caguirofie

哲学いろいろ

#18

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

4a 日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存

日本の種としての社会においては カインもノアもないと述べた。そこでは もちろん神もなく しかもある意味で カインとアベルの世界を容れて 種として完結していたと見たのであった。
しかも カインとその追放の問題が せいぜいスサノヲの問題までにとどまって 起こらないのは その種としての完結によるのであり――法・非法および不法の曰く言い難い三位一体のごとき完結性によるのであり―― その完結は アマテラス(大御神という無神)の例に示されるように 一つに大きく 《生産》としての政治行為を中心として 実存として 営まれることによっていた。――少なくとも この情況模型においては 《あとの者が先になり 先の者があとになる》という時間的な発進と揚棄も あいまいなかたちで むしろ初めに成立していたと見られる。

  • ただし このような種としての時間の十全な流れと 個々の実存が無矛盾であるかどうかとは 同じくあいまいさを残すであろう。

いづれにしても このような種としての一つの完結した単位社会においては 狭義の生産・《法》の世界は 法則的ではない。言いかえれば 《自然(自然法)》を 対象化する必要がないほど 自然的である。生産は 自然に 営まれる。カインも ノアも いない。
いまスサノヲの物語の中の《五穀の起源》という挿話を思い浮かべることができる。すなわち そこでは 生産物は 降って湧いたように現われ 実が成るからである。その物語は 挿話でしかないほどなのである。

  • しかし かと言って たとえば《人はパンのみにて生くるものにあらず・・・》の考え方に傾き過ぎるというように 《法》の世界・質料関係を軽視する立ち場を取るわけでは無論ない。言うまでもなく 《法》の世界は 法則的ではないが 非法・不法の領域と連動しながら 重要である。

 〔スサノヲは〕 また食物(をしもの)をオホゲツヒメのカミ(* =食物を掌る女神)に乞ひき。ここにオホゲツヒメ 鼻口また尻より 種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出して 種種作り具(そな)へて進(たてまつ)る時に ハヤスサノヲのミコト その態(しわざ)を立ち伺ひて 穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るとおもひて すなわちそのオホゲツヒメのカミを殺しき。
 故(かれ) 殺さえしカミの身に生(な)れる物は 頭(かしら)に蚕(かひこ)生り 二つの目に稲種(いなだね)生り 二つの耳に粟生り 鼻に小豆(あづき)生り 陰(ほと)に麦生り 尻に大豆(まめ)生りき。故ここにカミムスヒの御祖(みおや)のミコト これを取らしめて 種と成しき。
古事記・上)

もちろん 自然に降って湧いたと言っても 人間的労働すなわち《法》の世界の実存行為としての契機を 無視するわけではない毛頭ない。これに対して 聖書が描く天地創造については――それが 神の意思によるという意味で 単なる自然の力に対して 人間の意志による労働が 強調されていると見ることもできるが―― もはや触れるまい。


このように法則的ではない生産・《法》の世界であるが それを 三行為領域の全体から たとえば ブッダの法による《世界》という概念をも受け容れたときには その種(日本という一単位体)としての完結が 何らかのかたちで危機に陥るとすれば それは 法にしたがって 末法と捉えられる。《〔法の〕世〔界〕も末》と。――この実存としての《法》の世界の危機は 一つには 天変地異によるものであろう。また一つには 人為的〔でありうる限りでの〕法(=経済的な仕組み)によるであろう。後者は ただ生産の世界のみというのではなく 当然おおきく 政治の不法世界の意図がはたらき それが 非法・情感の世界をとおして それらが混然一体となって 生産の世界の仕組み(法)が 危機に陥ると考えられるものである。
ただしここで問題は この社会的危機において そこに 《カイン》がいるわけではなく また 弾劾されるべき《ノア》がいるのでもない。言いかえれば 《法》の世界の危機・矛盾は 西欧の社会におけるように 個体の内なるそして揚棄すべき対象としてのカインであるとかノアであるとかを 社会的な意識の前面へ押し出すことはしないのである。それは 何故なら もともとカインもノアも現われる余地がなかったとされるからである。その代わり 《アマテラス‐スサノヲ》連関構造においては 政治行為を中心として 何ものかが カインとされノアとさせられる側面が ないわけではない。
ただしまた このカインやノアが 《法》の世界から生まれた純然たる法的な生産行為者というのでもない。一面では 資本家的市民ノア=カインの行為様式を――いわばアマテラスに始まるかたちで――採っており しかも 純然とした物象関係としてのノア的な資本蓄積や収奪ではないのである。
一言でいって ここにおいては 法の世界は 必ずしも法則的でなく――仮りに法則的であるならば しかも その法則を明確に対象化して その認識において実践するのではなく―― また そのようにして法の世界のみによって動くことはむつかしい。自然法によるごとく 資本家的市民や その揚棄として描く像 またその行為様式が 歴史的に・また弁証法的に 形成され 発展するという筋は 必ずしも見出されがたい。
ただ 資本家的市民の行為様式に近い実存形式が 日本においても 現われるという点は すでに述べていた。それは 近くは 親鸞イスムによるそれであり 遠くは アマテラスによる政治行為が 一面において まさに 初めに 資本家的市民の行為様式を採っていると見られるというものであった。生産と所有をノア的に つまり 神仏に一途に拠ることによって 私的に 蓄積し 固持するという様式である。この点について つづけよう。重要である。
この問題は 一言でいえば 種としての完結が 類としては破綻するという点に結び着いているかのような情況だからである。
(つづく→2008-05-10 - caguirofie080510)