caguirofie

哲学いろいろ

#35

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の二b それでは《〔スサノヲ者の一編の〕愛〔のかたち〕》とは何か

 すべての善き天使とすべての神の僕(しもべ)を聖性の紐帯によって一つになし――しかしそれは 心をとおしてであって 心をとおして以外にではない―― 私たちとかれらを相互に結合し 私たちを神に服従せしめる(* つまり 自分自身を愛する)のが実に愛そのものである。だから 私たちは高ぶりの腫脹から癒やされればいやされるほど 愛においてより満たされるのである。

  • 身体の運動を 自己と他者において 類型的に形相的に 捉えるというのであって この類型・形相の源に(つまりそれは 生命に)おいてかき抱かれるとき 身体の運動(生活)に付着する腫脹や過去を引きずるような高ぶりからは自己を捉えない。よって 自己を この生命において愛し 他者が自分の隣人であるとかれは独語するであろう。

愛によって満たされる人は神によらずして 誰に満たされるであろうか。

  • これゆえに その独語から対話へと進み 他者・隣人によっても かれは満たされるのである。その逆ではないだろう。

さらに この形相を無化するべく アウグスティヌスは述べ進める。

 さて 私は愛を見る。そして出来る限り 精神(* 心)によって愛を見る。また私は聖書が 《神は愛である。愛に留まる(* ただし 形相への愛に留まるのではない)人は神に留まる》(ヨハネ第一書4:16)と語るのを信じる。しかし私は愛を見るとき――見るとき―― そこで三位一体(* 現実自由・自由現実)を見るのではない。ところが どうであろう。君が愛を見るなら 君は三位一体を見ることを君に見させるため気づかせよう。

  • すなわち 《日から日へ 栄光から栄光へ 変えられる》(それは 血筋によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず)の純粋社会学を見させるために気づかせたい。

すなわち 私たちが愛によって或る善(* それは自由なる行為の形式)へ動かされるために三位一体のみを現在せしめよ。

  • あの対話へと到るために より多くこの独語を 神のもとにあるようにして 自分のもとで 進む求め 対話への自由を獲得せよ。

(三位一体論 8・8)

なぜなら 自己の固有の時間とも言うべきこの独語は 自己のみから成る時間では じつは ない。そこに 他者を見ないわけではない。だから 

 私たちが愛(* あるいは 自己の時間)を愛するとき 或るものを愛しつつ愛するのは 愛は或るものを愛するということのゆえである。だから 愛そのものも愛され得るために愛は何を愛するのであろうか。実に何ものも愛さない愛は存在しない。しかし愛が自己自身を愛するなら それは愛として自己を愛し得るように 或るものを愛さなければならない。丁度 言葉は或ることを意味表示して しかも自己をも意味表示するが 言葉がもし或ることを意味表示することを意味表示しないなら 自己を意味表示しないように 愛もたしかに自己を愛するが もし自己を或るものを愛しているものとして愛さないなら 愛として自己を愛さない。したがって――したがって―― 私たちが 愛によって愛するものを他にして何を愛するのであろうか。
 それは 私たちが近くにあるものから出発するために 兄弟である。
(同上 8・8)

だから われわれは この《スサノヲの一編の愛のかたち》をここで インタスサノヲイスムと呼ぶことにしょう。インタスサノヲイスムと呼ぶ形相を愛するのではなく インタスサノヲイスムの実践を愛するのではなく インタスサノヲイストその人を愛するのである。その独語と対話を築くという意味である。
そこでこの第二の補注としては 最後に 次のアウグスティヌスを引用しよう。《三位一体》への序奏で助走のような箇所を。

 さて 私たちが次のような言葉を聞き かつ読むとき 心が燃えるのはどうしてであろうか 私は尋ねる。

 視よ 今は恵みの時 視よ 今は救いの日である。私たちの奉仕が批難されないように いかなることにも人に躓きを与えないようにし かえってあらゆることにおいても神の奉仕者として私たち自身を勧める。すなわち多くの忍耐にも 患難においても 困窮にも 行き詰まりにも 鞭打ちにも 獄中にも 騒乱にも 労働にも 徹宵にも 飢餓にも 純潔をもって 知識をもって 寛容をもって 慈愛をもって 聖霊において 偽りのない愛をもって 真理の言葉をもって 神の力をもって 両手に持つ義の武器により 光栄と恥辱によっても 悪評と好評によっても 神の奉仕者として自分たち自身を勧める。誘惑(いざな)う者のようで しかも真実であり 人に知られざるがごとくして しかも知られ 死ぬばかりでありつつ しかも視よ 生きている。懲罰を受けているようであるが殺されず 悲しんでいるようであるが 常に喜んでいる。貧しいようであるが 多くの人を富ませ 無一物のようであるが すべてを所有している。
パウロ:『コリント人への第二の手紙』6:2−10)

 私たちがこのような言葉を読んで使徒パウロへの愛に燃え立たしめられるのは 私たちがかれはこのように生きたためだと信ずるからでないなら どうしてであろうか。
 しかも 神の奉仕者はこのように生きるべきであるということは 私たちが誰かから聞いて信ずるのではなく 内的に私たち自身において あるいはむしろ 私たちを超えて 真理そのものにおいて凝視するのである。したがって このように生きたと信ずるかれを私たちが見るこのもの(* 形相)に基づいて愛するのである。・・・
 しかし 愛は或る愛する人の愛であり 愛によって或るものが愛されるのである。視よ ここに三つのものがある。愛する人と愛されるもの そして愛である。したがって愛とは愛する人と愛されるものという二つを一つにし あるいは一つにしようとする或る生命でないなら 何であろうか。それは外的・肉的な愛についてもあてはまる。しかし より純粋にして明らかな源泉から汲み取るために 私たちは肉を背後に措き精神に向かって上昇しよう。友人において精神は精神以外の何を愛するであろうか。それゆえ ここにも三つのもの すなわち 愛する人と愛されるものと愛があるのである。ここから私たちはなお上昇し 人間に許される限り より高いものを問い求めて行かなければならない。・・・
(同上 8・9−10)

したがって 独語と対話をなおつづけて われわれにゆるされる限り 問い求めていこうと思う。

(つづく→2008-05-27 - caguirofie080527)