caguirofie

哲学いろいろ

#23

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

6b 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その三)

たとえば その第一には この狭義の生産行為における実存を 性関係の問題(=《非法》の世界)を通して見てみることができる。
おそらく アダムとエワの子が カインとアベルという男の兄弟であって この両人は共存が叶わず 社会的には両者共倒れ またその後の第三子セツが もうかれ一人しかおらず しかもまた 男であったということ。それに対しては イザナキとイザナミの子は 第二子のツクヨミ(女性)は別にしても アマテラスとスサノヲという姉と弟という二角関係であったということ。以上のことがらは 社会学的にも 必ずしも見過ごしていい問題ではないようである。ただここでは そのような意味での性関係じたいが 問題なのでもない。
おそらくここから 生産行為(広狭二義)においても その敵対‐均衡関係が 概念的に アマテラス‐スサノヲの姉弟関係において捉えられているであろうことは 重要であると思われる。
セツの裔のノア そのノアの遠い子孫であるイエスによって そしておそらく同じく子孫としてと言ってもよいマルクスによって ノアの内なる神が 順次 新しく書き替えられたという西欧の歴史に対して 姉が弟によって もしくは弟が姉によって そこへの書き込み・書き替えのたぐいは 成され〔る必要が〕なかったことは 対蹠的であり 重要であるだろう。その点で 日本におこえる生産行為は きわめて 《アジア的》・停滞的であり いかも反面で 高度に 実存的実存 的である。
この点に関して このあたりで 詩を一編 挿入したいと考えるが たとえば次の詩では 上記の両者の側面(停滞的で かつ 実存的)が うまく歌われているのではないだろうか。

   四季の木霊           大岡信


   春 日


 植物保護区の四月
 上気するハナミヅキの群落
 ブダウはまだ
 酒石酸の抱擁を知らず
 くろつちに淫淫の
 歌はふくらむ
 祖先があをうまを放った
 天山雪中の草は
 あの世の影と宙にひらめき
 女は無上のシンメトリーと心臓をもつこの世ならぬ庭つくり師の
 琺瑯びきのスフィンクス
 鼻あたりで霞んでゐる


 樹皮を洩る脂はかをる
 浴室の孤独なタイルはひややか
 すべてこともなげな春の日
 この世はまだまだ青く
 暮しの隅で
 ふくらみはじめる欲望の
 なまぐさい芽と意志のひかり
 このいきものの哀しみを
 あめつちへ捧げるために
 男はうめき
 女は吟じ
 壁は息をつめ
 ことばは墓をたてる春の日

《・・・欲望の / なまぐさい芽と意志のひかり とを想起すべきである。
 《欲望》が 人間的自然→社会的自然への《法》の世界を貫くいい意味でも悪い意味でも一つの主体的要素であり 《意志》とは とうぜん 経営する主体の《非法》の領域である。その《なまぐさい芽と・・・ひかり》を想起すべきである。《女》――アマテラス?――が 《くちよせに耳うばはれ / ・・・スフィンクスの / 鼻のあたりで霞んでゐ》ようと 《ことば》がたとえ《墓をたて》ようと あとは構わない。
《停滞的で実存的》という相反する両契機を伴なった側面については さらに続けて 論点とするはづであるが いまはここでひとまづ 保留として。――この 性関係の問題をとおして見た狭義の生産行為における実存という第一の点に関しては さらにこの大岡信の《四季の木霊》の次の《夏日》の章も 同じく別の観点から語っているようである。合わせて掲げておこう。

   夏 日


 ある種の樹は
 深いうちふところをもつ
 こんもりふくれた葉むらのあひだに 
 湖水のやうな夜をだいて
 うづくまってゐる

 
 快活な従者
 跳ねる犬が
 その樹の茂みにふらふらと吸ひこまれてゆき
 いくら呼んでも出てこないときは
 だまってさきへ すすまねばならぬ


 犬はあそこで
 こころゆくまで飲んでゐるのだ
 木霊のこたへに似た
 ふしぎな清涼飲料水
 透明な夜を

いささか感性に寄り 従って 《非法》の世界をうたっている。しかも《法》の世界〔への還帰〕を想い浮かばせてくれるもののように思われる。
もっとも このような鑑賞をつづける場所ではない。そこで 第一の 性関係をとおしてながめる点では 保留のことがらをも残して 次に 第二の点に移っていきたい。それは ふたたび・みたび 《不法》行為ないし思想との関連における 狭義の生産・《法》行為である。
まづ 鑑賞をつづけるわけではなく 詩の引用から始める。

    秋  日


 ひとはみな別れにむかってみづからを演出する
 おのれ自身をせりふにして


 昼は暗さをあつめてゐる 孤燈


 海にぼろぼろの台本が
 散って塩を吸ってゐるやうな 秋の日

ここで 《別れ》とは むしろ《生産》への別れである。《法》の世界への参画である。《台本》には 《不法》行為形式が任(あた)る。――と考えられる。そこで この第二点は――先ほどの第一点の保留事項とともに―― 節を改めることにしょう。
(つづく→2008-05-15 - caguirofie080515)