caguirofie

哲学いろいろ

#21

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

5b 日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存(つづき)

《創世記 Genesis 》=《類としての生産行為の起源》の普遍性(カトリシスム)に立つならば 純粋社会額の基礎理論のさらに基礎として まづ 以上のように考えられるでしょう。
以下は 仮説の仮説です。
日本の《末法期》における広い意味でのプロテスタンティスムには 類型的に言って 西欧のプロテスタンティスムの不法行為形式は もちろんまた その裏にあたるとも言うべきマルクス不法行為形式も じつは 同時に 契機として 内包されていると考える。その点について若干触れておきたい。
それは――後者マルクスの思想の点が ここでは問題なのであるが―― たとえば《プロレタリア》という《法》の世界の実存形式もしくは単純に 労働・生産行為者 の概念をめぐって論じ分けることができると考える。すなわち言いかえれば それは 《プロレタリア》としての労働実存形式と 日本の本来の《スサノヲ》としての《法》の世界の実存行為形式との微妙な差異の問題でもある。それは どういうことか。
まづプロレタリアは 単なる《法》の世界における《労働者》ではない。それは端的に言って 《類としての〔従って 広義の〕生産行為〔を具現する〕者》としての実存・労働行為形式を指して言っているからである。その点 プロレタリアとは その実存行為形式において 少なくとも種として〔社会的に〕は完結している者という概念である。これを 日本にあてはめれば それは 種としての完結を見るかぎりにおいて 単に生産行為者スサノヲであるというのでなく 政治行為者アマテラスをもその中に概念としては 持っていなくてはならない。従って それは 上に述べたように単なるスサノヲの反乱には終わらない。それは アマテラスじたいの再生をも目指しているのであり 論理的には言わば 言われているように《アマテラス‐スサノヲ》体制じたいの書き替え ここにまで及ぶものである。
さてそこで 日本の《末法期》に現われた新しい《不法》行為を説くプロテスタンティスムが 別の形ではあるが このマルクスの《プロレタリア》による《不法》行為形式をも むしろ 含んでいると見るべきだという点について。
まづ《スサノヲ》は その初発の行為形式において 極点に言えば 単なる《法》行為者であり 《アマテラス》は 単なる《非法》政治行為者である。それは 両者とも 何らかの《不法》行為形式に立って そういうかたちである。そして両者は 双方相互の関係において 種としての完結を見るものであった。そこで ここでは親鸞にのみ見ようとする末法の何人かのプロテスタントたちは それぞれの《不法》行為のいづれもによって すでに述べたように アマテラスの普遍一般化および その意味での一体としての《アマテラス=スサノヲ》となった上でのスサノヲの復活を説くことになっている。ただしまた このスサノヲ=アマテラスの行為形式が そのまま 上に見た《プロレタリア》の概念にあてはまるものではない。スサノヲは 具体的には一揆などを起こし もしくはおおきく 武将として 政治・経営行為者ともなって その《反乱》を企てるのであるが そこには さらにもう一つの構造として抽象的・観念的な存在として残った新たなアマテラスが やはり《政治行為》者として 種としての完結に与かっているのであった。またこの構造は――もしくは プロレタリア概念の立ち場に立つかぎりでは この限界は―― スサノヲの正当な反乱を示した《明治維新》に際しても あるいは スサノヲの正当なる反乱が期待された《太平洋戦争の敗北》に際しても そのまま残った。
けれども それにも増して ここでは 親鸞イスム〔に乱暴にも代表させた不法行為形式〕の中に  《プロレタリアート‐イスム》をも 日本的に 内包していると言ったが それは どういうことか。
たとえばそれは 次のような実存行為形式としての構造において見るときである。日本の情況と 西欧の系譜とを対照させてみるとき それぞれ一つひとつは概念として対応しないのであるが そのそれぞれの両者の対応関係は まさに 類型的に同一であると思われるそのような一対の対応関係が作り成す構造においてである。すなわち 日本における親鸞イスムとアマテラス‐イスムとの対応関係を取り出せば それは 西欧におけるプロレタリアーティスムとプロテスタンティスムとの対応関係に 互いに対応するという構造である。(この場合 プロテスタンティスムに カトリシスムを含めてもよい)。この構造は もはや一般に 日本における一個人の中にそのまま見られるものであり それは たとえば所謂る政治行為者なる《アマテラス》に対しては つねに親鸞イスムに拠って 生産行為者なる《スサノヲ》の側に立って それを揚棄しようとする。《プロテスタントもしくは資本家的市民(の実存行為形式)》に対しては プロレタリア=スサノヲ‐イスムに立って つねに それを揚棄しようとする。あるいは逆に プロレタリアーティスムによる構造もしくは体制の書き替えに対しては たとえばカトリシスムとしてのアマテラス=スサノヲ‐イスム(つまりこの場合 その政治行為主義)に立って その全面的な書き替えという手形に対する裏書きは むしろ 拒もうとする。つまり 親鸞イスムによるアマテラスの普遍一般化は それを通じて スサノヲの放逸と反乱を起こした反面で また スサノヲのスサノヲとしての復活を伴なっていると考えられるのである。それは たとえば《士農工商》すべてであり 特にはその《商》ないし生産なる《法》行為を通じての復活となる。
それは 基本的には 《アマテラス‐スサノヲ》体制の枠を超えないが しかし 日本の情況に固有の《プロレタリア=スサノヲ》イスムであると考えられる。さしづめ このようないくらかの不法行為形式の相互に対応する関係としての構造を描き その中に この節の課題であった《アマテラス以前》の問題にも包摂されたかと考える。包摂された恰好だと考える。
節をあらためよう。
(つづく→2008-05-13 - caguirofie080513)