caguirofie

哲学いろいろ

#27

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

8a 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その五)

これまでの論述においては こう言ってきた。
マルクスの《不法》行為は ヘーゲルの《法の哲学》という不法行為を批判してそれを書き替えた。つまり 《法》の世界の 国家というものの中の余分なまたは封建的な不法行為からの解放 および その市民社会としての新たな自律・確立を説いた。《国民経済学》という《法》の世界の認識を批判して 先の書き替えられた不法行為によって 全体としてさらに 新しい自律と完結を求めるものであった。特にその《法》の世界の批判的認識は 類型的に 広く普遍的なものとなった。――ただし 日本においては 不法行為の批判(書き込み)・書き替えの側面は そこでプロテストすべき初めの不法行為原理が 必ずしも明示的でないだけに ほとんど無縁であると考えられたのだった。
その意味でこの不法行為の つまり思想としての 日本的原理が 今度は逆に どれだけ 類型的に普遍性があるのかも 大雑把に検討が加えられるというかたちを採ってきた。そしてさらに おそらく これらの一連の論述は 全体として まづ 実存としての生産行為の三領域すなわち 法・非法・不法の三行為領域が原理(はじめ)として 三位一体であるという基礎に立っていた。立たざるを得ないことである。


さて ここでは 資本家的市民社会の行為様式への新たな視点が 問題となる。《物神性の世界》というように アマテラスの物神化 言いかえれば 不法行為領域に属すアマテラスが 法行為領域へと転位したかに見える世界についてである。一言で 《法》と《不法》との逆・逆立の関係にかんしてである。
まづはじめに そもそも《不法》行為の領域が 《法》の世界に対して 逆立する関係にあるとは どういうことか。この点までさかのぼって論じることにしよう。その上で その逆立の逆立とは どういうことか。たとえば ヘーゲルの《法の哲学》から《逆立関係》に関する概念を拾ってみよう。

 即時的な法 普遍的な意志は 特殊的な意志によって本質的に規定されているものとして ある非本質的なものへの関係のうちにある。それは本質がその現象にたいする関係である。現象は本質に適合しているとしても 別の面から見ると こんどは適合していない。なぜなら 現象は偶然性の段階であり 非本質的なものへの関係のうちにある本質だからである。
ところが現象はつづいて進行して不法のかたちで仮象となる。仮象は 本質に不適合な現存在であり 本質が空(くう)なるしかたで引き離され定立されてあることである。したがって 本質と仮象とのどちらにおいても区別はたんなる差違としてある。それゆえ仮象は それだけで つまり対自的に存在しようと欲すると 消えてしまうような非真なるものであって この消失において本質はおのれを本質として つまり仮象の真の力として示した。本質はおのれの否定を否定したのであり それゆえ 裏づけられ強められたものなのである。不法はそのような一つの仮象であって これの消失を通じて法は一つの堅固で妥当するものという規定を得る。
 われわれがたったいま本質と呼んだものは 特殊的意志がそれにたいして非真なるものとして揚棄されるところの 即自的な法である。これはさきにはただ直接的な存在をもっていたにすぎなかったが いまやそれは おのれの否定からおのれに帰ることによって 現実的となる。なぜなら 現実性( Wirklichkeit )とは はたらく( wirken )もの しかもおのれの他在のなかでおのれを保つものだからであって これにたいして他方 直接的なものはまだ否定を受けやすいのである。
ヘーゲル:『法の哲学』藤野渉・赤澤正敏訳 第三章・《不法》 §82〔追加〕)

《本質》が《法》であり それは 《現象》として 《非本質的なもの》との相互補完関係にある。《現象》が 《本質》から離れてそれに不適合な現存在として定立されると それは 《仮象》である。《仮象》は 《本質》から すでに引き離されて 定立されたのだが しかしそれは それのみでは 《空なる / 非真なるもの》であって やはり《本質》と 新たな段階において相互補完関係にある。この本質と仮象とのこの新たな関係は 仮象が 本質に不適合な現存在であるかぎりにおいて それは 本質の否定であり 法という本質に対して 不法であり そのようにして 逆立関係にある。
そこで 本質は 《おのれの否定〔である仮象〕を否定》する。《本質はおのれを本質として つまり仮象の真の力として示す》。つまり 不法に対する 法の 逆・逆立の関係である。そこでヘーゲルによれば 法または本質は そのように《おのれの否定〔である不法または仮象〕からおのれに帰ることによって 現実的となる》と言う。
ただ ここで 一点 微妙な問題として見ておかねばならないことは このような仮象としての不法は ヘーゲルにおいては 大雑把に言って 《無邪気な不法 ないし 市民的不法》あるいは《詐欺 / 犯罪》などとしての不法だということである。それは 《したがって 本質の仮象〔そのもの〕がおのれを自立的なものとして定立する》と言われるたぐいの不法 もしくは いわゆる違法に属す。すでにこの小論では 《不法》行為は 国家・法律あるいは芸術によって 代表させていたのであり 上のような《仮象そのものの自立》は むしろ実存を保ち得ない場合としての不法 もしくはやはり違法行為として規定していた。
従って 概念としての《不法》行為領域は 実存としての実存の核であり もしくは広義の生産行為の拠ってきたるべき根源とでも言うべき地点であった。その意味では 本質の否定としての不法と 法に逆立する実存の領域としての不法とは 微妙に異なると言わなければならない。しかしここでは それらを一括して《不法》の領域としたことに まちがいはなかったとも まづ言わなければならない。なぜならまづ 単純に 《法》に対しては いづれ仮象であり しかもそれが 個体的にそうであることにおいて 実存としての社会的諸関係に力点をおいた意味での《非法》とは区別されるからである。言いかえれば いづれも 《非法》とは違って 《法》との関係において 法を否定する・もしくは 法に逆立するかたちで成立する領域であるから。

  • 実存としての実存・その核は 仮象として 法の世界からの逆否定によって そのつど 消失するべき領域ではある。《不法》としての神は 《法》としてのその子なる神の出現によって 消える。消えて 存在する。《不法》としてのアマテラスは 《法》としてのスサノヲ(もしくは スサノヲ=アマテラスなる一般化したかたち)の復活によって 消える。しかし 消えて存在する。

そのとき 問題は 不法と法との両世界の関係において 《法がおのれの否定である不法〔の部分〕からおのれに帰ることによって 現実的となる》という行為――つまり スサノヲの復活であるが―― これが 広く成立するとすれば いかなるものなのか。つまりそれは 《不法》行為の内の 詐欺や犯罪という実存形式から(と言っても それは そうなると 実存の否定になっているのだが その実存形式から) 罰(つまり否定の否定である)を受けることによって おのれに帰るというものだけに過ぎないのかどうか。
言いかえれば そのとき具体的にここでの問題は 《物神性の世界》のそれであり 一言でいって 《商品物神》は 《法》であるのか もしくは すでに《不法》として定立されているのかである。またもし 《不法》として法の世界を否定するものとしてあるのだとしたら その《不法》の否定すなわち 逆・逆立の関係は いかにして成され得るかである。
前節で見たおうに たとえばもし《先立つものは金(かね)だ!》ということになるとしたら それ(商品物神)は 倒錯した意識であるかぎりにおいて あくまで《不法》として定立されていると見なければならない。すでに そのような思想としてである。――先には それについて 不法のアマテラスが 法の世界に降りて入ってしまって《商品物神》と化したと言ったが この場合は そうではなく たとえてみれば 法のスサノヲが 不法の世界に昇って入っていって アマテラスに変身する。もしくはアマテラスと合体する 合体してそこで《商品物神》へと変身する。ということになる。それでは もし この法の否定である不法としての商品物神を否定することが 法に帰るという現実性の獲得行為であるとするなら そのような否定の否定は いかにして成し得るのであろうか。
その答え もしくは この問いの仮定そのものに対する批評としては ある意味で すでに述べてきたとこではある。(第7節)。
しかし ここで最後にいま一度 《物神性の世界》における《倒錯した意識による人間の行為の連関》を指摘した平田論文を 続いて追ってみておく必要がある。以下少し立ち入って長い引用となるが それは ここで 質料主義の立ち場について じっくりと捉えることが必要であると思われるからである。以下 倒錯した意識 もしくは 逆立関係 ないし 逆立の逆立の関係について。――
(つづく→2008-05-19 - caguirofie080519)