caguirofie

哲学いろいろ

#31

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の一a 《純粋概念による考察》ということの性格について

純粋概念を用いて為すこの理論は 端的に言って 独語 soliloque のかたちに近い。もっとも これが 唯心論 spiritualisme / idéalisme としての純粋思想とは一線を画しているとは この本人が言うところであるが その性格について少し考えておきたい。

  • 《必要な》蛇足であると思ってつづるものである。起こりうべき批判に対して ただ沈黙しないがためである。言いかえると 本論は すでにそれとして完結していると なお断わっておきたい。なお この付録は 本論を書き終えて 二年有余ののちに為したものである。


《純粋概念による考察》という一種 独語に近い論述の性格について述べるわけであるが 初めに次のような諸点を確認しておこう。
第一に たとえばヘーゲルの思想は それが 一般形而上学であることによって ひとつの純粋思想であると言われる。広くキリスト教神学にも立っていることにもとづき 形相(イデア)の次元を中心とする唯心論に近いと考えられる。このとき そうなのではあるが しかし その思惟された形相じたいは 形相としては 或る真理(真実)を含み 従って ヘーゲルが批判されたというとき 必ずしもそれは この真理が批判されたことを意味しない。真理への接近の仕方ないし この真理からの帰還のあり方 これが批判の対象となっている。
このとき ここでは なお純粋社会学という一つの領域を立てそこに留まることを前提としたのであるが そうであるからには この接近の仕方に対する批判によって生まれるべき新しい探究のあり方・さらには広く社会的実践のあり方 これらを直接に扱うことには進まない。けれども 純粋思想によっても歴史的に獲得されたその真理というものの さしあたっての実践を抜きにした性格については やはり考えておこうということになっている。それを含むであろう。けれども 単純に言って 真理とわれわれ一人ひとりとの関係 これは すでに 実践である。
純粋概念による考察は 唯心論なる純粋思想にしても すでに 社会的な実践に激しく接しているというのが ひとつある。
第二に 純粋思想を基本的に否定する立ち場 これを広く一般に唯物論 matérialisme と言ってよいと思われるが これとやはり ここでの純粋概念による考察との関係を捉えることも必要なのであろう。それによって 上の第一点がよりよく明らかになる。すなわち この第二点は 第一点の裏返しであると言ってもよいが ここでは必ずしも 実践そのものにかんして論じようとするのではないから つまり 反・純粋思想の立ち場との関係を明らかにしようとするのであるから まとめて 実践の形式ないし広く方法にかんして 触れるのがよい。
したがって この二つの点をまとめて言っていくことができる。要は 形相――つまり《平等》であるとか《自由》であるとかのイデア――が われわれにとって 実践の形式上 どういう関係にあるのかを焦点とする。真理との関係の問題も そういうかたちに還元される。もっと簡単に言って 平等なる純粋概念が わたしとどういう関係にあるかは わたしと社会との関係 つまりは わたしと あなたとの関係が どうい人間的・社会的・歴史的な内容と情況にあるか これにかかわる。あとは 探究の仕方のちがいとなるであろう。
本論の一つの結論として述べたところ すなわち 《スサノヲの一編の愛のかたち》をさらに探究するにあたって どういう方法論が考えられるかに 焦点があたっている。その《愛》とは したがって 社会の問題のすべてにかかわっている。


まづ初めに われわれは 《スサノヲの一編の愛のかたち》と言うのであって 《形相――つまりたとえば 自由(自由競争)――の一編の真理のかたち》というのではない。キャピタリスムないし 市場原理のあり方 についての研究とは微妙にちがって 一人の人間を取り上げ これを方法においては どこまでも取り立て この一人のスサノヲ市民から出発するというのが 大前提である。ここにむしろ われわれの実践形式はあると言うはづである。これによって まづ唯心論による純粋思想派に対しても またそれを批判する唯物論による実践論に対しても われわれの立ち場を明かすものである。
それでは おそらく人類が普遍的に獲得したという形相と真理に対して われわれは いかなる形でかかわるか。反・純粋思想の立ち場も 形相は 物質(ないし質料)のかたちの人間の頭の中への反映(翻訳)であるとは言うが 形相の存在を否定するのではない。また この形相が 第一形相として 宗教という形態における神として 観念されたとしても 順思想派がこれを否定しないだけではなく 反純粋思想派も たとえ 神の観念形態(そのような集団心理)を否定したとしても 神という観念形態においても人間の形相が存在するということ自体を――つまり 神という言葉の存在じたいを―― 否定することへとは導かれ得ない。そしてそれは むしろ 一つに神とは質料関係のこれこれの形態のことだと謎解きをも行ない 一つにはまた 社会における社会と自己に対する何らかの実践において この実践を中心として そのような神という観念形態としての形相的な(つまり単なる思い込みのような)反映が起こりがたい情況の建設へと導かれることはあっても この神と神を抱く人に対する抑圧へとは ましてや その抹殺へとは 猛進していかないであろう。
いま一度繰り返して述べるなら 《形相と真理に対して いま われわれは どのようにかかわるか》 この問題の省察は どちらの派にとっても 現代的な課題なのである。
さて 唯心論に立とうがとあるいは唯物論に立とうと 人類の歴史において人類が――つまり 言葉を持ったことにおいて―― 自由という形相を持ったことは 揺らぐことのない事実である。自己の他者との《関係》において自己や他者の時間行為の自由という思想。言いかえれば 時間の形式としての自由は 神の前の・ないし法の前の・もしくは質料的な現実の条件の中の 平等という・いまひとつの形相をその内容とする。自己の他者との人間としての等位なる形式つまり形相。

  • この《内容》は 時間行為のそれとして 人びと相互の《関係(関係形式)》のことであるが つまり《内容》と《形式》は 一般に 組みを為す概念であるが 内容のほうは 関係にはたらく《ちから》の問題をも含むかも知れない。

そしておそらく これらの形相は 人間の社会にとって・人間として 真理であると誰もが考える。

  • 真理とは ここでは 漠然とした概念で使っている。本来は 絶対のことであろう。

自由であるとかあるいは平等であるとか またこれら自由や平等の実現に対しては一般に愛がその内実をよく示し またその実現の可能性を保証すると考えられている。こう述べることは 言うまでもなく全体として いま 形相の次元での議論であるが その条件をつけるならば そこには真理があると考えられていると見なして差し支えない。

  • ただし たしかに 愛の――真理としての・絶対としての――実現は 不可能であるという命題がある。とすると その愛に限りなく近づくというような思想形式として 愛の実現の可能性を 真理が保証するという恰好にもなる。

それでは この形相と真理に対してわれわれは どのようにかかわるか。
ここでは 純粋思想派の立ち場――たとえばヘーゲルの国家論(つまり 国家形態の中で 人は 自由であり平等であることが達成されるという場合)――も 反純粋思想派の立ち場――つまり一般的に言って 自由と平等の歴史的社会的な条件に対する歴史的な考察とそこから処方箋を出すという場合――も どちらも 詳しく見るというわけではないが 従ってただちに 《スサノヲの一編の愛のかたち》というわれわれの立ち場に立って これを考察することになるが それは 次のようである。
われわれは 《スサノヲの》と言って 一方で《自由〔という形相〕の / もしくは〔人間のないし神の〕精神の》とは言わず 他方で 《プロレタリアートの・つまり〔歴史的経済的な概念としての〕資本家的市民に対する賃労働者市民の》とも言わない。また 《愛の》と言って 同じく一方で 《精神もしくは キャピタリスム原理というイデアの》とは言わず 他方で 《資本家的市民と賃労働者市民との連関における〔後者の側からの〕闘争――これも ひとつの愛ではあるが――》とも言わない。
いま後者の点をもう一度言いかえるなら 一方で 《キャピタリスム原理(これも 自由の概念である)が人びとすべてに保証されているという種類の愛の》ではなく 他方で 《〔先発のスサノヲ・キャピタリストがアマアガリして(つまり アマテラスに変身して) 社会科学主体(つまり為政者)になりアマテラス圏の一翼を担うその〕アマテラス・キャピタリストに対するかたちでの〔後発で新しい〕スサノヲ・キャピタリストの新しいアマアガリへの社会階級的な闘争という種類の愛の》でもなく それらいづれでもなく そうではなく 《スサノヲの一編の愛のかたち》と言う。つまり 《歴史的な概念および現実であるスサノヲ者市民の個別具体的なかつその主観共同的な 私的かつ公的にわたる愛の 一編のかたち》と言う。それは 《社会全体としての一編のかたち》でもあるだろう。

  • このとき 《キャピタリスム原理》は 教育ないし自己教育によって 誰もが獲得できる。
  • 《アマテラス・キャピタリスト》と規定すれば それは 《すでにアマテラス公民に変身して 資本家的市民となった》場合を言う。特に その統治者としてのアマテラス圏を 社会主体として 構成するというところが 特徴である。《キャピタリスト》といえば もっとも すでに 資本家的な――資本家的な思考および行為の形式のもとに生活する――市民である。
  • 《スサノヲ者市民の個別具体的なかつその主観共同的な 私的かつ公的にわたる愛の》というとき それは 要するに かれに 全存在・全人格の問題が課せられていることを意味する。

このように主張するがごとく われわれは 形相と真理に対して その具体的な形態である自由や平等ないし愛の概念を 次のように考えまた位置づける。
(つづく→2008-05-23 - caguirofie080523)