caguirofie

哲学いろいろ

#26

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

7c 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その四)

さて 前掲の文章では まづ《言語(ロゴス)はそれ自体 言語活動(タート)であって 社会的行為そのものである》との命題が打ち出されている。

  • なお この命題は 小著《時間的なるもの》において 論じ得たとおりである。すなわち 《言語》は 言葉でありしかも行動であり まとめて《生産行為》であるところの《世界》全体の次元に対応するものであろうと。

そしてこの文章では 《物神性の世界》に相い対する一実存行為として――それは 資本家的市民としての旧い側面として―― 一つの言語活動 もしくは 《そのような言語をもって運動する抽象的意識》があると説かれている。つまり そこでは 人は 《法》の世界の《物神》に相い対して 《固有にうまれる意識》を持つという。それは 旧い側面として 《人間と商品との関係をつねに逆にうつしだす》と言っている。
しかし ここで 《このような倒錯した意識による人間の行為の連関》は むしろ 少なくとも 政治行為を次々と書き替え 揚棄してきた西欧においては 《”宿命?の》というよりは 実は初めにそう望んでいた《必然事》であったということを すでに指摘し その点 いくらかを述べてきたのであった。この点について さらにいま 別のかたちで述べなおしながら その《言語活動》としての新しい側面へと論じ進んでいこうと考える。新しい側面を提起したい。
ふたたび振り返って。まづ 西欧の系譜においては 政治行為が揚棄されて 《神》が《ゆるし》という政治行為を 実存行為として為すことは 《非法》の行為・愛であり経営・政治であった。そこでは しかし 実存としての実存は 《不法》行為・核としての《政治》として たとえば《アマテラス》が 君臨しているはづであった。しかし そこでは 実存としての狭義の生産行為 すなわち 《法》の領域が あたかもすべての領域に優先して貫徹するかたちが採られるに到った。そこで 君臨していたアマテラスは 不要とされた。いや その固有の領域である《不法》の世界から 《法》の領域へ降りてきて(あるいは 降ろされ) その《法》じたいへと化身し一般化され そして棄てられた。
そのアマテラスの権化としての《法》じたいとは 言うまでもなく 《商品物神》であり 一面では もともと《法》の世界にあるスサノヲの神格化である。――すなわち この《物神性の世界》が成立し そのものとして世界が完結するとされる限りで それは 法と不法の両世界が《倒錯した・・・人間の行為の連関》とならざるを得ないのであった。それは 法・非法そして不法の三位一体の連動が――法と不法とは もともと 逆立して連動していたのであるが―― 法と不法とにおいて 逆立を逆立させるのであった。
さて われわれは――と 純粋社会学の主語を ここで 想定するならば〔つまり何故ならば 純粋社会学においては 単に 社会科学もしくは不法行為としての主体を想定することはせず また 逆に 単に 文学的・実存的もしくは 或る意味で 虚構という不法行為の世界の主体を描くことからも 離れるとするならば いやいや というよりは それらの領域のそれぞれの《主体》の立ち場を 包含するかたちで そうするならば〕 われわれは―― そこで この法と不法との逆・逆立の関係つまり順立の関係に対して 新たな言語行為の一歩が踏み出されるのを すでに見たように たとえばマルクスにおいて見るのであったが このマルクスの意図は つまりその一歩は この倒錯を 元のしかるべき逆立へと戻そうとするところにあったはづである。

  • 日本においても その意味では アマテラスのしかるべき位置への復活を 欲するべきであろう。ただし さらにその以前の位置は また別であろう。国家以前では別であろう。

言いかえれば 西欧において いわゆる資本家的市民社会において 商品物神という《法》が その法を書き替えすべき主体としての《不法》行為ないし思想というものに対して ここでは 逆に君臨してしまったということになる。もしそうだとして マルクスはこの倒錯した君臨(その形態は むしろ 実際は《非法》の世界を通じておこなわれるその君臨)を 元に戻すべきであると見た。ただし 問題は このとき 西欧においては 一般に 歴史の揺れは・つまり書き替えられるべき現象は 元に戻るというよりは そのまま回転して革められ 新しい不法‐法‐非法の三角関係を創出するという流儀が支配的であったことを想起しなければならない。つまり従って このときも おそらくこの逆立の逆立という歴史の流れも 新しい書き替えによって 何らかのかたちで揺れ切って新しい世界が作り出されると見るのが とりあえず順当であろう。
しかし 法と不法との逆立の逆立つまり 書き替えられるべき対象世界が 書き換えすべき主体を 規定しているという関係 これに対しては どのようなその揺れ切った新たな事態を描くことができるであろう。素朴なかたちで言って われわれは どんな新たな実存行為形式を そこに描くことができるであろうか。――何故なら 《生活〔つまり《法》〕が 意識〔このばあい《非法》〕を規定するのであって 意識が生活を規定するのではない》ことは そのとおりであるが 実存つまり《不法》が 生活という《法》に対して 規定するとは言わないまでも もともと 逆立して 相互に均衡していると見るべきであったからである。逆立の逆立を 単なる逆立関係に戻すための 政治行為の書き替えとは 実際には いかなるものであるのだろうか。いかなる実存行為形式だろうか。
これはまた 西欧の行為様式を類型的にしろ受け容れた日本の社会の問題でもあると思われる。このあたりで 節を改めよう。この節では アマテラス‐スサノヲ連関なる構造の《世界》観による西欧市民社会の捉え返し および 近代市民社会においては アマテラスが 《商品物神》化したという点 つまり そこでは 不法アマテラスが 法スサノヲの世界と逆・逆立するという点 をながめた。この新たな変貌をとげたかのような構造を受けて さらに次の局面へと移ろう。

(つづく→2008-05-18 - caguirofie080518)