caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第二節 《ブラフマン》唯一非顕現神構造

§11b

繰り返すなら おそらくアジア的社会体系は 西欧的社会形成から 異質であるだろう。しかし 資本制社会においては むしろ その総枠組みないし幾何学的制度としては 類型的に同じ形成態を取って その内部において 観念的・抽象的になった旧体制ヰ゛シュヌないしブラフマンを擁しているものと思われる。もっとも ここでわれわれは 論旨を 全く 逆転させたかのようであるが そうではない。それは 次のようなのである。
つまりアジア的社会形態は ここで 資本制社会体制をわれわれの存在が商品形態を介するものである限りで 全面的に受容したのであるのが しかし それは 全面的に 西欧的社会形成態へと その歯車を変えて 同化・転化したのではない。と言わなければならない。東と西とは ここで 資本制社会という同じ基盤の上に立って 世界史的に相い交わったかに見える。しかし この言わば両社会体系の交接とも言うべき世界史的段階は――アジア的資本制社会においては その主役をなす《資本》という概念一つを取っても 《つねに アンシアン・レジームを構成する要因となったとは言え むしろ深層心理的には働く契機であるところのヰ゛シュヌないしブラフマンと 互いに連関して実存するシワ゛の その変容態としての自律の神》という概念において見るのが 第一原理〔の系譜〕なのであって 従って そのように 固有の《資本(=観念の資本)》という概念を持つことなどから―― そのまま両社会が その基盤を同じくしながら しかも互いに別のかたちにおいて それぞれの体系を展開してゆくものと思われるのである。この乖離は 次のように捉えられる。
すなわち 東と西とに乖離が生じる(生じていた)とするなら それは 《政治‐経済‐実存》のそれぞれ行為主体の存在様式 の違いによって生まれると思われる。具体的に言うなら 資本制社会というこの世界史の一段階をさらに未来へと転がしてゆく当の歴史的主体は 結論的に述べるなら 片や一方で 《独立スサノヲ‐〔観念的ながら解体はしない〕アマテラス》分化構造的存在であり 片や他方では 《基本的市民(歴史のかまど)スサノヲ=資本家的市民アマテラス》重層的統一構造主体であるからである。ここでもちろん 前者は 《社会主体・政治主体‐社会学主体・政治学主体》という分化構造に対応し 後者は 《社会主体・政治主体=社会学主体・政治学主体》という統一的な民主政構造に対応するものであることは言うまでもない。
いま いくらか歴史的に検討を加えよう。まづ《独立スサノヲ‐〔観念化の〕アマテラス》分化的主体とは 日本の歴史においては 明治維新期の《勤皇の志士》の類型が そのもっとも適当な具体例であると思われる。それは 《天皇》が 抽象的・観念的ながらアマテラスとして 志士スサノヲの懐の中に持たれたその構造的主体という類型である。むろん 資本制社会というその後の《自律》的社会構造においては この《観念のアマテラス‐志士スサノヲ》カースト構造は さらに発展をとげ 或る意味で揚棄されていると言わなければならない。なぜなら 《他により克服せられず みづから克服する自律の神》《天界より投下せられて 地界をめぐりゆくそのシワ゛の火箭》が 社会の総体的枠組を貫いていると考えられるからであり その内部において《シワ゛‐ヰ゛シュヌ / ブラフマン》の基本構造をなお保ちながら もはやそこでは 《勤皇》も《志士》も 全く浮かび上がってしまっているからである。《生産力》を形成し得ないからである。
ただ それでは この・半ば観念化し旧体制化した《アマテラス‐スサノヲ》体系 実質的に言って《スサノヲの独立変容》体制 のもとにおいては もはや 基本的な《スサノヲ‐アマテラス》連関を持つ歴史主体が 崩壊してしまったかと言えば そのとき 事は それほど単純ではないように思える。
この問いに答えるには 片や西欧的な歴史主体・《スサノヲ=アマテラス》統一構造をさらに明らかにしていくのがよいと思われる。すなわち この《独立変容スサノヲの復活・唯一支配》体制とも言うべき資本制社会において 未来を切り拓くべき《広義の社会主体=社会科学主体》なる存在は マール・マルクスの見た《プロレタリア》という歴史的概念=歴史的実存主体以外にないと まづ 思われるのであるが しかし おそらく――おそらくは――アジア的社会においては この《プロレタリア》とは そもそも何か。
たとえば 日本において 勤皇の志士は いた。しかしそれは 《スサノヲ‐アマテラス》分離構造の内に留まった。あるいは 同じく 勤労者は 存在する。一方では 《賃労働者》という古典的概念が この資本制社会における勤労者にまさしく当てはまるかのようである。他方で それが かつて《政治主体=政治学主体》なる存在であろうとする運動を起こしたことがあったであろうか。このことの意味は 微妙である。つまり この問いを言いかえれば 勤労者は まづ確かに《経済主体
経済学主体》なる存在であろうとはする。しかしながら このアジア的統一構造主体は 《自律の神》として振る舞いながらも そして 《政治学主体ヰ゛シュヌ》に対しても 自律・独立し むしろ支配的な立ち場にあるのではあるが まづ 勤労者シワ゛は この政治学主体ヰ゛シュヌとは基本的に分離していると言わなければならない。もしヰ゛シュヌとは分離して存在することが本当なら それは言いかえれば その背後には おおきく不在の共同観念ブラフマンがなお 優勢であると考えられる。このことへの価値判断は 二重の意味を持つ。つまり
政治学主体ヰ゛シュヌ》と 《経済主体・政治主体=経済学主体 シワ゛》との分離連関は 一般の《社会主体‐社会学主体》領域つまり市民のごく普通の日常生活が 経済価値から自由であることをまづ 示す。そして この生活(存在)の価値自由性が 積極・消極の二重の価値判断を促す。つまり ひとつには 社会形態(国家形態)的に言って アジア的市民が 《政治主体=政治学主体》構造から自由であることを示し そのことは政治学主体じたい・もしくは社会形態じたい(=《共同体関係》)の停滞性を意味するであろう。ひとつには そこで《政治主体・経済主体=経済学主体》構造を持ち得るが そのときなおも この経済行為領域の価値(その所有‐譲渡)体系が 等価交換の絶対的・統一的な幾何学体系から自由でありうることを意味するからである。そこには 《遊び=スサノヲ》があることを意味するからである。後者は むしろ ポジティヴは価値を有するかのごとく考えられる。
《市民スサノヲ〔‐アマテラス〕》が いわゆる方程式としての民主政からも自由であることを余儀なくされるであろう。そこで 《プロレタリア》の存在との関連で言えば 上に述べた後者の点からは このプロレタリアが――少なくとも現代においては――歴史主体概念として架空のものと見なされざるを得ない。前者の点からは 逆にこのプロレタリア概念によって《政治〔行為領域〕》の幾何学的かつ繊細の精神による新たな歴史化が望まれる。簡単に言えば このようになろう。だがしかし そもそも 《政治‐経済‐実存》の行為形式および大きな意味での生産様式が その一部のみの可塑性に耐えるものであるかどうかは 大いに疑問である。それに対しては 否定をもって答えねばならないであろう。従ってここにおいて アジア的社会体系と西欧的社会体系との差異は そのような意味において決定的ということになる。要は 民主政の 共同観念内部におけるアジア的形式および様式による再編成といったことにもなろう。
いま少し抽象的な議論ながら続ければ 《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》が まづ イエスの言葉(ロゴスにもかかわって)であった。図式的な理解であるが それを 実存(あるいは エートス)の観点から眺めれば それは 《神》が ブラフマンに 《カエサル》が ヰ゛シュヌ(アマテラス)に それぞれ対応すると考えられなくはない。そして いま 《実存‐経済‐政治》の全体の観点に立って眺めれば それは 《神》が むしろヰ゛シュヌ(アマテラス)に 《カエサル》は シワ゛(スサノヲ)に――つまりこれは そのとき経済学主体でもあるが―― それぞれ対応すると考えることもできる。もし後者の観点における図式を――つまりそれは キリスト教の・社会形態的な領域における翻訳としてであるが―― ちょうどアジア的なその固有の《アマテラス‐スサノヲ》分化構造であるとするなら それは 何を語るであろうか。いま途中の議論を端折って 結論的に述べるなら 一方で 《神‐カエサル》の分化構造は そのものに関する限りで 資本制社会つまり 《資本家的市民階級としてのアマテラス‐資本制的賃労働者であるスサノヲ市民》の経済的社会構成を形成すると考えて無理はないであろう。また他方で 《〈神〉に対応するアマテラス‐カエサルとしてのスサノヲ》分化構造は おそらく 順序を逆にして《経済(政治)主体=経済学主体としてのスサノヲ‐政治学主体としてのアマテラス(ヰ゛シュヌ)》といった資本制社会つまり 《経済‐政治》分離連関的社会構成を生み出すものと推理されるのである。
前者つまり 西欧の系譜においては――むろん イエスじたいにおいても その《神‐カエサル》分化構造の思惟基盤としては やはり 《アマテラス=スサノヲ》統一的構造(その人間像)があったはづであり―― その後の資本制的社会の発展に対しては(つまり その分化構造の資本制的発現に対しては) もとより カール・マルクスが異議を唱えたことになる。マルクスは 個体(スサノヲ)的な社会思想( socialisme )と社会(アマテラス)的な社会科学( political economy )とを 〔それまでには 観念的となってしまった古典的な哲学を基にして・つまり むしろキリスト教ヘーゲルの系譜を基にして〕 統一したとは 一般に 了解されているとおりである。《勤皇の志士》ではなく――つまりその分化構造ではなく―― 《プロレタリア》つまりその統一構造が この系譜において 発現すると見られたことは 言うまでもない。
そこで 一言で要約して言えば 《絶対唯一の顕現神》体系が やはり一本の赤い糸であったとするなら この赤い糸を アジア的社会体系においては それを欠くというのではなく そうではなく いま一つ別の形態において持ち続けたということになるだろう。もとより 未来に関しては 明らかにするところではない。ただこのような差異を明らかにしないでは 未来へとも進み難いと言わなければならないのではあるまいか。もう一点つけ加えるなら もしマルクスに対して消極的な見方をするなら ちょうどアジアの系譜においては《勤皇・志士》が社会的に土台から浮き上がってしまったとするならそれと同じように 《資本家的市民アマテラス》に対する意味での《賃労働者プロレタリア》の概念は 生産的な力を持ちがたくなったと思われる。なぜなら 一言で言って 《プロレタリア》は 初めにおいて 《基本的市民スサノヲ=資本家的(剰余蓄積かつ保守の)アマテラス》といった統一的構造を有する概念であったからである。潜在的な可能性として そうであるだろう。
もしこの仮言が迎えられるとするなら 現代は 特に 《経済〔‐実存‐政治〕》行為領域を中心に据えて共同主観された自律的・統一的な幾何学的体系が――キャピタリスムあるいはソシアリスムその他その他が それぞれ互いに―― その通底性をもって 知解されようとしており 言いかえれば反面で 《政治〔的アマテラス=ヰ゛シュヌ〕》行為領域の 動態的な共同観念体系が 復帰されようとしているかのように捉えられる。この点 われわれは 第二章において いくらかの論証を試みたいと思う。
第一章の 以上 第一節および第二節としては これまでに留め ただし次の第三節としては 《リグ・ヱ゛ーダ》に見る《黙示(啓示)性》による限りで いま一度 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制の未来へ向けてもの展開を捉えておきたい。それには すでに述べていたように特に 《ヨハネ黙示録》に拠る限りで イエスないしマルクスの見た 西欧的社会形成態の歴史的系譜を 合わせてたどってみることが もう一つの課題となるであろう。
あらためて この第二節の要約としては 誤解を招かない程度の《祭祀の場ブラフマン》の〔顕在的にせよ潜在的にせよ〕社会科学の中への復帰 言いかえれば 共同主観社会科学が――なぜなら 主権は スサノヲにあるから―― 《繊細の精神ブラフマン》を いかにデザインして 自己の交通体系の中に摂り入れることができるか これが 討議の対象になるであろう。(つまりあるいは マルクスその人の内では その《プロレタリア》概念には この《非在の力・ブラフマン》のようなものを 含ませていたのかも知れない。《市場の力――無政府的と政府的とを含めて――》に似ているというとき)。
(つづく→2008-09-02 - caguirofie