caguirofie

哲学いろいろ

#34

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の二a それでは《〔スサノヲ者の一編の〕愛〔のかたち〕》とは何か

第一の補注(付録)で見たアウグスティヌスは その自由の福音を註解したのち 人が それではその自由を保証する現実の愛とは何かと問うたかのように それに答えて

 このゆえに 三位一体について また神を知ることについて

  • つまりそれは 人間の身体の社会的な運動とその心を 心をとおして読む以外の何か 幻想的で宗教的なことがらでは ない。その意味での三位一体について また神を知ることについて

私たちに課せられているこの問題で先づ考究しなければならないことは実に真の愛とは何か いなむしろ愛とは何か ということである。

と言って つづく第八巻第七章を論じる。われわれはこのアウグスティヌスとともに進むべきである。
まづかれは

 けだし 真実なるものこそ愛と言われなければならない。そうでないなら それは欲望である。愛する人が誤って欲求すると言われるように 欲望を持つ人は誤って愛すると言われる。真実の愛とは 私たちが真理に固着して正しく生きることである。それゆえ 私たちがその愛によって彼らが正しく生きることを欲するあの人間への愛のためすべての可死的なもの(* 有限なもの)を軽視しよう。かくて私たちは主イエス・キリストが御自身の模範によって私たちに教えられたように 兄弟の益となるため死ぬことが備えられ得るであろう。
アウグスティヌス:三位一体論 8・7)

とクリスチアニスムの原理において結論する。ここにわたしたちは 時代や地平的なちがいつまりその制約を見ないでもない。《兄弟の益となるため死ぬことが 〔愛のかたちとして〕備えられ得るであろう》との立論は 逆に 現代という時代あるいはシントイスム=ブッディスムの地平においても 通底していないとも言えない。《お国のために・朋輩のために あるいは 悪い例として お家のために・会社のために 死ぬこと》が 一つには スサノヲの愛のかたちであると考えられていた。また一つには それは 《国や朋友・同輩が生きることのため その益となるためにのみ限られる》という大前提のもう一つの側面を合わせ考えるならば 究極的なかたちとしては そこに 共通する心がないとは言えない。しかしもっとも この議論はあくまでやはり形相の次元のものであり(あるいは 《文字は殺し 霊は生かす》) 現代では これをなお強調して その愛を説くことは 歴史の上塗りであるかのごとく 迎えられるべきではなく またその愛の具体的なかたちこそが考察され実践されねばらないというものである。
それは あたかも《すべての可死的なものを軽視しよう(ただし 劣等視ではない)》とすることが 人その人を愛するためであるからには まわりまわって この《可死的にして有限で此岸的かつ世間的なもの》そのような存在として人を 自分自身のように 愛するということをその実質的な内容とするかのごとく このアウグスティヌスの立論じたいに予表されているからである。
さてかれは次に クリスチアニスムの愛の全体は 《神の愛と隣人の愛》(マタイによる福音22:37−40)に懸かっている述べ これを註解する。われわれは 現代とその地平の視点に立って(と言っても 世界史的な観点を排するものではないことは言うまでもない) 言わば《クリスチア二スム-シントイスム》連関(神神習合)といった一つの視点というよりはむしろ情況の中で その説くところを捉えて見究めようと思う。

  • なお ここではやはり 具体的なかたちを論じるのであるが 実践としてのそれではなく 実践の形式としての具体的なかたちに留まるものである。


まづ初めに 《可死的なものの軽視》《兄弟の益となるために死ぬ》ことが 一般に 死の美学であるとか厭離穢土といった世俗的なものの劣等視であるとかのような 或る種 純粋思想に導かれるものではない。そうであってはならないということ。この点は 再度 強調して触れておきたい。つまり 端的に言って そのような形相への愛――つまり 世俗的な欲望ではなくとも まちがった愛――であることは 目に見えて明白であり 形相による議論と心による議論のちがいは ここに明白であるからである。
あたかも 《血筋によらず 肉の意志によらず また人間の意志によらず》(ヨハネによる福音1:13)にこの究極的な愛のかたちへと導かれると言うのであって――つまり身体の運動には 根底にそのようなかたちが宿ると知解される―― 誰も《兄弟の益となるために死ね》とか 《世俗的なものを軽蔑せよ》とか説き得ないことは それら形相の背後の真理である。だから この形相と真理にもとづいてわれわれは この肉なる存在において 隣人を自己として 自己を隣人として 愛しあうことができる。
そこで

すなわち 彼は自分の固有の権能や意志によってこのようなこと(* すなわち 天使の能力を欲し 《兄弟のために死ぬ》ことをそれによって 或る形相の美へと高めるがごとく説くこと)を為し得ない人々が戦慄することを為し得るよりは 敬虔な意志によって全能者(* 生命・魂の源をこう呼ぶ)に結合されるほうが一層 力強いことを知っているのである。そこで 主イエス・キリスト御自身がこのような不思議な業をなしたまうのは それを驚嘆する人々に一層偉大なものを教え そして時間的な奇蹟によって心奪われた者 また不安な状態におかれている者を永遠的なもの 内的なものへ向き変えるためである。
(同上 8・7〔11〕)

われわれは このような《〈我に学べ。我は柔和にして心低き者なればなり〉と言いたまう》キリストを 説く説かないを別にして 仲介として しかしこの仲介も 純粋思想の中においてではなく 心によって捉えるその形相と真理にもとづきこそすれ わが心において 自己の時間(そこに 隣人はいる)の自由を・その行為形式を 無償で与えられているがごとく受け取って 形相ないし実践に 臨むのである。《自分の生活と行状における知識と理性によって各人にその持ち前を配分する》義なる心 というその愛は――これを そのような経営行為・政治行為と言って差し支えないが―― この原点から出発するのである。
また 純粋社会学は 純粋概念による独語といった性格の省察であるからには この求められた形相をなお無化するように あのお方への愛に導かれるようにして 他者(つまり隣人)への愛=対話へと 進むのである。独語から対話へと進むのである。

それゆえ 主はつづいて

 されば汝らは 憩いを見出さん。

と言いたまう。なぜなら 

 愛は驕らず(コリント前書13:4)
 神は愛である(ヨハネ第一書4:8)

 そして外にある喧噪から静かなる歓喜へとよび戻されている

 信ずる人々は愛によってかれと共に憩うであろう(知恵の書3:9)

からである。視よ 

 神は愛である。

もし私たちが〔この〕神の御許にあることを欲するなら 自分たちのもとに居られるお方を問い求める私たちが どうして天の高み(* 時に 純粋思想)と地の低き(* 時に 目的的革命実践論)へ走り行くであろうか。
(同上 8・7)

しかしわれわれは この言挙げを なお無化するように――けれどもそれは 無限連鎖ではない。《日から日へ変えられる》ときの旧い形の無化であり見直しである―― この《スサノヲの一編の愛のかたち》を 自分自身のもとで かたち作っていくのでなければならない。もちろん 一つには あの反純粋思想派に与するがごとく それは 社会的な歴史具体的なかたちのものでもなければならない。ただここでは それを扱うことが目的ではない。またその議論は このインタスサノヲイスムが その主観を共同化するとするとき 新しい時代の 各地平におけるそして各地平共同の―― inter-mura-ïsme = inter-ihé-capitalisme のごとくの――新しい共同主観を 或る一時点ではおよそ全体的に打ち立てることを願うとき この一時点の前後過程をつうじて 理論的な述作よりはむしろ その理論的な思索と現実の対話をとおして mura(自治態勢)および ihé-capital (生産態勢)の場 niwa において 実践されねばらない。この意味でなお 純粋社会学の分野にとどまって これを用意する。もしくは 並行的に《静かな歓喜》をかたちあるものに為すことを われわれは共有するであろう。

  • 一つの展望として この純粋社会学によって捉えたその《かたち》は 現実の身体の運動(生活)とともに 新しい文学作品として 興るものである。また 《日から日へ変えられる》と言うのであって 《われわれが これからどうなるか まだ分からない》と言ったほうがよい。

アウグスティヌスはつづけて述べる。

 誰も 私は何を愛するのか知らない と言ってはならない。兄弟を愛させよ。そうすればこの同じ愛をかれは愛するのである。

  • これが 文学・自治・経営・共同自治(政治)の行為自由である。

というのは かれは愛する兄弟よりも かれにそのように愛させる愛のほうをよく知っているからである。視よ かれは兄弟よりもよく知られている神を持ち得る。つまり 神が明らかにより知られている( notior )というのは 神がより現在的( praesentior )からである。また神がより内的である( interior )からであり さらに神がより知られているというのは神がより確実である( certior )からである。

  • 人は 隣人を愛するのであるが 隣人を容易に知解したと言うのではない。互いの身体の運動(生活)をとおして 類型的にこの知解を形成してゆくわけであるが それは 身体の運動の現在という生命ないし魂 そしてそれを心をとおして見ること この基礎にもとづいて――というとき この基礎は 同時に形相でもあるわけだが―― この他者を知ることを為す。そしてこのとき この基礎の基礎(なぜなら 誰も身体もしくは生命の最終の制作者ではなく最終の責任者ではない)としての神において より現在的・より内的・より確実であることは 経験律である。
  • 《実践》も この生命の生命(種子の種子)である神ほど 確かな者では無いであろう。愛である神は また 霊(風 pneuma )と呼ばれる。それは 魂の・魂に対する全能者とも言うべき愛にふさわしい。しかし 神である愛をかき抱き 愛において神をかき懐け。

すべての善き天使とすべての神の僕(しもべ)を聖性の紐帯によって一つになし・・・

(つづく→2008-05-26 - caguirofie080526)