caguirofie

哲学いろいろ

#24

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

7a 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その四)

ここは 一つには 性関係なる《非法》行為をとおして見た生産行為が 《停滞的でしかも実存的》であるという側面について 考察する。そして もう一つには 前節の最後に触れた点 つまり 生産行為を《台本》もしくは《不法》行為形式つまり思想をとおして捉えるという側面 これをも受け継ぐ。
先に第二点から入っていこう。結論から先に述べるなら 日本の情況においては むしろ《台本》たるべき《不法》行為形式すなわち思想が 存在しないのが その要点である。
この第二点の要点は――実は 最終的には 第一点の《停滞的で 実存的》という側面と合わせて―― ここに節を改めたように 説としても 例証としても むつかしく それには一つの構造的に巨きな理論を立てることを必要とするもののように思われる。それは もちろんまづは これまでの立論を基にした論述であるほかないのだが それらを綜合的にまとめるという意味でも 重要な点を含み しかも 能うかぎりていねいに その構造を提示しなければならないと思われる。以上の点に留意して 以下(最終節まで)総括的な議論を行なう。


さて 《不法》行為形式もしくは 思想の問題をとおしての議論であるが ここでは まづ先ほど 詩人が次のように捉えた点から入っていこう。つまり

 樹皮を漏る脂はかをる
 浴室の孤独なタイルはひややか
 すべてこともなげな春の日
 この世はまだまだ青く
 暮しの隅で
 ふくらみはじめる欲望の
 なまぐさい芽と意志のひかり

 こおのいきものの哀しみを
 ・・・
 (太字にしたのは 引用者) 

と捉えた先ほどの 《欲望の / なまぐさい芽と意志のひかり》の世界(――あるいは それらは 二つの世界であるかも知れない――)から入ってゆく。これは 単純には 法と非法との世界でそれぞれあったが 社会学の言葉を用いれば たとえば 次のような文脈において捉えられる。(いささか唐突であるかも知れないけれど)。

 われわれはここで 《商品の使用価値としての生成》は何を必要条件としているかを反省し ついで 《その交換価値としての実現》の条件が何であるかを検討していこう。
 前者については すでにわれわれは知っている。《相互に自己が充足の対象であるような特殊な欲望に遭遇する》ことが それである。使用価値としての生成を 《富の内容》の実現としてだけ考察する場合は この欲望主体たる人格の購買力能(* 一般にその前提としては 《生産行為》力能)は ひとまづ 捨象される。しかし 自明のことながら それは使用価値としての商品の生成なのであるから 購買力能(* つま 意志)をともなった欲望との出あいが必要である。・・・
 (平田清明:《経済学と歴史認識》p.278. 最初から二つ目までの句に《 》をつけたのは 引用者)

詩の中に捉えられた行為世界が 即時的に 明かされているわけではないが その世界の情況を まづは基本的に解きほぐしてくれている文章であると思う。つまり 《法》の世界が 質料を《商品》として生産するとき その最狭義の生産行為は 交通過程を通じて 具体的・有用的な労働と抽象的・人間的労働とに分別されることは すでに少し触れたところである。その同じことは 《商品》としての質料関係が 《使用価値としての生成》と《その交換価値としての実現》とに それぞれ対応して 分別されることになる。――まづは基礎的な前提として こうであろう。
そしてこの世界に大して 《欲望の / なまぐさい芽と意志のひかり》のそれぞれ および 両者(その《出あい》)を捉えること そのことを想起すること これらが重要であると考え こう指摘して 議論に入ろう。
まづそもそも 《法》の世界は 神の法とその揚棄が――つねに質料関係において つまり 要するに 生活において――展開される領域であり それに比して《非法》の世界は むしろ 人と人との素朴単純な・および怪奇きわまる複雑なつながりという 感性の領域であり また その愛つまり経営行為の領域であったが そのことを再確認しながら 今度は 次の文章をくぐり抜けよう。

 この《商品》形態のもつ神秘性の根拠と特質・・・。
 ・・・《二〇カエレのリンネルは 一枚の上衣の価値がある・・・》という。この日常語における《価値》は 商品が交換において他商品を獲得・支配する力を意味している。・・・この獲得・支配力としての価値は 交換という人間の外面的行為において発現する力であるから 本来 外的な支配力であるが 商品の生産と交換に生きる人間にとってはつまり私的個人にとっては この支配力がおのれの生活と生産の不可避な媒介者であるから 彼の内面生活にその作用をおよぼし。この価値という支配力は その対象物が無差別であり その対象範囲は無限なものであるにもかかわらず それはつねに一定量としてしか存在しないがゆえに その本性は無限の量的増大という運動のうちにだけ定在するものである。
 このゆえに私的個人の内面には これへの渇望と畏怖が不可避に発生する。この畏怖と渇望が価値をして 私的個人にとっての神的存在たらしめる。
 価値にはこの意味での神的な性格がそなわっている。価格のもつ神秘性とは この価値の神性に内的根拠をもっている。価格の神秘性は 価値の神性の対象的表現であり しかもこの対象そのものの神性としての表現である。言いかえれば 価値が対象としての物の自然的属性であるかのように見える。したがってまた この物が その本来の自然的属性以上の力を つまり超自然的な力を有するかのように見える。このような物が 《商品物神》である。
 (平田清明:前掲書 pp.306−307)

《商品》の世界 すなわち《商品》を生産(・交通・消費)する世界は もとより 《法》の世界である。そして ここにおける《商品物神》という指摘は 端的に言って 現実に歴史的に《〔カインの〕神》が揚棄されたその姿である。つまりそれは もはや《カイン以前》の未開社会におけるような物神崇拝 Fetischismus ではなく 物神 Fetisch ではあるものの 神またその揚棄の系譜であり 神の《法》の第 n 次的形態そのものである。イエスという子なる神じたいが またこの神じたいによって そのように揚棄したのである。
プロテスタンティスムじたいが 《世界》をそのようにアウフヘーベンしたのである。マルクスは この指摘〔まで〕においては 現実を確認したにすぎない。現実の《法》の世界を ヘーゲルの《法哲学》の批判をとおして 確認したに過ぎない。すなわち 物神性の世界を持つ資本家的市民 bourgeois capitaliste の生産行為様式の確認である。

  • もちろん その批判は続くのであるが この点 重ねて強調しておくなら 《商品物神》が 封建的な政治行為に代わって 《世界》に支配的な位置を占めるということは 不本意であるにせよ むしろ 近代市民プロテスタントが 自らの実存・生産行為行為様式としてそう願った結果なのである。またその限りで 近代は 封建制のもとにおけるよりも 自由な《世界》なのである。

そこで 日本的類型において 以上の点を捉えるなら〔――日本の情況は 《法》の世界を つまりこの議論においては 《物神性の世界》を それのみとして それ独自として 捉えることには 馴染まないところがあると考えられるが したがって それは 政治行為もしくは《非法》の世界をとおして触れることになるのだが / さらにつまり その点 逆に 西欧の尺度によれば まだ封建的だということになるのだが――〕
一言でいって 《商品》の世界を中心とした《世界》は すでに見てもいたように アマテラス(その政治的行為)の普遍一般化・世俗大衆化であり そこにおけるスサノヲ(その生産行為)の復活ということになる。つまり ここにおいては 《政治行為》の高さが 初めに 物神崇拝から かれらを免れさせ しかも 生産行為においては すでに揚棄された物神としての・しかも政治行為と連動したかたちでの《商品》なるものを そこに存在させていたと言える。それには たとえば スサノヲの生産行為の確立が ヤマタのヲロチの退治によって――つまりこの場合 《非法》でも《不法》でもなく そうではなく 《無法》的名政治行為者かも知れないようなヲロチの退治によって―― 上の意味での《商品》生産者であること(つまり《生産行為》力能)の証明に拠らなければ成り得なかったことを思うべきである。
つまり スサノヲのもとにおいては 《商品》でありながら 必ずしも《商品物神》ではなく 従って 質料としての《商品》は つねに 《非法》の世界・政治行為と何らかのかたちでつながり 互いに連動するというものでなければ成り得なかったのである。

  • ここに 《アジア的》・停滞的で しかも 実存的な実存 なる側面を見てもよいと思う。

また このことはすなわち アマテラスとスサノヲのあいだには すでにその時――いい意味でも悪い意味でも――いわゆる資本家的市民の生産および政治の行為様式が 成立していたと言うことができる。それは たとえば

 樹皮を漏る脂はかをる
 浴室の孤独なタイルはひややか
 すべてこともなげな春の日

の世界を映している。そこから見透されるべき世界を映している。一言で繰り返して言うならば 法の世界と非法の契機とが つねに事の真の意味で連動する世界といういうことになるが ただし これに対しては 十全なな真の批判は つづく。すなわち さらに今度は 次の社会学的認識をくぐり抜ける必要を持つ。

(つづく→2008-05-16 - caguirofie080516)