caguirofie

哲学いろいろ

#25

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

7b 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その四)

 商品の物神性とは何かについて・・・さしあたってまづ つぎの二点・・・。
 言うまでもないことだが 商品の物神性は商品世界の物神性である。この物神性の世界を特徴づけるものは 物の支配と抽象の支配である。

  • ここからは アマテラスを内化したスサノヲたちの・《法》の世界における独自の法による生産行為関係が展開されるということと 抽象的・観念的な象徴としてのアマテラスが存在するということ とである。

 ここでは 物たる商品が社会的に意義あるものであるがゆえに それをつくりだす労働もまた意義あるものとされる。物が商品として社会的な有用物であると同時に社会的な価値物であるがゆえに それをつくりだした労働は それ自体として私的労働でありながら 他人の社会的欲望をみたすという意義を有するものであり 同時にまた 社会的支配力をその人に得させることによって 彼自身の社会的地位を実証するという意義を有するものである。
 また 商品の生産と交換に生きる私的所有者は たえず物を商品として交換に出して 他の商品と関係させ それらを価値という抽象的力能の一面において比較しあい 価値の量的関係という抽象の世界をつくりあげる。言いかえれば 多様な使用価値をつねに捨象する。抽象が普遍的なもの 全なるものとなる。この普遍的な抽象はつねに物の姿をとってあらわれ 物の支配として貫徹する。このことは 物神性の世界の最も顕著な特徴である。
 このような抽象を 私的諸個人が交換において直接に 生産において媒介的に 行為事実的=客観的に遂行すること これは 同時に そのような抽象を意識のうちで遂行することでもある。そこに 抽象を特徴とする固有な言語が うみだされる。この言語(ロゴス)とはそれ自体 言語活動(タート)であって 社会的行為そのものである。そのような言語を持って運動する抽象的意識が そこには固有にうまれている。固有にというのは その場合の意識が 人間と商品との関係をつねに逆にうつしだすということである。(ある人の男っぷりがよいのは その人の生まれつきのことであるはづなのに それは彼のもっている財産のおかげだと思われ 彼に学問があるのは彼の財産のおかげなのに 生まれつき頭がいいからだと というような倒錯が市民的人間の日常の意識となる。先立つものは金(かね)だ!)
 このような倒錯した意識による人間の行為の連関 それが物神性の世界における《宿命》の必然事である。
(平田清明:経済学と歴史認識 pp.308−309)

いやそれは 《〈宿命〉の必然事》ではない。とまづ言わねばならない。少なくとも 西欧では 人びとが 新しい政治行為として 実存として そう願いそう欲してきた《世界》の 特に《法》の世界を中心にした一面であるにすぎない。というようにである。また 《必然事である》とするこの文章の言外の意味も そうであるはづである。
さて このような文章――《純粋社会学》と通底すべき認識である――について賛否ともども述べるべき事柄は いくつかあるが まづその中でもっとも大きな問題は つぎの点であると考える。――この段階では アマテラスが揚棄されて 復活したスサノヲが 抽象化したアマテラスによる社会的完結のもとで 自由に(つまり 《法》の世界のその法にできるかぎり従って) 生産を行為する情況にあって その限りでの議論であるのだが このとき ただし 一般に《スサノヲの生産行為・自由主義( laissez-faire, laissez-passer )》は 日本におけるそれと西欧におけるそれとは 微妙に異なって展開されると言わなければならない。この点が 第一に指摘したい重要な点である。
もっとも この点も 特別あたらしい事実ではない。何故なら スサノヲの自由主義は すでに述べたように 日本においては 象徴としてのアマテラスに拠るかたちで その自由な生産行為の展開が 種としての完結を保たれる範囲内でおこなわれたのに反して 西欧においては その自由主義(本来の レッセ・フェール レッセ・パッセ)は もちろん 近代ブルジョア自然法的な自由生産(勤労)=資本論であり そこでは 広義の生産行為・《世界》全体の完結を 究極的にも この《法》の世界を土台にして 成就すべきであると説かれたという事実 であるから。

しかも 労働(つまり=《召命》)が 私的労働(つまり 《召命》の思想による《和解》行為の放棄 という私人性の基づく労働)でありながら 社会的に有用な労働であり また 商品が 単に有用であるだけではなく そのことと同時に 社会的な価値として存在するという 以上のような 《法》の世界を土台とした《世界》の完結もしくは自律 これは むしろ 初めに 望まれたそのものであったという事実である。したがってその新しい揚棄の立ち場も生まれてくるのであるが。
ここで《私的労働》というとき それは《召命》の思想による《和解》行為の放棄 という私人性のもとづくと考えたが この privé = private という《私人性》の意味は 個人一人ひとりによって《神》が《収奪された priv´ 》ということであり そのことは 裏返せば 実際には かれが その意志として 《神》に《収奪される être privé 》ことを欲したということである。かくて 一人ひとりが 《私人 un être privé = a private vitizen 》である。
親鸞イスムがここから遠くはなく しかも独自の観点を有していることも 見逃すべきではない。親鸞イスムが そこから離れる独自の点は 弥陀に《収奪》されようだされまいが 《収奪》されて 地獄へ落ちようが落ちまいが 構わぬ。弥陀の誓願は それ以上のものである。ということを積極的にその不法行為形式とする点である。
やや横道にそれたが この段階では そこで アマテラスは 無用とされた。否 《労働・生産行為》じたいの中に あるいは その生産物の《商品としての流通》じたいの中に まとめて資本家的市民の生産行為様式そのものの中に そのアマテラスの霊気が すべて注入されたのである。アマテラスは いわゆるここでの《社会的諸関係の総和》と化した。と信じられた。その大きな一つの側面が 商品物神であり 貨幣物神であり 資本物神である。それらは 西欧市民社会における アマテラスの権化である。従ってそこでは キャピタリスト・ブルジョア capitalisite bourgeois という復活したスサノヲが 勇躍する。なぜなら ここ西欧市民社会では――そのひとつの抽象として―― 町民= bourgeois の一人ひとりが スサノヲ=アマテラスなる存在であり かれは 労働と資本につなげる私人= capitalste であり しかも そのとき 揚棄されたほうの抽象的・観念的アマテラスは 物のかたちを取り=つまり《法》の世界へと降りて来て 《商品》の中に物神として 権現となって現われているのであるという実存・生産行為形式が考えられるのであるから それはまさに 資本家的市民たちの社会となる ゆえである。
このとき 日本の情況は異なる。それは 一言で言って 揚棄された抽象的・観念的なアマテラスが 象徴として存続し この《象徴》が《不法》行為を表わす限りにおいて 《不法》領域に留まる限りにおいて 不法と 法(=つまり商品物神としてのアマテラス)および非法が 互いに連動しているという―― 一個体内の――実存・生産行為形式を 抽象できるゆえに である。

  • おそらく 《天皇制》は このような 三行為領域の相互連動関係の中に したがって 質料関係や心理関係および実存関係の中に その位置を占めているものと思われる。若し《天皇制》を批判するならば 西欧の系譜に拠るかたちでではなく むしろ 《アマテラス‐スサノヲ体制》以前に日本の社会固有の情況ないし《世界》を見出すことから始めなければならないであろう。
  • なお アマテラス‐スサノヲの敵対‐均衡の関係構造なる世界が すでに《商品》を持ちながら しかも 《物神崇拝》からは基本的に免れていたのは 《政治行為》中心という 無神=無思想の情況があったからである。つまり先に掲げた命題としての 《台本》の不在でる。《秋日》の詩をも併せ読まれよ。――そこに 近年 思想というものが生まれたかに見える情況も発生したのである。つまり 近年の情況では アマテラスは 資本という物神と 天皇という《人間》とに分身したと考えられないでもない。増殖か? いや 物神のほうは むしろ スサノヲじしんの神格化であろうか?――この点は 後に詳しく述べたいが 法の世界と 不法の世界とのいわば相互浸透といった事態であるように思われる。

まづ 《世界》を 法の世界を基にして 《物神性の世界》として見るということは――日本の情況は いま少し保留して―― 以上のようであると考える。次は これまで述べてきた初めの第二点の 第二局面として このような《法》の世界の分析から 一歩 批判の歩むを進める段階である。それは まだほんの一歩ではあるのだが 先の平田の引用文の後半に見られるような行為について見ることから始められるだろう。
(つづく→2008-05-17 - caguirofie080517)