caguirofie

哲学いろいろ

#28

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

8b 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その五)

しかし ここで最後にいま一度 《物神性の世界》における《倒錯した意識による人間の行為の連関》を指摘した平田論文を 続いて追ってみておく必要がある。以下少し立ち入って長い引用となるが それは ここで 質料主義の立ち場について じっくりと捉えることが必要であると思われるからである。以下 倒錯した意識 もしくは 逆立関係 ないし 逆立の逆立の関係について。――

 このような世界の概念的把握(ベグライフェン)は 本来 日常的表象の批判であるほかない。表象のうちにとどまるかぎり 物神性という倒錯した世界は人目にみえない。私的諸個人は自分自身が 抽象の支配としての物の支配の世界をつくりだしているのであるが このような世界を このようなものと自覚することは 日常的にはないのである。


 しかし この 通例には目にみえないことの世界に ひとは全く気がつかないわけではない。この世界の隠れたる神の存在を あるいは隠れた神の支配領域としてのこの世界の存在を 垣間見ることがある。自分の愛する人を喪ったとき あるいは 自分の生を喪いつつあるとき あるいは人生の努力目標が挫折したとき等々 そのようなとき ひとはそれ以前の人生が何に無意識にしばられ支配されてきたかを痛感する。・・・しかしこのような偶然事のよる物神性の発見は ほとんどすべての場合 瞥見におわる。商品の生産・交換という行為を離れて ひとは生活しえないからである。ひとは一瞬でも生活している。そのかぎり日常性のなかにある。日常の生きるということは みづからこの物神性の世界をつくりだし しかも それをそれと気づかず そこに埋没することである。ある瞬間 ある場所での発見は この日常生活のなかでいつしか消える
 しかしながら この発見を消させない 巨大な時間と広大な空間がある。何か。それは歴史である。
 歴史 そこには おのれが現在生きている社会とは異なる社会がある。異なる形態の社会がある。異なる形態の生活がある。異なる形態の生産がある。この遥かなる過去の形態と眼前にある現在の形態との比較は 現代社会の形態の特殊性を ひとに自覚させる。自覚させてやまない。この自覚こそ 社会的人間にふさわしい自己意識 すなわち 社会的自己意識である。それはまた 現代の根底において歴史の重みを知る人間の自己意識 すなわち歴史意識である。・・・
(平田清明:経済学と歴史認識

法の世界から不法の世界が 瞥見されるとして しかも その発見はいつしか消えるとして まづ逆立関係とその逆立 つまり 否定の否定について 序論ふうに触れている。そこで続いて こうである。

 この社会=歴史意識は 日常生活に生きる私的個人の自己意識に対して 根底的な懐疑と批判を突きだす。日常生活の《通弁》たる市民経済学者の諸概念・諸範疇に対する不信と攻撃を喚びおこす。そして自他にむかって 物神性の世界に奪われない人間の生活とことばを要求する。
 この まさに人間的なる要求を 論理的に整序し その実現への道標をきずくためには 何が最初に必要であるか。
 市民経済学の諸範疇を抹殺することであろうか。そうではない。その存在をまづ確認し その妥当性を問うことである。・・・
(同上 pp.309−311)

と述べられてゆく。そこで その辿り着く先として ひとつの結論は 中間の論述を端折って引くならば たとえば次のようである。

 この不断に 統一的人格性〔*つまり 《物神性の世界に奪われない人間の生活とことば〕を獲得しようとする人間的欲望〔*つまり 《本質》としての である〕は その実現を客観的に妨げている諸条件 つまり私的所有としての社会的分業〔*という《仮象》〕が 揚棄されることによってのみ はじめて実現する。これまで類体における個体〔*つまり スサノヲないし《法》〕としての現実性(ヰ゛ルクリッヒカイト)を私人性〔*つまり 一つの《不法》。したがって アマテラスの・しかもここでは同時にスサノヲとしてのもの(=私人性)〕のうちに犠牲にすることによって ひとは 抽象的な協同本質(ゲマインヱ゛ーゼン)すなわち人間性を獲得してきたのであるが この人間性を 私的所有の揚棄すなわち私人性の廃絶によって 現実性(ヰ゛ルクリッヒカイト)として獲得していくこと これが マルクスのコミュニスムである。
 * 《抽象的な協同本質(ゲマインヱ゛ーゼン)すなわち人間性》とは 抽象的・概念的な しかも《本質》としてのアマテラスのことであろう。
(同上 p.356)

ここで 否定の否定 逆立の逆立によって 《法》が本来の《法》に帰り 現実性を獲得するという実存行為の形式が 質料主義に立って示されたことになる。――ただ このとき 《仮象》の否定 《不法》に対する逆・逆立によって 《仮象》の世界そのものが 廃絶されるのではないことは すでに述べてきたとおりである。
《不法》行為領域との関連においてのみ《法》の世界の現実性の獲得が成されうるとしていたとおりである。つまり 抽象的なアマテラスは スサノヲの再復活とともに 現実的なアマテラスとして 再獲得されるべきものであって そのアマテラスそのものが廃絶されるのではない。
それでは この《私的所有の揚棄》もしくは アマテラスおよびスサノヲの《私人性の廃絶》とは 何か。何でなければならないか。これが 純粋社会学の最後の問いである。

  • なお 平田論文を長々と引用してのマルクスへの言及は マルクスが ヘーゲルの・従ってと言うべくイエスの政治行為もしくは不法行為を受け継ぐものであること つまりは 広くその思想的系譜を受け継ぐものだということを 重ねて示したかったからである。

最終節に入る。

(つづく→2008-05-20 - caguirofie080520)