caguirofie

哲学いろいろ

#19

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

4b 日本における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存

それは 近くは 親鸞イスムによるそれであり 遠くは アマテラスによる政治行為が 一面において まさに 初めに 資本家的市民の行為様式を採っていると見られるというものであった。生産と所有をノア的に つまり 神仏に一途に拠ることによって 私的に 蓄積し 固持するという様式である。この点について つづけよう。重要である。
この問題は 一言でいえば 種としての完結が 類としては破綻するという点に結び着いているかのような情況だからである。
アマテラスの場合はここでは措いて 予定に従って 親鸞のばあいをとって見よう。
もちろん この論点は ここでは ただ生産の世界というのではなく 法・非法・不法の混然一体となった世界として それを 特に生産の世界とつねに対峙する不法――つまり ここでは 宗教思想という芸術―― これの世界の実存を中心として論じることになる。
まづ ブッダの思想とは ここに関連する点で述べれば 各個人におけるブッダ(覚者)の遍在であり それを信じることであり その信仰を実践し実存することであり 具体的には 生産行為(広い狭いの両義に)における《欺かれ》に対しても その信仰と和解あるいは ゆるしを保って 種としておよび類として 生産・実存行為を続行するということである。《欺かれ》とは 突然の主題であるが 《時間の先後》の問題ととって まちがいではない。先にいる者が 欺かれる場合が多い。それでも 先を越すことが出来ないような《後の者》も多い。そして 《先の者が後になり あとの者が先になる》とも言われる。そういう現実としての《あざむき》の問題である。
これに対して 《末法》という・《世界》の危機は この信仰と和解の危機である。

  • ただし もちろん 法の世界・生産もしくは生活が 意識をつまりそこにおける和解という意識なる実存を 規定するという側面は 重要である。生産もしくは生活の危機とは きっかけとして案外 天変地異によるものであり またもちろん階級的差異によるそれである。

この末法に際して 親鸞の提示した再和解は まづ 種としての社会のまとまりを保ち おそらくアマテラス以来の政治行為の様式を変えなかった。

  • どの思想も 今まで おおきく言って この様式を変えるものではなかった。

アマテラスの政治(まつりごと)を 起源としてはそうではないが一応 初めの宗教とすれば 親鸞の提示した新しい《不法》行為としての像は その再形成(= Reformation =《アマテラス‐スサノヲ》連関体制の宗教的改革)である。

  • ここで少し触れておくなら 儒教は この親鸞の《不法》行為に乗っかるべき《非法》の世界でありその経営様式であり この《不法》を包むべき《非法》の世界つまり情感心理的秩序であろう。義理や理性のようなのであるが。

さて 親鸞イスムとは何か。
たとえば まづ 《悪人=極悪の凡夫こそが 弥陀の救いの対象である》とするとき それは 《後の者も先の者も 罪びとも義人も 同じように神の愛が救う対象である》というときの イエスによるカインの揚棄と さして違わないかのようである。そこには 取りあえず ともに 種としての完結を期す視点が見られる。そして 反面においては また まづ神の系譜においては 《後の者が先になり 先の者があとになる》という類的な和解が 神秘的な決定や予定によるものとされるとき・つまり そのように観念的なものとなったとき プロテスタンティスムは 資本家的市民の行為様式へとつながってゆく。他方 同じく反面において 親鸞のばあい 種としての三位一体の和解が 《悪人正機》という個人の内的な・観念的な和解へと変貌をとげることによって 自己による自己のための労働やその蓄積という《資本家的》的個人を用意する。
言いかえれば 《時間の先後》のひととおりの確立の上に 《先の者》としてにしろ《あとの者》としてにしろ その先後にはもはや無関心を――あるいは 開き直りを――標榜するのが 《悪人正機》という《不法》行為=つまり思想である。このことは 《アマテラス‐スサノヲ》構造においては 次のように考えられる。《悪人正機》に立つ実存形式は アマテラスおよびそのうちの《資本家的》部分の普遍一般化をもたらす。またそれが 一つの階級差異の揚棄でもあったであろうと考えられる。逆に言えば 《末法》までは カインにあたる《悪人》は スサノヲの例に見られるように 種として 政治行為を中心として 社会へと(あるいは社会的に)揚棄されていた。その揚棄の力が 社会的にも アマテラスのうちにも 存在していた。
末法は 《法》の末期であり また新しい法の芽生えとして この政治行為の社会的力の揚棄であった。この《棄てる》は アマテラス〔の直系〕による一元的支配のそれであり その《揚げる》は いい意味でも悪い意味でも 同じくこの政治行為の社会的普遍化と その上に立つ新しい揚棄された・ただし依然として観念的・抽象的に一元的なアマテラスの存続である。《この政治行為の社会的普遍化》とは みなが アマテラスのようになるということである。アマテラスの行為様式の一般化であり 世俗大衆化である。
すなわち 末法に際して 親鸞イスムの倫理によって 実存形式は 社会の一人ひとりのスサノヲの部分が 個体的に揚棄され 一人ひとりが その内にアマテラスを持った。そしてそのようなそれぞれ《スサノヲ=アマテラス》となったスサノヲたち かれらによる敵対関係――つまり 《法》の世界の矛盾関係――は 抽象的に 観念的に ただし観念が現実となるかたちで現実に象徴としてのアマテラスによって 均衡を保つという種としての完結のかたちを採った。その意味では 末法は 一つの大きな転形期を考えられる。みづからを《スサノヲ=アマテラス》と見なした者は アマテラス圏への階段をのぼってゆく。
この末法を通過したあとの種としての完結形態の中に 西欧社会の資本家的市民の行為様式が容れられたのか あるいは逆に 歴史時間的な順序は別にしても 概念としては あくまで《法》の世界の資本家的市民の行為が 末法以後の実存行為形式をかたち作ったのか それは 議論の分かれるところであろう。ただ この小論として言えることは 法・非法および不法は三位一体であろうし その三位一体は 西欧においても日本においても 原理として同一であろうし また 現実には 互いに混然一体となって 基本的には 矛盾であり 完結でありしているのであろうということである。従ってそのことは 実存行為形式の多重性が 形相もしくは形式として 同じく実存行為が 歴史的に言って 可塑性を有するということを意味するであろう。この点は 重要であろう。


現代における課題を ここで指摘するとすれば それは あくまで 以上の揚棄された《アマテラス‐スサノヲ》構造の中での完結は 抽象的で観念的なものとなるであろうという点である。その意味で たとえば ここでも 法の世界は 抽象的に完結した人間的労働(=アマテラスの契機)と 具体的・有用的な人間的労働(=対アマテラスにおける狭義のスサノヲの契機)とに分別されることになる。言いかえれば 《アマテラス=スサノヲ》という新しい形態は 実存としての狭義の生産行為が 分裂する。分裂して統合する。もし 労働行為において疎外が存在するとするならば ここでは それは 末法における揚棄の形態から発してくるものであり そしてその疎外の克服は まづ その末法における不法行為の再揚棄に拠らなければならないということになる。

  • ちなみに 《末法》という考え方が 日本にのみ固有のものではないと考えられる。類型的には 西欧においても 同じような把握がされうるであろう。《経済学》という《法》の誕生は それ以前の《法》の世界の崩壊を示すものとして 末法期にあたるであろうし さらにその《経済学批判》という新しい《法》の誕生は こんどは市民社会・経済学の末法期でもあると考えられるから。
  • また 単に《法》の世界の出来事のみに限ったことでもないと考えてよい。何故なら 《法》の批判ないし末法という場合 その法は 当然 法・非法および不法の三位一体のうちの法でであり たとえばヘーゲルの《法の哲学》の《法》とは むしろ三行為領域のすべてを含むものであり その《ヘーゲル法哲学批判》は 特に 不法行為としての新しい揚棄であると考えられる。もっとも ヘーゲルによる哲学体系の完成は 末法ではあるが もちろん 法の・観念的な しかしその限りで実存的な 明示的完成であったことは言うまでもない。つまり 同じように 日本においてのブッダ・イスムの末法は ブッダの法の・黙示的な完成(終焉)であったのかも知れない。


いづれにしても この節では 日本における法の世界=狭義の生産行為における実存を概観し 次のことを得た。
まづ《アマテラス‐スサノヲ》の体系がありそこには必ずしもカインもノアも生起する余地はなかったこと。ただしこのアマテラス体制以前については 保留している。
いわゆる《末法》において その末法揚棄は アマテラスおよびスサノヲの揚棄であったこと。すなわち アマテラスの普遍一般化およびスサノヲのそこにおける独立ないし復活 および《アマテラス‐スサノヲ》体系の観念的な完結の存続である。
独立したスサノヲが 変容し 普遍一般化したアマテラスを体現して――すなわち 《悪人正機》に立って―― 生産行為を為すとき そこには《資本家的市民》的行為様式も生まれるということ。またこの間に――明治維新を契機として―― 類型的にしろ 西欧市民社会の生産行為様式をも その《法》の世界において 受容したということ。さらにその西欧においては この資本家的市民の《法》じたいが すでに 末法にあるとされること。および その揚棄は プロテスタンティスム / 予定調和説 / 資本家的市民のノア的部分 ないし 一般に《ゆるし》の揚棄によるとされたこと。
従ってもし 日本において 新しい種としての完結形態がいま必要であるとされるならば それは 西欧のその社会独自の系譜をにらみ合わせた上で しかも たとえば親鸞イスムによる《末法》の揚棄の再揚棄に見出されなければならない余地が大きいであろうということ。《悪人正機》は 無関心であり開き直りであり つまり自己のよる《不法》行為の放棄という《不法》行為であり その意味での一種の《ゆるし》であり この《ゆるし》の揚棄が やはり 日本においても いま一度 問題となるであろうかも知れぬ。

  • その意味で 第一次の《アマテラス‐スサノヲ》関係には見出されなかった《ゆるし》が 日本においても生まれているとは言わなければならない。おそらく それは ブッダ・イスムの系譜による色彩にかかわると考えられるのだが。

節を改めて つづけて論じよう。

(つづく→2008-05-11 - caguirofie080511)