラスたらしめるが 民主制は スサノヲから出発して アマテラスを 客体化されたスサノヲたらしめる。

と。すなわち 《実存としての 私的所有の揚棄》 もしくは 《アマテラスおよびスサノヲの私人性の廃絶》とは たとえば ここに読み替えた新たな命題のうちに もっともよく基本的に表わされていると見ることができる。

  • 大雑把な契機としては 親鸞イスムも この命題を 遠くは離れない。
  • 先ほどの社会契約を説く自然法の系譜は ここでは このような《国民が体制を創る》という側面で 同じくこの命題を共有すると思われる。つまり 《体制が国民を創るのではなく》 《主体化されたアマテラスたらしめられたスサノヲ》 または 《客体化されたスサノヲたらしめられたアマテラス》という《国民 このような国民が――三権分立・議会制民主政等の――体制を創る》という点において。


それでは さらに内に入って 《アマテラスから出発して スサノヲを 主体化されたアマテラスたらしめる》とは どういうことか。《スサノヲから出発して アマテラスを 客体化されたスサノヲたらしめる》とは 何か。またそれらが 何故 《実存としての私的所有の揚棄》となるのか。――すなわち 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存 に関するここでの一つの結論として それらは どういうことなのか。
(つづく→2008-05-21 - caguirofie080521)