caguirofie

哲学いろいろ

#30

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

9b 現代日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(その六)

ふたたび ここで これまでの論述の一つの系譜をたどってみよう。
それは まづ カインとその裔に対する復讐は 神によって――神がカインを追放し しるしをつけたことによって―― 揚棄されたと考えられる。イエスによっては 犯罪=不法行為に対する報復は 《七たびを七十倍するまで許す》というかたち つまりそうとすれば愛によって 揚棄された。《復讐するは我れにあり》と聖書で 神が言っているようにである。
次に 《法》の世界じたいに つまり 法の客観的な流れと仕組みじたいに 《不法》の領域が 侵入するという事態。もしくは その反対の事態。これらの事態に われわれは立ち向かう。つまり このような事態によって生起しうる報復感があるとすれば それは 従って 一般に社会じたいに対する違和感というものに変貌してゆく。それは つまり 市民スサノヲの世界に侵入した アマテラスの資本家部分=私人=収奪者性 に対する報復(――それはもちろん 個人的なものではなく 歴史過程的に 収奪=否定 の否定 という意味である――)であり これは 代表としてのマルクス(その言語行為)を通じて 市民(市民社会)=それとして被収奪者としてのスサノヲによって行なわれていくものである。
ただし この事態については より複雑が形態が見られるのであり それは 次のようである。つまり 市民スサノヲじたいの中に 広く アマテラスの資本家的市民の行為様式が 入り込み そのことによって 今度は それがさらにアマテラスの領域じたいも この行為様式に沿った《不法》行為を体することを余儀なくされる。言いかえれば 法と不法の両世界の 本来の逆立の関係は 一般に 生産行為様式が相互に滲透することによって その双方の領域じたいが 相互侵入するかたちを採る。といった重層性の形態であった。
そして この系譜をここで受け継ぐなら まづ もし 個人的な 収奪への報復が揚棄されたとするなら そこでは ある程度の部分 一人ひとりが結合したかたちのアマテラス=スサノヲとなった市民の相互のよる相互への違和感が 現われざるを得ない。

  • 《物象的依存に媒介された人格的非依存関係》

あるいは 異和(報復)が 否定の否定であるならば それは 自己の中の私人・収奪者=否定者の部分 これへの否定である。つまり 自己否定というかたちを採らざるを得なくなる。しかし 一方で 法・不法の両世界の関係は 本来(――ということは おそらく もしそうとすれば原始共産制を除いて 有史以来――) 法=本質が 不法=仮象の下に立つという逆立関係において成り立っていた。そこにおいて 自己否定というものがあったとするなら その段階では それはそのまま 不法行為による法領域の自己に対するその固有の否定行為 つまり 逆立関係そのもの であったのだが この新たな社会的事態においては 自己否定をするとしたなら それは 法の領域の自己において 法の他の部分領域の自己を否定することになる。言いかえれば 法の領域ないし 同じ一つの狭義の生産行為じたいの中で 自己のスサノヲが 自己のアマテラスに反逆を起こすことになる。これは 端的に言って逆立の逆立である。《倒錯した意識による人間の行為の連関》を余儀なくされるとは ある面でこのことである。
言いかえれば 《商品》が 従って 生産行為(=労働)が 具体的で《法》的なスサノヲであるとともに 抽象的で《不法》的なアマテラスでもあることによって その自己の主観内的反逆は ある意味で 不可避である。しかし それに対しては ここでは ただ一点 すでに触れたその箇所でも そのような《倒錯した意識による人間の行為の連関》は 《宿命の必然事で》はないと述べていた。その点は 重要であると考える。そしてこのことが この《序説》の最終的結論であるとしたい点なのである。
そこで その具体的な内容の結論を先に述べれば すでに先ほど触れていたように 《宿命ではない》というそのために 実存の行為として ヘーゲルないしマルクスの命題を扱った。つまり 第一に 《アマテラスから出発して アマテラスを客体化されたスサノヲたらしめる》ことが それぞれともに 枢要であるということになるだろう。そこで改めてそれは その大雑把な像を描くことによって この小論を閉じたいと考える。
まづ 基本的な前提としては すでに 《法》の世界の類型的にしろの普遍一般化によってアマテラス=スサノヲなる個人の像を具現化した市民は ある程度まで 一般的であると考えられる。ふつうに人は 政治にも参加している。そして 次に このような《スサノヲの復活およびアマテラスの普遍化》という市民の行為形式は 実に 一般に そう願いその欲せられた事柄であるからというのが 第一の理由である。《倒錯》が《宿命ではない》という理由の第一である。このことが 現代という歴史的課題と共有するかぎりで 西欧においても日本においても 広く世界史的であるという点を いま一度 確認しておいてよいと思う。
第二に――したがって この第一の点に立脚することによって アマテラスが揚棄されスサノヲが揚棄されたのであるから 今度は さらに その段階で 両者の一体となった形態を再揚棄すべきであるとの視点に立つなら―― たとえば 《物神性の世界》が 次のような構造において認識されることによって 自己の内なるスサノヲの自己の内なる物神アマテラスへの反逆が 揚棄される道を 模索することが可能であろうというのが その根拠である。
この第二の立脚点は 要約して言いかえれば まづ 実存としての言語行為において 《アマテラス》による逆立関係を堅持することと そして 《スサノヲ》の独立によるかれの復権を勝ち得ることである。
それは たとえば まづ アマテラスの権化としての《物神》に主体的に仕えることに始まるであろう。次には 独立したスサノヲとして アマテラス自身に主体的に仕えることが それに続くであろう。何故なら 卑近な例として 《ある人の気前がよい》のは 《法》の世界から言って 生まれつき(血縁という類の問題として)であるかも知れないし もしくは 単に 財産のおかげであるかも知れないし またその一部としては かれの実存としての生産行為形式がそうさせるものであるかも知れないのであり あるいは 《不法》の世界から言って 単に義理から行なっているに過ぎないということは十分考えられるし もしくは その気前よくしたい相手に対する何らかのかたちの愛であるということもあるだろうし

  • つまり これらの場合は ともに《非法》の世界をとおしてということになろうが。つまり 《義理》や《つきあい》も 愛のそれぞれのかたちであり 《非法》の世界である。また 何らかの政治的地位にある者がそれを行なえば それは 経営・政治行為である。

といった事情のもとにあるわけであり さらにまた 《かれに学問がある》のは 《法》の世界から言って 上の例とやはりそれぞれ同じであろうし 《不法》の世界から言って それは 何らかの報復のかたちであるかも知れないし もしくは それ(報復)は揚棄されたものとして いろんな様式での・またさまざまな人に対するやはり愛のかたちから来るものであるかも知れない。こう言うことができる。
したがって ここにおいて選び取る道があるとするなら それは たとえば《社会的諸関係の総和》といった《類的な実存》の道であるよりは むしろ みづからの《欲望の / なまぐさい芽〔および〕意志のひかり》が出会うべきその一点において進むということであるかも知れないのである。平田は 前掲書で 《〔資本家的私的所有の〕一点突破》(p.156)という言葉を用いているが そしてその平田の認識とは違う意味でになるが 以上のような基礎的認識に立って ここではわれわれは むしろ 文学の立ち場を擁護したいと考える。

 ・・・〔商品の〕使用価値としての生成を 《富の内容》の実現としてだけ考察する場合は

  • つまり 《法》の世界のみの・単に市民である・あたかも植民地としてのスサノヲの場合は

この欲望主体たる人格の購買力能は ひとまづ捨象される。しかし・・・それは使用価値としての商品の生成なのであるから 購買能力をともなった欲望との出あいが必要である。・・・
(第三章 §7に引用)

《購買能力を伴なった欲望との出あい》は すでに《意志と欲望との出あい》として規定していたが さらに言いかえるなら それは《購買そして使用行為への意志の形式――それを 行為水路と言ってもよいが―― これへの欲望の導き》を意味しているはづである。そしてここにまた 《一点突破》の基点があるように思われるのである。
つまりそれに対して いわゆる資本家的市民社会においては 一たん捨象された《欲望主体たる人格(スサノヲ)の購買力能》は 《交換価値》という抽象的にして一般的等価(というさらに普遍一般的で世俗大衆化されたアマテラス概念)としての商品の実現においてこそ また この実現においてのみ 復活して 《商品》としての完結し統一されるとなるはづである。ここでは スサノヲも そして アマテラスも ともにそれぞれ揚棄されていながら しかも 相互に 種としての完結は 抽象的な循環的な・言いかえれば あいまいで回りくどい形態を取っている。取らざるを得なくなっている。
従ってここに アマテラスおよびスサノヲの両者の再揚棄が 掲げられたのであるが それについて 特に文学的・実存的な立ち場に立っての 《純粋社会学》としの結論は 先に述べたように次の二点にあると言わなければならない。すなわち それは 《先立つもの・物神》に主体的に仕えることとして 不法行為の《アマテラス》による逆立連動関係の再建と堅持であった。また 植民地性ないし私人性から独立した《スサノヲ》と成ることとして この逆立連動関係のそこに拠って生まれ来るものの注視である。こう述べることも ゆるされるであろう。
最後に一言のべるなら 歴史を注視することによってもたらされる《人間の自己意識》 この社会的自己意識が 根底的に突き出す《懐疑と批判》 おそらく これらとは 純粋社会学は 無縁である。それは 逆である。《不法》対《法》の逆立連動関係において生まれるスサノヲの一編の愛のかたち これを注視していること この《非法》の世界が 純粋社会学の求めてやまない領域である。
(本論のおわり。付録につづく→2008-05-22 - caguirofie080522)